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            友だちの部屋(西沢雅野)

★書評


『ある小さなスズメの記録』(クレア・キップス著・文藝春秋社刊)
      ーーウィークリー出版情報2011年2月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「小さくて、大きい」

 時は第二次大戦下。灯火管制の敷かれたイギリスで、元ピアニストの著者は瀕死のスズメの雛と出会い、保護する。翼と脚に障碍を持つこのスズメはクラレンスと名付けられた。
 本書には、彼が著者と生活を共にし、病を乗り越え、老衰による死を迎えるまでの十二年の歳月が綴られている。
 クラレンスはイエスズメという種類のスズメ。日本のスズメと似ているが、容姿や鳴き方は微妙に異なる。
 野生にあってはまず生きる見込みのなかったクラレンスだが、筆者の愛を一身に受け、数々の才能を花開かせた。ヘアピンで綱引きしたり、カードをくるくる回したり、人の手の「防空壕」に隠れたりする彼の芸は、空襲下のロンドンで人々の心を慰めた。後年はピアノ演奏に合わせて「歌う」芸も身につけている。これらの芸はクラレンスが自分の楽しみとして開発し、筆者が洗練された形に導いている(そういえば以前ロシアの猫サーカスを観た折、動物の個体の癖や好みを芸に発展させるやり方が効果的だと聞いた)。
 クラレンスの多芸ぶりは、そのまま彼の活発な知性と旺盛な好奇心を示している。「十分な勇気と強い個性があれば、畸形もまた一つの特性となりうる」という著者の言葉通り、クラレンスは自らの障碍を工夫と努力でカバーし、しかもその過程を楽しんだ。著者もそんなクラレンスのために工夫と努力を怠らず、常に快適な環境を作り上げてやる。
 息詰まる闇の一夜や空爆を共に切り抜けたこのコンビの、互いへの細やかな情愛、「巣籠もり」の幸福感は胸に沁みる。それゆえに、クラレンスの「最後の日々」は涙なくしては読めない。
 私の身近にもかつて、賢く優しく、死期を前にして深い精神性すら示した猫がいた。看取った母は「みんな、生きたように死んでいく」と述懐した。クラレンスの最期もその通りで、涙と同時に背筋の伸びるほど畏敬を感じる。
 日本ではカラスと並んで身近な鳥と思われているスズメだが、その数はここ二十年で半減したと言われているそうだ。営巣に適した木造建築や餌場が減り、スズメが少子化したことなどが原因らしい。小さな茶色い坊主頭が見当たらない町の情景はさびしいものだ。我らがクラレンスの仲間たちのため、庭に米を少しずつ撒くのが新しい日課になった。


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『無限』(ジョン・バンヴィル著・新潮社刊)
      ーーウィークリー出版情報2010年12月3、4週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「神の視点の一人称小説」

「神の視点」。私、僕など一人称で自分を表す語り手による物語に対し、登場人物全てが彼・彼女といった三人称で呼ばれる物語が、神のように俯瞰した立場から書かれているとき、使われる言葉である。
 ここでの「神」は比喩なのだが、近年この言葉を逆手に取ってか、神そのものが人格を持って物語を綴る「神の視点の一人称小説」が現れるようになった。本書もそんな中の一冊である。
 舞台はアイルランドの片田舎にある屋敷。ここに降臨している語り手は、古代ケルトの神でもなければ、カトリックの神でもない。ギリシャ神話でお馴染み、オリンポス十二神の一人であるヘルメスだ。
 ヘルメスは神々の伝令で、旅人の守り神。ひいては死者の魂を冥府へ導く神であるともされる。
 そんなヘルメスが見守っているのは、屋敷で死にかけている一人の老数学者・アダムと、彼を取り巻く面々。アダムの妻、息子と娘、息子の妻、使用人、訪問者、飼い犬……。
 ヘルメスは皆の間を縦横無尽に飛び回り、昏睡状態にあるアダムも含めた彼らの心の機微を陽気にさらけ出す。
 ヘルメスの父である天帝ゼウスも時折登場しては神話通りの好色ぶりを発揮、アダムの息子の美しい妻に戯れかかる。そんな父に呆れつつ、ヘルメス自身も人間に変装して彼らの間に立ち混じり、いたずらを楽しむ。
 人間以上に人間くさいギリシャ神話の神々ならではの行動で、だからこそ著者に語り手として白羽の矢を立てられたのだろう。
 不死の存在が死すべき人間にちょっかいを出し、新鮮な生命の刺激を享受する、という設定には既視感があるものの、微笑ましい描写となっている。
 「神が降りた」とか「魔が差した」という瞬間の出来事がすべてこうした人格神たちのいたずらであるとしたら、腹立たしくも可笑しいものだ。
 死にゆくアダムを遠く近く取り巻いて紡がれる夏の一日。悔恨や追憶に浸ったり、意外な新しい関係が芽生えたり。すべてを見ている「神の視点」は透徹しつつも温かく、死という容赦ないものに向き合いながらも読後感は明るい。ラストはヘルメスが「思いがけない幸運」や「家畜の増殖」をも司る神であったことが思い出され、にやりとさせられる。


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『解明される宗教』(ダニエル・C・デネット著・土社刊)
      ーーウィークリー出版情報2010年10月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「信じる者は救うのか」

私事だが昨秋、生まれて間もない子を亡くした。その後、約一年の間に「自分の前世を見てみないか」という誘いが一件、霊視による因縁話を交えた供養についての意見が一件、寄せられた。相手はいずれも友人だった。私の気持ちや魂を救う手助けを、と考えた上での提言だと思いたかったが、全体として私個人への思いやりより各々の「信じるもの」への傾倒の方が強く感じられ、謝意を抱くわけにいかなかった。
 そもそも、信仰や宗教とは何だろう。人生や人格の一部にもなるし、生活背景にとけこんで意識されないこともある。強いネットワークの基盤たり得、それゆえに敬遠や嫌悪の対象にもなる。
 私と友人との間を隔てたこの川は、どこへ流れてゆくのだろうか。考えの糸口を掴みたく、本書を手に取った。
『進化論的アプローチ』という副題にある通り、科学的・論理的観点から宗教の謎と矛盾に迫る内容だ。元々アメリカの読者対象の本のため、宗教事例はキリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教が中心。しかし展開される理論はそれら以外の宗教にも応用可能だ。
 信仰を持たない哲学者である著者は、宗教を強力な自然現象の一つと見做す。遺伝子のレベルではなく、文化を基盤とした自己複製子「ミーム」があるとする考え方についても紹介。
 信仰や宗教もこの考え方でいけば、人間の文化や社会の変遷に伴って進化の道を進んできた、生きものめいた観念である。
しかしこのミーム、人間に益するものなのか、寄生虫的なものなのか。ケースバイケース、結論はそう容易には出ない。だが、人がひとつの観念にとらわれると自分を思考停止状態にさせ、物事の選択の幅を狭くするのは確かだ。傍目には良いことと思えないが、本人が満足しているなら……しかし、「コレカラ利益ヲ得ルノハ誰カ?」。何かに利用されているとしても満足だろうか。

 著者は「信じることに意義がある」とする信仰者の態度に警鐘を鳴らす。宗教が崇拝に値するものなら、盲信や神秘主義のヴェールの蔭に隠れず科学的研究の対象となるべき、と説くのだ(山岸凉子の漫画『甕のぞきの色』も同じテーマを扱った秀作だ。ラストは「信じること」に少し身を寄せる形)。読後、「宗教」がスッキリ解明されたかというと、浅学のせいもありそうはならなかった。ただ、流れゆく先を知りたかった川の水の性質が冷静に分析されていて、心が鎮まった。


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『ハルムスの世界』(ダニエル・ハルムス著・ヴィレッジブックス刊)
      ーーウィークリー出版情報2010年8月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「笑えて怖い不条理作品群」

 ロシア文学と聞いて咄嗟に思い浮かぶ作品は何だろう。ドストエフスキーの『罪と罰』、トルストイの『アンナ・カレーニナ』……当時の社会や歴史を背景に、人間とは何かを問いかけながら展開する、重厚な物語群ではないだろうか。本書はそんな一般概念を覆す、シュールで切れ味鋭い短篇集だ。中には数行で終わってしまう超短篇もある。いずれの作品にも共通するのは、描かれているのが何も信じられない、信じない世界ということだ。ヒューマニズムは皆無、ハッピーエンドとは無縁。登場するものたちは他愛なく死に、無造作に殺し合い、。だが突然始まり突然終わるこれらの短篇を読んでいくうち、これが人生の縮図のように感じられてくるから不思議。甘い感傷や慰めはないが、各所に散りばめられているユーモアのセンスは抜群だ。訳出の妙も手伝って、思わず噴き出してしまう。プーシキンとゴーゴリが変わりばんこに互いの体につまずいてはぶつくさ言う戯曲調の『プーシキンとゴーゴリ』、殺人の凶器がなんとも間抜けな『最近、店で売られているもの』などは、お笑いの舞台でも観ているようなお茶目さで、作品の中では珍しく明るい調子だ。
 作品の幾つかは奇想天外なラストにも関わらず「それだけのことだ」とクールに締め括られる。世界はいつ何が起きるかわからない、突拍子もなく残酷な場所。大自然に生きる虫や動物にとっては当たり前のことが、人間社会に生きる我々にとっても言える。そう嘯く著者の声が聞こえてきそうだ。
 著者ハルムスはロシアのアヴァンギャルドを代表する作家の一人で、不条理文学の先駆者だった。スターリンによる恐怖政治時代に生きた彼は、知識人弾圧の対象となる。幾度か投獄され、最期は刑務所内の病院で死亡する。
 ハルムス作品はいつ破綻するか知れない現実をシュールの鏡に投影して描いた似姿であり、彼はそうすることとで人間の孤独を達観し、自らが一日一日を生きるよすがにしたのだろう。しかし心底「それだけのこと」と割り切れないからこそ、手を変え品を変え数多の作品を遺したのだとも思える。透徹した残虐性、言葉への偏執や揚げ足取りは幼児の性質にも通ずる。児童文学者として子供に人気のある作品を書いた、ということも頷ける。
 本書と重複する作品もあるが、未知谷刊の『ズディグル アプルル ハルムス100話』も併読したい一冊だ。

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『火山の下』(マルカム・ラウリー著・白水社)
      ーーウィークリー出版情報2010年6月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

 「酩酊の果ての勝利」

 二つの火山に臨むメキシコの町、クアウナワク。愛妻と離婚した元英国領事ジェフリー(小説中での呼び名は主に「領事」)は、この町で酒浸りの日々を送っている。一九三八年の「死者の日」に妻イヴォンヌが彼の元に戻ってくる。彼女を愛すると当時に憎んでもいる領事は、素直に和解できない。憎しみの理由のひとつには、少年時代からの友人であるフランス人・ラリュエルと妻がかつて関係したこともあるようだ。詩人肌の領事が酒に溺れるようになった背景には、現役領事時代にドイツ人将校焼殺に関わった過去もあるらしい。だがアルコール依存症による記憶障害や譫妄のせいで、彼を取り巻く人や事物の関係性は酩酊の霧に霞んで見えにくい。妻との絆が戻ったかに思えた矢先、闘牛見物に出かけた先で領事は突如姿をくらまし、自ら望む「地獄」の運命へと突き進む。
 冒頭のラリュエルによる回想の章を除けば全ては一九三八年の「死者の日」の話。しかし領事、イヴォンヌ、領事の腹違いの弟ヒューの視点による追憶や独白が重なり合い、熱を帯びて凝縮された、各人の一生分とも言えるような一日だ。終盤、尻に数字の「七」の烙印を押された馬が幾度も現れる。七とはイヴォンヌが領事を捨てた回数でもあるが、ユダヤ教の密儀カバラにおいては「勝利」を意味する数字だ。この馬が領事とイヴォンヌの元に運んでくる運命は、果たして勝利と呼べるものか、どうか。領事がカバラに傾倒していることは物語の随所に読み取れる。登場人物たちの営みを俯瞰して聳える二つの火山は、二つの三角形を組み合わせて作る星(ダビデの星)の象徴だろう。三角形の上向きの頂点はイヴォンヌの運命を、下向きの頂点は領事の運命を指し示す。相反する方向に引き裂かれたかに見える二人が実は一体であるという設定は、二人が抱く理想の「家」のビジョンが、互いにそうと知らぬまま一致している点にも見い出される。個々の人生としては破滅であり不幸に見えても、男女の有り様の原理には適った二人だったのだ。
 自身もアルコール依存症だった作者の自伝的要素を含むというが、「もう十分も酒を飲んでいない」など、酒に限らず何かに依存する癖のある者には思わず苦笑いの洩れる描写も。人間の悲しみとおかしみがぐるぐる「回る」が、不思議と悪酔いはしない本である。

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黒衣の修道僧(チェーホフ著・未知谷)
   
   ーーウィークリー出版情報2010年4月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「『信じる』ことの明暗」

 学修士コヴリンは、育ての親である園芸家・ペソーツキーの屋敷に身を寄せている。勉強のしすぎで神経をいためてしまい、転地療養をしているのだ。旧知の土地でコヴリンは快適に過ごし、ペソーツキーの娘ターニャとロマンスを育むほどになる。だが生命と色彩溢れるその場所に、突如異質なものが紛れ込む。一陣の強風と共に現れた、黒衣の修道僧だ。僧は自らを幻影と認めつつ、幻影もまた自然の一部だと言う。彼におまえは天才だと持ち上げられ気を良くしたコヴリンは、その後も度々訪れてくる僧と楽しく会話する。その様子は周囲には狂気としか映らない。修道僧はコヴリンの目にしか見えない存在なのだ。治療を受け、修道僧を見なくなったコヴリン。しかし彼はかつて感じた心の幸せを失い、人間的な魅力もなくしていた……。
 物語の最初から神経をいためており、幻覚らしきものの出現にも動揺しないコヴリンは、いわば「信頼できない語り手」だ。彼が最期を迎えるとき、読み手は彼にとって黒衣の修道僧は結局何だったのだろう、と考えこまされる。心に潜む自己肯定欲が人格化したものだったのか。もしかしたら真実天才であった彼に、天啓を与える神秘的存在だったのか。物語がもうひとつあぶり出すテーマは、「ぼくは幻覚を見た。でもそれが誰かに迷惑だったのかい?」というコヴリンの嘆きにある。親切心や探究心で人間の精神を「治療」しようとする身内や医者への非難は、単に元狂人の愚痴としてだけでは片付けられない切実さをもって響く。
 中島敦の『山月記』では、自分の詩の才能を信じてはいるが不安をも抱いており、そのために激しい自己撞着を抱えた男が、虎へと変化してしまう。
 自意識過剰の度が過ぎれば、いつか心身共に人間の器を保てなくなる、ということなのだろうが、コヴリンの場合はそれが自分の外部、修道僧の姿に投影されたのかもしれない。修道僧を、つまり自分の天才たるを信じ続ければ、コヴリンに別の道は拓けたのだろうか。
 「自分を信じる」。「才能を信じる」。これらは世間に氾濫するポジティヴな言葉だ。だが本書はそれらの言葉の蔭に広がる深淵を、静かな優しい身振りで指し示す。その身振りに背中がすうっと寒くなるうちは、まだまだ幸福な凡人なのかもしれない。

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ゲンちゃん獣医になる(浜なつ子著・角川つばさ文庫)
   
   ーーウィークリー出版情報2010年2月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「そして、少年は強くなった」

  北海道の旭山動物園といえば、それぞれの生態に合った施設で動物たちが生き生き過ごす姿を見られる動物園として大人気だ。坂東元氏(ゲンちゃん)は、そんな旭山動物園の運営に獣医として、また園長として携わる人物。その少年時代の物語が本書である。獣医になることそのものではなく、彼が獣医を目指すに至る成長過程に焦点を当て、一部に創作を交えて描かれている。
 お世辞にも周囲とうまくやっていけるタイプではない、「きんちょう症」の少年、ゲンちゃん。父親の仕事の都合で転校を繰り返し、その度にクラスに馴染めない。いじめの対象になることもある。しかしゲンちゃんの生活は悲愴ではない。好きで好きでたまらないことがあるからだ。それは昆虫や小鳥などの生きものを観察したり、飼ったりすること。温かく見守る家族の存在も大きい。本書が。ともすれば甘口になりがちな児童向け読み物と一線を画する点は、生き物たちの生死や少年の行動の残酷さを隠さず描いているところだ。自分が子どもに好かれるという自負があるために、なつかないゲンちゃんを嫌う小学校の担任教師の描写も非常にリアル。しかし著者が物語の中で最も伝えたかったことは、そのリアルさと対極を成す、ファンタジーの部分に込められているようだ。
 あるときゲンちゃんは、古い洋館の庭の池を通じて、不思議な喋る虫たちの世界を垣間見る。彼らがてんでに歌う歌は美しく一つに和する。だが皆が仲良しなわけではない。互いが互いの存在を認め合っているだけだ。「友だちってひつようなのかね?」虫の長老の発する問いかけは、必要ではないという前提に立っていることが寧ろ清々しい。
 彼がゲンちゃんに教える「相手がそこにいてもいい」というスタンスは、力の強いものが弱いものに対して示す優越の姿勢とは違う。たとえ自分を捕食しようとする相手でも、その存在を否定はしない、という受容の心意気だろう。虫の世界で認められ、自己の内面の強さに目覚めたゲンちゃん。あるきっかけで「獣医になる」という目的を抱き、そのために更に強くなるべく決意する。努力や知力、決心は、人間が生きものとして生きるためにも大切な「強さ」であることを考えさせられた。孤立感やいじめに悩んだとき、生あるものの死に不条理を感じたとき、年齢を問わずぜひ読んでほしい一冊だ。

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最後のユニコーン(ピーター・S. ビーグル著・学習研究社)
   
   ーーウィークリー出版情報09年11月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「端正なファンタジー作品 後日譚の楽しみも」

 最初にこの作品を読んだのは十代の頃、鏡明訳でハヤカワ文庫から出版されていたときだった。『指輪物語』や『ゲド戦記』の洗礼を受けた後で読んだせいもあるが、かなり地味で、体感温度の低いファンタジー作品という印象を受けた。もっと正直に言えば、少しつまらないなあ、と思ったのだ。
 主人公は、とある森にただ一頭住み着いたユニコーン。彼女は自分以外の仲間がすべて「赤い雄牛」に狩りたてられて地上から姿を消したことを知る。彼女が仲間を探索する旅に、魔法を使えない魔術師のシュメンドリック、盗賊団にいた女モリー・グルーも参加。やがて一行は「赤い雄牛」を擁するハガード王の城へと辿り着く……。
 ユニコーンその他の幻獣たちの造形は表現こそ詩的だが型通りだし、ハガードや「赤い雄牛」に象徴される悪や権力も非常に抽象的だ。しかし、無能な魔術師シュメンドリックが、ついに存在の内奥から湧き上がる真の「魔術」に満たされる場面は深く心に残っていた。二十代になってから文庫を再読してみたのもそのためだ。すると以前は見えなかった魅力的な箇所が次々見つかった。見世物小屋に捕らわれたハルピュイアの「本物」ゆえの恐ろしさ。それに固執する興業主フォルトゥーナの愚かしさ、切なさ。ただの小うるさい登場人物だったはずのモリーが、自分の作った料理を食べた人間を悪く思えなくなる性質だという点にも目が留まり、急に彼女が母性を帯びた好ましい存在になったりした。
 そして三十代の今、手に取った本書は全面新訳、しかも完全版。その上、本編の後日譚である短編「ふたつの心臓」が併録されている。この短編では年齢を重ねた後の主要登場人物たちに再会することができ、同窓会のような気分を味わった。また、訳者あとがきに抜粋された作者の言葉から、『最後のユニコーン』が「古典的なヨーロッパのフェアリーテールへの愛をこめたパロディ」であり、著者が敬愛する「作家たちに対するオマージュ」であったこともわかった。
 若い日に感じたこの作品の体感温度の低さは、ここに由来していたのかと納得した。読む者の身をも焦がすような刺激的な創作世界でこそないが、透明感を帯びた端正な物語世界は新訳でも変わらない。
まさにユニコーンそのもののような作品である。
 



ぼくを創るすべての要素のほんの一部(スティーヴ・トルツ著・ランダムハウス講談社)
   
   ーーウィークリー出版情報09年9月3・4週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「奇妙な、しかしありふれた関係の面白さ」

 どんな家業にせよ、二代目というのはとかく葛藤の多いものだ。親がすぐれておればプレッシャーがかかる。逆に昨今の二世議員のように、悪癖の因習を行えば、親以上に憎まれたりもする。『ぼくを創るすべての要素のほんの一部』……この長い長い邦題を持つ長い長い物語も、そんな父子の葛藤を扱っている。ただし引き継がれているのは家業ではなく、性格と、思索し、それを書きつけることへのこだわりだ。
 父の名はマーティン。幼い頃、病気で四年余に亘る昏睡状態に陥った彼は、母親が読み聞かせる数多の本に睡眠学習を施され、該博な知識を得て目覚める。だが彼の存在は、カリスマ的悪党である弟テリーの華やぎの前には格段に影が薄かった。弟への嫉妬と劣等感に苛まれつつ、自らの知性に恃むところも大きいマーティン。彼は計らずも設けることになった一人息子・ジャスパーを、徹底的に自分の影響下で育てようと目論む。成長したジャスパーはこれに反発。互いに根深い近親憎悪を抱きながらも隔絶されることはない父子に、様々な珍妙な人間関係が絡み、壮大にして卑小な物語が綴られていく。
 そしてすべては終盤に現れる、ある仏陀的人物の掌の上の出来事だった……と見せかけて、物語はその掌の上をさえするりと滑りぬける。ラストでジャスパーの長年の葛藤を和めるひとつの「気づき」は、考えてみれば至極当たり前のことだ。しかし、偏屈で、やることなすこと裏目に出る父親の遺伝子に呪縛されている……という強迫観念の中で生きてきた者にとり、これに勝る救いはないだろう。
 主人公父子が行動より思索が得意であるだけに、数々の文学作品や哲学書からの引用、それに関する知的な(時にはおちょくった)考察、時間差で「なるほど」とわかる暗喩や皮肉な言い回しなど、言葉の豊かさ、楽しさにたくさん出会えるのも醍醐味だ。ジャスパーの回顧録にマーティンの手記や遺稿が挟み込まれ、息子と父の視点と声とが螺旋を成して響き合う物語。己を表現し、また遺す為に、書くという行為に二代に亘って依存する様を愛情深く揶揄するふうでもある。登場人物たちの奇矯なふるまいがきわめて特異であるために小説として面白く、それでいて彼らの関係性が実にありふれた親子兄弟のそれであるために、読む者の共感を呼ぶ話でもある

 


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第七官界彷徨(尾崎翠著・河出書房新社)
   
   ーーウィークリー出版情報09年8月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「共に彷徨う第七官界

  タイトルからして不思議である。第七官界を彷徨するといって、そもそも第七官界とは何なのか。ファンタジックなものを想像してページをめくるとそこには「よほど遠い過去」の東京の情景があり、全編にこやしの匂いがうっすらと立ち込めている。
 主人公は詩人を志す少女・小野町子。兄二人と従兄が暮らす家で女中仕事をしながら、人間の第七官に響くような詩を書きたいと願っている。しかし第七官が何なのかは、実は町子にもはっきりわからない。人間の五官と第六感を超えるものなのか、仏教の唯識論で言うところの七識(我執)なのか。
 町子自身は、それを「広々とした霧のかかった心理界」と思ったり、「二つ以上の感覚が重なって呼び起こす哀感」であり、失恋しなくては得られないものだと考えたり、花粉のような細かい粉の境地ではないかと思ったりする。そんな彼女の心の彷徨いが「第七官界彷徨」なのだろう。
 物語は、少女時代の一時期を回顧する町子の語りによって進む。それによって浮き彫りになる彼女の「変な家庭」が面白い。まず兄の一助。彼は分裂心理病院の医師だが、とある女性患者に治療以上の関心を持ってしまっている。もう一人の兄・二助は肥料学を研究する学生。自室でこやしを煮ては、二十日大根や蘚(こけ)を育てるのに余念がない。従兄の佐田三五郎は音楽学校受験生。愚痴っぽく意志薄弱でいい加減、今で言うならダメンズの代表格のような男だが、その気取りのなさゆえか女性受けはいいようだ。
 彼らの身には大事件や大問題は起こらない。朧のような日常に、彼らなりに真摯な悩み事や恋の波紋は生ずるものの、いずれもまた朧の日常に取り込まれてゆく。かといって物語がつまらないわけではない。二助の蘚が「恋をする」ときに放出する花粉。それがこやしの匂いと相まって行間を漂い、読む者をぬるい陶酔へ誘う。独特の語感に溢れた文章、芝居の台詞のように主語のはっきりした登場人物たちの独白も、妙に記憶に残ってしまう。
 ことに一助と二助が、蘚の恋愛を人間の恋愛の参考にできるかどうかを話す件は、リズムよく続く会話に狂言のような趣さえある。気がつけば、読者もまた、定義のよくわからない「第七官界」を彷徨させられている。そんな浮遊感を味わえる小説だ。




あの庭の扉をあけたとき(佐野洋子著・偕成社)
   
   ーーウィークリー出版情報09年6月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「庭と扉と佐野洋子」

 「庭」は人間が自分たちの住空間に取り込んだ、自然という異界の一部。「扉」はある空間とある空間を隔て、同時につなげる存在。どちらもファンタジーやSFの格好の題材であり、これらを扱った秀作は数多い。そんなふたつの題材を佐野洋子という個性的な書き手がファンタジーに仕上げたら、どんな話になるのだろうか。そんな興味から本書を手に取ってみた。
 五歳の「わたし」が父との散歩中に見つけた廃虚のような洋館。そこに越してきた偏屈者のおばあさんは、あっという間に館を花屋敷に変える。やがてジフテリアで入院した「わたし」は病院で謎めいた女の子に出会う。女の子は「わたし」を連れて不思議な美しい庭を抜け、扉を通り、とある部屋に出る。そこで「わたし」は、一人の人物の記憶の中にある情景を垣間見ることになる。それは人一倍強情っぱりな少女と少年との、愛の物語の断片でもあった。
 強情である、ということがこの話の主要人物たちの共通項である。「わたし」も「おばあさん」も、少女と少年も。融通の利かない世渡り下手ではあるかもしれないが、強情者の強みは、一度守ると決めたものは徹底的に守り通すことだ。そのすがすがしさが、「おばあさん」の咲かせるバラの香りのように物語を包む。謎の女の子の正体はすぐにわかるし、庭を媒介として一人の人間の現在と過去の姿に邂逅する、という設定も新しくはない。味わうべきは強情賛歌とでもいうべき文章の詩的なリズム、そして肩肘張った登場人物たちの、それゆえに愛おしい生き方だろう。一人の人間の中に記憶という形で生き続ける様々な時間。他人の目には見えないその時間の積み重ねが自我を作る。その自我が周囲の環境を作る。強情っぱりの作った庭は意地が通ってさぞ見事だろう。我が家の庭のバラはきっと彼らに「貧相」とくさされるだろうなあ、と想像逞しくして苦笑いしてしまった。そんな現実味が、佐野洋子作品の魅力でもある。
 併録の『金色の赤ちゃん』は、奇異な外見をし、知的障害もある「とも子ちゃん」と「わたし」がふとしたことから魂を触れ合わせる物語。二人が見た「金色」は幻想なのか、存在の本質の色なのか。印象に残る短篇だった。 



『世界文学全集2−07 精霊たちの家(イザベル・アジェンデ著・河出書房新社刊)
   
   ーーウィークリー出版情報09年4月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「マジック・リアリズムの傑作」

 物語世界に非現実的事象と現実が共存している「マジック・リアリズム」の手法も共通しているが、『精霊たちの家』において印象的なのは、馬ほどある大きな犬や緑の髪の美女など、どんな非現実的存在の描写にしても必ず生々しく、肉感的であるところだろう。
 炭鉱夫から富農に、そして政治家にまでのし上がったエステーバン・トゥルエバ。物語は彼の人生を縦糸に、その妻クラーラと娘ブランカ、孫娘アルバの人生を横糸に織りなされる。それは一族の歴史のタペストリであり、アジェンデの叔父が大統領を務めた母国チリの現実の投影でもある。
 登場人物中、最も魅力を感じさせるのがクラーラだ。いつも夢見心地で、幼い頃から手を触れずに物を動かしたり、予言をするなどの超能力を発揮。精霊と話すこともできる浮世離れした女性だ。夫の農場が地震で大打撃を被ると、しっかり者のお母さんに変身する柔軟性もある。だが危険が過ぎるとまたうっとり、ぼんやりの日々。
 やがて台頭してきた社会主義の波はエステーバンの農場にも押し寄せる。その先鋒となる農場の青年とブランカの恋は破綻。二人の愛の結晶・アルバが成長した頃には、一族の守り神のような存在だったクラーラは既にない。クーデターにより政権を握った軍部が暴政を敷く中、ゲリラの若者を愛したアルバの選んだ道は……。
 クラーラからブランカ、アルバへと世代が移るに従って、一族を取り巻く神秘と不思議の色は薄まり、酷薄な現実の血の色に取って変わられる。それでも生命は彼女たちの胎に宿り、一族の誰かの何がしかを連綿とその身に受け継いでゆく。その繋がりにこそ作者は最大の神秘を見出しているのかもしれない。だとすればタイトルの『精霊たちの家』とは、女性そのものであるとも言えるのではないだろうか。 編者の池澤夏樹は、世界文学全集の一冊としてこの作品を選んだ理由に「(前略)一族の大きな物語は、読み始めたら最後のページまで進むしかない」と記す。その言葉通り、読み出したら止まらない吸引力をもった小説だ。

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『だまされた女/すげかえられた首』(トーマス・マン著・光文社刊)
   
   ーーウィークリー出版情報09年2月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「愛欲と昇華の物語 二編」

 トーマス・マンには重厚な長編小説作家というイメージがあるが、本文庫収録の『だまされた女』『すげかえられた首』の二作品は短編だ。といっても、登場人物たちの戯曲もかくやの饒舌さ、マン特有の畳み込むような文体は変わらない。
 『だまされた女』の主人公・ロザーリエは自然愛好家の未亡人。素朴にして賢明、魅力に溢れた女性だが、閉経期を迎えて気持ちが滅入り気味だ。
そんな彼女が、息子につけた若い家庭教師に心惹かれ始める。娘のアンナは母の恋に不吉なものを感じるが、ロザーリエはそれを「魂の春」と呼び、恥じらいながらも尊ぶ。やがてロザーリエの身にある「奇跡」が訪れて、彼女を狂喜させるのだが……。ロザーリエが人好きのする性格に描かれているだけに、物語のタイトルは酷いほど冷静な直球で、読後の胸を抉る。ある種の宗教的恍惚に浸る女性の有り様に、砕けた言い方をすれば「ツッコミを入れた」容赦なさ。ただ、幸福とは何かを問われたとき、それは各自の意識が決めるものだと答えるならば、ロザーリエは真に幸福だった筈だ。
 
『すげかえられた首』はインドの古い伝説を下敷きにした異色作。二人の男性と一人の美女との三角関係だ。美女は、商人で知性溢れる夫を敬愛しているが、鍛冶屋で牛飼いでもある男性に肉体的関心を抱く。彼女を愛する男性たちは、元来深い絆で結ばれ、互いに憧れあう友人同士だ。それぞれの心を知った三人は三すくみの状態で旅に出、カーリー女神に邂逅する。女神の神助を得たある事件の後、彼らの三角関係は究極の昇華に至る。
 切望するものを手に入れる喜びと、それに付随する幻滅。いつの世も変わらない人間のエゴイズムが、神話的世界の舞台で展開する。ラストは、密教で三角形は火を象徴するということも想起させる。多くの腕を持ち、死体や骸骨に飾られたカーリー女神の姿態には、その過剰なエネルギーにおいてマンの文体と響きあうものがある。
 カーリー女神の神像は、男神シヴァ像を踏みつけているのが普通らしい。これを、男性原理に対する女性原理の優越、と見ることもできるとか。巻末の解説にある『だまされた女』において「女は舞台、男は道具なのだ」という解釈にも通じる見解だろう。

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『山羊の島の幽霊』(ピ−ター・ラフトス著 ランダムハウス講談社)
       ーーウィークリー出版情報08年11月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「生と死のシーソーゲーム」

 愛妻を喪い、生きる意欲をなくした主人公シプトン。職も故郷も捨てた彼は、山羊しか住むもののない無人島にやってくる。自ら命を絶つために。だが、いざとなるとなかなか決心がつかない。そんな彼の前に一人の自殺者の幽霊が現れる。フィンチと名乗るその幽霊は、自分を自殺に追い込んだ者への復讐心に燃えていた。シプトンはフィンチの強い意志に押され、気がつくと彼の復讐を請け負っていた。フィンチの復讐相手がいるという巨大な建造物「大学」に辿り着き、大学組織の一員となることに成功するシプトン。大学内部は、そこに蠢く人間たちを含めて極めて複雑で風変わりだ。幽霊は一向に具体的な指示をくれない上、大学の図書館で「暴動」に巻き込まれたシプトンは満身創痍となる。紆余曲折の末、ようやく目指す幽霊の復讐相手を見つけるが……。
 冒頭からへたれきった主人公。その思考は自殺願望と延命工作の間を振り子のように揺れ、せわしない。その揺れに共振したように、彼の焚き火の側に出現する幽霊。民話「サトリの化け物」を髣髴とさせるこの秀逸な滑り出しに思わず引き込まれてしまう。
 生にも死にも軸足を置けない危うい心理状態を、幽霊につけこまれる弱さとして描いた解釈が古くて新しい。
 死ぬに死にきれないならば生を謳歌する者への復讐を、と持ちかける幽霊はさながらキリスト教における「荒野の誘惑」の悪魔だ(そういえば山羊は悪魔を象徴する動物でもあった)。
 最初は親しみさえ感じさせる幽霊が徐々に威圧的になり、主人公を支配しようとする過程は不気味。安易に彼に同調した主人公が陥る悲惨と、そこからの急展開は生と死のシーソーゲームを見ているようだ。「大学」の描写や、学者が論じる様々な虚学の理論には読み疲れてしまう部分もあったが、シュルリアリズムの絵画の中に迷い込んだような独特の架空世界はみごとに構築されている。他人の頭の中にある、一つひとつは不条理だが全体としてはよく整理された夢のファイルをのぞかせてもらった、という読後感。エピローグでは、この物語の原題が「THE STONE SHIP」なのも納得なとんでもない出来事が起こる。これは一体どういうことだろう、と唖然としている間に主人公が選ぶ(であろう)ある結末。ハッピーエンドなのだと思う。

 

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『シズコさん』
(佐野洋子・新潮社)
         
ーーウィークリー出版情報08年9月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「壮烈な母子関係の記」

  よく「姥捨て山」になぞらえられる老人ホーム。肉親を入居させた人が自らその例えを口にする場合、それは多分に、身近な者の命を他者の手に委ねてしまった、という後ろめたさの響きを含む。著者もまた、呆けた実母を老人ホームへ預け、後ろめたさを感じていた一人だ。「私は正気の母さんを一度も好きじゃなかった」と綴る著者。
 それを負い目に思うがゆえに、著者は身銭を切って母親を高級老人ホームに入れる。たまに訪れる母親との間には、思いのほか平穏な時間が流れるようになる。神様のようになった母親に触れながら、著者は母親と自分の確執に満ちた過去を振り返る。
 母親「シズコさん」は七人子どもを生み、三人に死なれ、夫にも先立たれた。終戦後の混乱の中で大家族を切り盛りする有能な主婦だった彼女は、反面、見栄っ張りで情にとぼしく、ありがとうやごめんなさいが言えない。
 そんな母親に虐待同然の扱いを受けながら育った著者。屈折を飲み込み、反骨を鍛え、やがて絵にも文章にも才能を発揮する芸術家として花開く。しかし心の中では自分の母親を愛せないという事実が堅くしこっている。
 著者、佐野洋子は凶暴なまでに正直な言葉を持つ人である。好きだった父親についても、母親を次々妊娠させたかどで「あれはけだものか。けだものだったのかも知れない。」と容赦ない。その舌鋒は己にも向けられ、母親につれない仕打ちをした後で「ゴメンネ、ゴメンネ」と言いつつも、「あやまったからって誰がゆるすか、私だってゆるさない。」と手厳しい。
 同時にその言葉にはリアルな体温もこめられている。著者が母親の皺深くなった小さな手を握り「涙がたれて来た。」とつぶやくとき、単に「涙が流れた。」とあったのでは伝わらない、頬をたらたら濡らす涙の、どこかしつこい生温かさがわかるのである。
 本書は雑誌の連載をまとめたもので、一章ごとに読みきりになっている。章の始めでかつての壮絶な母子の逸話が語られ、終わりに呆けた母親との神がかったやりとり。その繰り返しは、寄せては返すさざ波かフラクタルの曲線を見ているようだ。
 とかく幻想を抱かれがちな、母子という関係。著者とシズコさんのそれは自我と自我との戦いに他ならないが、それぞれが生きる意志に溢れて眩しい。

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『氷』(アンナ・カヴァン著・バジリコ出版)
         
ーーウィークリー出版情報08年8月2、3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「主人公は氷のヴィジョン」



 あるとき、世界規模の異常気象が起き、かつてない寒波が人々を襲う。氷の力に屈して滅びてゆく国々。生き残った人々の絶え間ない抗争。主人公の「私」は、とある国の重要機密に携わる身だ。しかし迫り来る人類の終末を目前に任務を離れ、己の心の欲するままに旅を始める。その旅とは、かつて愛した一人の少女を追い求める旅だった。白銀の髪と華奢な肢体。か弱く孤独な彼女は、男から男へと流れ流されて生きている。
 虐待されて育った少女の犠牲者のような表情がそうさせるのか、少女の庇護者は常に彼女の加虐者でもある。少女が「私」を捨てて夫に選んだ男性も、少女を拉致した「長官」も、暴力と高圧的な態度で少女を支配する。
 「私」は「長官」の支配力に魅了されつつ、彼の手から少女を助け出そうと奮闘する。そんな「私」の中にもまた、少女へのサディスティックな欲望は潜んでいる。男たちの少女への執着は、愛情というよりむしろ強迫観念的なもので、その点についてだけは支配関係が逆転していると言える。特に「私」の少女への執着心は病的なほどだ。男たちと少女、加虐と被虐の危うい関係が燠火のように行間を焦がす。そしてその火をも消し去ろうと忍び寄ってくる氷の存在感が寒々しい。
 苛烈に凍てついてゆく現実世界と、「私」が頻繁に陥る退廃した幻視の世界。交互に現れる二つの世界が織り成す物語は氷雪のタペストリであり、倒錯した愛のファンタジーでもある。無国籍で綴られる上、主人公たちに名前も個性も付与されていないため、寓話としても読める。奔放に行動する「私」の資金や移動手段が決して尽きないところはご都合主義に映る。
しかし、この物語の真の主人公は世界を覆う氷であり、リアルであるべきは氷がもたらす終末のヴィジョンだけなのだと、読後に納得した。
 翻って私たちの現実世界を眺めれば、温暖化が叫ばれる昨今だ。しかし映画『デイ・アフター・トゥモロー』で描かれたように、温暖化の後に氷河期がやってくるという学説もあるという。学説が正しければ本書は予言書ともなるだろう。終末が迫るとき、人は最も自分の心に忠実になる。そんなシンプルな真実も、再認識させられる。
 

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『古城ホテル』(ジェニファー・イーガン著・ランダムハウス講談社新潮社)
         
ーーウィークリー出版情報08年6月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「物語ることの華と業」


 一人の男が、とある古城の城壁の周りを入り口を捜してうろつくところから、この小説は始まる。
 男の名はダニー。彼を城に呼び寄せたのは長年音信不通だったいとこだ。いとこは古城をホテルに改装する計画を温めており、ダニーの助力が必要だという。うだつのあがらないダニーは渡りに船とこの話にとびついたのだが、内心は複雑だった。少年の頃、彼はいとこに残酷な仕打ちをしたのだ。いとこはあの事件を忘れてしまったのか、それとも?
 外界から隔絶された城の中、ネット中毒者のダニーは頼みの綱のパラボラアンテナまで失ってしまう。パニックと不安に苛まれるダニー。そんな彼を襲う、更なる精神と生命の危機。双子が溺れ死んだという伝説の残るプールで、ダニーが見た二つの影とは。ミステリアスな展開に、半ば廃墟と化した古城の描写がよく馴染む。三人称の文体にぐんぐん引き込まれて読んでいくと突然、地の文に「俺」という一人称が登場する。ダニーの物語には語り手が存在したのだ。
 「俺」の名前はレイ。刑務所で服役中の囚人だ。ダニーの物語は、レイが参加している創作クラスで、女性講師の関心を得たいがために書き綴ったもの。しかしその物語は囚人仲間から様々な反応を引き出し始める。登場人物の誰か一人が作者自身に違いないと決めつける者、続きを知りたくて「むかつく」者。それぞれに「読み手」となった彼らの中から、レイを凌駕する「書き手」が誕生する。レイは彼への嫉妬を無視という形で表すが、そのことが思わぬ災厄を呼ぶ。レイと囚人たちの挿話は、物語を生み出すことの華と業とを浮き彫りにする。
 小説の最後に、レイの憧れた女性講師が語り始め、レイの物語の外堀を埋める。彼女が架空の創作と思い込んでいたレイによるダニーの物語の一部を生きたとき、小説は静かに完結する。
 三人称小説の所謂「神の視点」を文章のある箇所から突然「俺」にすり替える技法は二度使われているが、二度目が非常に心憎い。彼と我の融合は、この小説では水を媒介とし、水は同時に「想像力」を示唆しているようだ。
 登場人物たちの運命はそれぞれに過酷で、誰もが幽霊より厄介な何かに取り憑かれている。だからこそ物語を通して
人と人がつながっていくことの不思議が、胸に清々しい波紋を広げる。 

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『愛しのグレンダ』
(コルタサル・岩波書店)
         
ーーウィークリー出版情報08年4月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「硬質な幻想短編小説」

短篇の名手として知られるアルゼンチンの作家、コルタサル。彼の作品では「幻想」は装置のように機能し、人間の
偏執狂的情念や暴力といった問題をあぶり出し、普遍化する。
 本書に収められたのは彼の晩年の作品十篇。いずれも緻密な構造を持ち、磁器のように硬質な印象を残す短篇だ。
 一篇めは『猫の視線』。アート鑑賞している際の愛妻は次々と別の顔になっていく、と語る「ぼく」。妻の真の姿を?んだと
思ったとき、乖離が訪れる。「ぼく」の一方通行の思いに乗せて、アートとその鑑賞者の間に横たわる断絶を描く。続く表
題作『愛しのグレンダ』は、女優グレンダに心酔するファン集団が彼女の過去の出演作や人生にまで割り込む話。偶像化
されるほど愛されることが果たして幸せなのか、疑問を投げかける一篇だ。『トリクイグモのいる話』は、さびれたバンガロ
ーの薄闇の中で隣客の気配をじっと窺う、蜘蛛のような「わたしたち」の独白。時折混じる謎めいた断片的な追憶。種明か
しはなく、すべてが曖昧模糊として不気味な余韻を残す。
 『ノートへの書付』は、地下鉄を生活拠点とする集団による電車乗っ取り計画を摘発する内容。書き手の正気を疑いつ
つも、地下鉄という日常に潜む幽霊のような青白い人間たちのイメージにぞっとさせられる。『ふたつの切り抜き』では、
暴力反対の立場を取る女性作家が、ふと踏み込んだ不思議な領域で自ら加害者となってしまう皮肉が薄ら寒い。『帰還
のタンゴ』は重婚したことへの罪悪感から心理的に追い詰められ、更に重い罪を犯す女の悲劇。
 『クローン』は、息の合った八人の合唱団員が分裂していく様をクラシックの楽器と楽章に重ねて展開した実験的作品。
『グラフィティ』の舞台は落書きすら罪に問われる圧政下の街。落書きを通して心を通わせた男女が悲しい結末を迎える。
夜毎、自分が主役の物語を夢想する男の話『自分に話す物語』。ある夜、彼の物語に意図せぬ登場人物が参入し……。
夢想が現実化し、現実が幻滅を呼ぶラストには微苦笑だ。最後の『メビウスの輪』では、強姦・扼殺された女性が概念的
な存在と化し、加害者男性を求めるに至る。設定を生理的に受け入れられるかどうかはさておき、死後の人間の意識が
様々な形態に変異する描写がユニークだ。

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『クラカチット』
(カレル・チャペック著・青土社)
         
ーーウィークリー出版情報08年2月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「存在は爆発だ」

 主人公は火薬研究所の技師プロコプ。彼は物質を原子レベルで破壊することができる脅威の爆薬を発明する。いわば
原子爆薬だ。その爆薬、クラカチットが突然暴発。譫妄状態になったプロコプの元から、昔の友人と名乗る男がクラカチット
とその作成のための化学方程式を盗み出してしまう。
 自らの発明が悪用されるのを阻止せんと、プロコプは男の行方を捜す。盗まれた化学方程式が不完全だったため、プロ
コプ自身もまた、金儲けや軍事目的の人々につけ狙われる。
 戦争協力を断固拒否する主人公の善良さにも関わらず、この物語が一種のピカレスク(悪漢)小説のようにも読めるのは、
浮き沈みが激しくエネルギッシュな彼の性格のためだろう。
 物事への偏執狂的こだわりや、自分の指が吹っ飛ぶのにも頓着せず火薬や爆薬の実験に没頭する一徹さには、狂気と
紙一重の危うさがある。そんな彼だが女性とのロマンスは絶えない。名前も知らない一女性の面影を忘れられないくせに、
昔の友人の妹と恋に落ちる。とある国家に監禁される憂き目にあっても、反逆と逃走の合間を縫ってその国の王女と惹か
れあう。
 すべての存在が爆発する可能性を秘めている、と説くプロコプ。行く先々で大なり小なり事件を起す彼自身、人間の姿を
したクラカチットに思えてくる。彼が自由の身になったとき、クラカチットが原因である惨劇が起こる。自らの発明を呪うプロ
コプを、擬人化された悪魔や神との邂逅が待ち受ける。
 すべては病んだプロコプの頭の中で起こった出来事だ、と読むこともできるだろう。しかし大量殺人兵器製造への警鐘は
はっきりと鳴り響く。この作品が発表されたのは原子爆弾が製造される二十数年前であったというから、予言書のような性
格も併せ持つ。重いテーマを扱っていながら語り口は軽妙洒脱でユーモアたっぷり。その一方でプロコプが幻視する情景
は非常にリアルでグロテスク。善も悪も内包した人間という存在の持つエネルギー、また、そのエネルギーの昇華の形を
鮮烈に綴った物語でもある。著者チャペックはチェコスロヴァキアの国民的作家。戯曲『ロボット』や小説『山椒魚戦争』な
どで社会諷刺の筆を揮い、反ファシスト運動に携わり、園芸や写真を愛する多才の人だった。

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『三番目の魔女』(レベッカ・ライザード著・ポプラ社)
         
ーーウィークリー出版情報07年11月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「一少女による『マクベス』異聞」


『ハムレット』『リア王』『オセロー』と並んでシェイクスピア四大悲劇のひとつに数えられる戯曲『マクベス』。名将マクベスは
荒野で三人の魔女に出会い、将来、王となるべきことを予言される。予言を信じたマクベスは野心家の妻と共に主君の王
を暗殺。王座を手にするも罪の意識に苛まれ、やがて滅びていく。この筋書きを崩さずに、三人の魔女の一人の視点から
再構築し、小説化したのが本書だ。
 主人公は孤児の少女ギリー。森に住む老婆二人に育てられた彼女は、わけあってマクベスを敵とつけ狙う。
 マクベスを呪うために彼の心臓のかけら三つが必要と聞き、ギリーはマクベスの居城に男装して潜入。横暴なコックの下、
台所見習いとして働き始める。辛い仕事の合間に人々と触れ合い、愛情や友情を知るギリー。時に復讐を捨てて平穏に
暮らすことすら夢見るが、ある日とうとう探すものを見い出し、呪いの道へと己を駆り立てる。
 彼女がそんなにも激しくマクベスを憎む理由は後半で明らかに。そしてついに迎えた怨敵との対峙で、ギリーは自分でも
意外な行動を取るのだった。
 マクベスがダンシネイの城で最期を遂げることは予めわかっているため、その死にギリーの言動がどう絡んでいくのかが
読みどころ。ギリーが存在そのものを悪と決めてかかっているマクベスとその夫人の背景にも、一言では切り捨てられない
事情がある。「いいは悪いで、悪いはいい」。有名な『マクベス』の魔女の台詞は、この物語の中でも真実だ。『マクベス』中
のちょっとした疑問点――マクベスには子どもがないが、マクベス夫人は赤ん坊に乳をあげて育てたと語っている点や、
バンクォー将軍暗殺のために遣わされた暗殺者が途中から一人増える点など――も想像力豊かな挿話によって解決され、
二次創作の面目躍如。
 思い込みが人間にもたらす強さと危うさが一途な少女の姿から浮き彫りになり、「運命が人を不幸にするのか、人が勝手に
不幸になるのか」という古くて新しい問いを考えてみたくなる。読後、本家本元の『マクベス』や、十六世紀イギリスの荘園の
台所風景が魅力的なアリスン・アトリー『時の旅人』、少年好きで醜怪なコックがインパクトを残すマーヴィン・ピークの『ゴーメン
ガースト』なども再読したくなった。

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『囚人のジレンマ』(リチャード・パワーズ著・みすず書房)
         
ーーウィークリー出版情報07年9月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「連綿たるジレンマ、解決策は」

 話す言葉のほとんどすべてが警句や格言、駄洒落や皮肉に満ちて謎めき、本意を汲み取るのは容易でない。
 そんな人がふらりと立ち寄った占いの館の占い師ではなく、家に鎮座する自分の父親、または夫であったらさぞ手強い
だろう。ホブソン家の家長・エディはまさにそういった人物だ。職も住所も転々とし、突然昏倒するという病を抱えているが、
病院には頑として行かない。頭の中では架空の街「ホブズタウン」を作り上げ、その年代記を口述筆記するのに夢中だ。
ある晩エディは、ゲーム理論の有名な命題「囚人のジレンマ」を話題にする。裏切りと協調、二つの選択肢が与えられた
二者間で、片方が裏切れば片方は破滅、互いに裏切れば互いの小さな痛手、互いに協調すれば互いの大きな痛手とな
ることがわかっているとき、どの道を選ぶのが最良かという問題だ。子どもたちに最良策を提起させてはその問題点を
指摘するエディ。しかし彼自身も実はある連綿としたジレンマに陥っているのだった。大人の姿をした知的な問題児・エディと、
彼に翻弄されつつ彼を慕う家族の姿が微笑ましい。ただ、彼らの交わす会話は機知に富みすぎていて、ページの横に付さ
れた膨大な注釈のお蔭でようやく楽しめた。英語とアメリカ文化史に造詣が深ければ、より深く本書の魅力を堪能できるだ
ろう。
 エディの脳内世界「ホブズタウン」は虚構世界と呼ぶにはあまりに現実的に構築されている。第二次大戦中のアメリカを
基盤としたその空間にはウォルト・ディズニーまでもが存在する。「信頼にしたがって歩むかぎり、ゲームをつづける価値が
ある」「きみが信じれば、みんなも信じるのさ」というディズニーの言葉は、「囚人のジレンマ」のひとつの理想主義的解答だ
が、果たしてそれはエディのジレンマの解決策につながるのか……。「ホブズタウン」の詳細な記述、エディと彼の家族の
やりとり、家族ひとりひとりのモノローグ。交互に綴られるそれらの物語は、エディの突然の失踪を起爆剤に、融合してひと
つになっていく。歴史と個人、家族と個人、現実と空想もまた、分かちがたく結ばれた姿で浮き彫りになる。エディの病の
正体、彼が逃亡しつつ戻ろうとしていた場所に思いを馳せながらページを繰ると、最後にはいかにもこの小説らしい展開が
待っていてくれる。

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『本泥棒』(マークース・ズーサック著  早川書房)
         
ーーウィークリー出版情報07年8月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

異色の語り手

語り手が異色だ。人格化された「死」、死神なのだ。死神は人の魂を運び去るという己の務めに倦みつつ、世界の時々刻々
を彩る印象的な色の数々に心慰めている。色の他にも死神の気を晴らしてくれるいくつかの物語がある。そのひとつとして、
「本泥棒」だった一人の少女の話が語られる。それは白・黒・赤の三色に象徴される物語だ。
 舞台はナチ政権下のドイツ。「本泥棒」の名前はリーゼルという。彼女は弟と一緒に里子に出されるが、途上で弟が亡くなる。
墓地に落ちていた本をリーゼルは拾い、自分のものにする。それは家族を思い出すためのよすがだった。里親の「父さん」ハン
ス・フーバーマンに読み書きを習い、リーゼルは言葉への扉を開かれる。彼女は憑かれたように本を求め始める。時には盗ん
ででも。死神は、リーゼルと彼女を取り巻く人間たちを温かく描き出す。溌剌とした親友ルディ。怖いが根は優しい「母さん」ロー
ザ。フーバーマン家に匿われるユダヤ人マックスとリーゼルの共鳴、いつも悲しげな町長夫人との友情。登場人物はみな魅力的
だが、中でもリーゼルを心底慈しむ「父さん」ハンスが素晴らしい。音楽と煙草を愛し、約束を必ず守る、著者の人間賛歌が結晶
したような人物。彼の目に湛えられた「とろけるようなやわらかい銀」は読む者すべての心に残るだろう。
 白・黒・赤はナチスの党旗の色であると同時に、リーゼルの弟が眠る墓地を包む雪、鉤十字の署名、人々が絨毯爆撃に曝さ
れた日の空の色でもある。赤い色の空の日の件では、溢れる涙を禁じえない。
 段落の合間には多くの断章が挿入され、登場人物の運命について種明かししてしまうことも。物語の筋が分断されるように思
えるが、それらは語り手の性質を反映した、シニカルながら優しい配慮のある予備知識なのだ。
 人情味溢れるこの死神、世間一般に知られる「大鎌を持った髑髏の姿」はしていない。その姿についてのヒントは作品中にわ
かりやすく記されている。
 著者は一九七五年生まれ。ナチス政権下に生きていたわけではない。戦後世代が想像力と資料を基に戦禍を描いた作品とし
ては、こうの史代の漫画『夕凪の街 桜の国』が記憶に新しい。こうした書き手と、読み手の想像力がひとつになったとき、真の
戦争抑止力が生まれるのだろう。


『失われた探検家』(パトリック・マグラア著  河出書房新社)
         
ーーウィークリー出版情報07年6月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

 「信頼できる」面白さ

現代のサキとも、ポオとも称せられる異色作家、パトリック・マグラア。その短編集『失われた探険家』は、以前刊行された
『血のささやき、水のつぶやき』(河出書房新社)収録の十三編に新たに六編を加えた全短編集だ。
 マグラアの作品では精神疾患者や偏執狂など、物事への客観性を著しく欠いた人間が物語の語り手であることが多い。彼ら
は所謂「信頼できない語り手」であり、読み手は彼らが語る物語を鵜呑みにするも良し、深読みして事実を推測するも良し、幾
通りもの読み方ができるのが魅力だ。
 本書所収の短編にも「信頼できない語り手」は登場する。刑務官志望の学生がストーカー行為に走る『監視』、娘を守るべく吸
血鬼に立ち向かう母親の話『吸血鬼クリーヴ あるいはゴシック風味の田園曲』、高圧的な家長がある日突然漂い始めた悪臭と
その源を追究する『悪臭』、精神科医二人の確執を描いた『もう一人の精神科医』における語り手たちである。このタイプの作品
はラストに最大の読ませ所があり、どんでん返しの面白さを味わえる。
 表題作の『失われた探険家』は、自宅の庭に現れた瀕死の探険家を看取る少女の物語。日常生活に不意に異質なものが現れ、
日常に吸収されていく顛末が飄々と語られる。『天使』や『酔いどれの夢』、『血の病』などの作品もその点では同系列と言える。
 頭に手の生える奇病の話『黒い手の呪い』、オナニー中毒者の手が生命を持って悪さを働く『オナニストの手』、両性具有者の
肉体のエロスと凄惨な殺人場面が印象的な『血と水』では、異様な人体描写にマグラアのこだわりの文体が冴える。連続殺人鬼
にインタビューする女性記者の話『アーノルド・クロンベックの話』は隙のない面白さ。
 他にも、性欲を抑圧し過ぎた神父の転落を描く『アンブローズ・サイム』、ミニチュアの精神科医たちに苛まれる幻覚が生々しい
『串の一突き』、肩透かしのラストが逆に秀逸な『マーミリオン』、長靴が語る『長靴の物語』、蠅が語る『蠱惑の聖餐』、『オマリーと
シュウォーツ』、『ミセス・ヴォーン』など、偏愛と憎悪が優雅にブレンドされ、ブラックユーモアと猟奇趣味の味つけの効いた作品群
が並ぶ。いずれの行間にも、人の心の深淵を安易に分析しようとする者たちへの著者の嘲笑が潜んでいるように思える。

                
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『涙を売られた少女』(ジェイムス・クリュス著 未知谷刊
         
ーーウィークリー出版情報07年4月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「内面の自由を売られて」

 作者クリュスは、ケストナー、エンデと共にドイツ三大児童文学作家に数えられる。著作『笑いを売った少年』(未知谷刊。講談社
刊の『わらいを売った少年』は児童向けの抄訳)では、不遇な少年がある日出会った不思議な紳士に自分の笑いを売る。引き換え
にどんな賭けにも勝つ力を得るが、やがて笑いの真の価値に気づき、それを取り戻す旅に出る、という物語が展開した。本書は
その続編。
 主人公ネレは歌と踊りの才能に恵まれた少女。そんな彼女に目をつけたのが、前作にも登場する不思議な紳士だ。彼はネレの
両親に金を積み、契約を取り交わす。ネレを国際的な歌手にする代わり、彼女が泣くことを禁じた契約だ。幼い頃から泣くことので
きない子だったネレに、敢えて涙を禁じた紳士の意図とは……。
 物語の語り手「ボーイ」、その良き友人にして前作の主人公であるティムを始め、『笑いを売った少年』の登場人物たちが脇を固
める。敵役の紳士は人智を超えた力を持つ恐るべき存在だ。ところがいつも何かしら的を外した振る舞いをするので憎みきれない。
前作では普通の人間のようにうっかり車の前に飛び出してはねられた。今回は契約から逃れようとするネレの気を引こうと、アザラ
シの姿で話しかけたり、補虫網を被せてみたり、その奮闘ぶりが笑いを誘う。子どもたちに寛容と共生を教えたい、という作者の願い
が、悪役の性格の上にも現れているようだ。
 物語自体はさながら少女スターのバイオグラフィー。ヒット曲が生まれる経緯や、華やかで空しいショービジネス界の描き込みに力
が入れられ、細部にこだわった描写が多い。有名になっていく過程でネレが陥るヒステリカルな破壊衝動にはどきりとさせられる。
 子どもの能力を金で売り買いする大人への批判も随所に読み取れる。邦題はその意を組んだものだろう(原題は『Nele oder Das
Wunderkind』。直訳なら『奇跡の子ネレ』となる)。
 芸能活動に邁進する少女を追って坦々と進む話なので、前作にあったような波乱万丈のストーリーやファンタジー要素を期待して
読むとやや意外。涙と笑いは表裏一体であるということ、それらが人間を動物から区別し、内面を自由にする、という件が興味深い。

                
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『マグヌス』(シルヴィー・ジェルマン著  みすず書房)
         
ーーウィークリー出版情報07年2月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「ぬいぐるみは無言」

「子どもは五歳までにその一生涯に学ぶすべてを学び終えるものである」。ドイツの教育者・フレーベルの言葉だ。
『マグヌス』の主人公は五歳にして記憶喪失に陥り、その学んだすべてを失ってしまった。ナチス党員の夫婦に引き取られた彼は、
作り話の過去を吹き込まれて育つ。やがてドイツ帝国崩壊により一家は離散。自らの過去が偽りのものと知った主人公は、不確
かなアイデンティティを抱えたまま長い旅に出る。マグヌスとは、彼が記憶を失う前から持っていたクマのぬいぐるみの名前。主人
公とその真の過去との接点が、物言わぬぬいぐるみだけであることが切ない。
 作中、主人公が夢中になる本に『ペドロ・パラモ』がある。メキシコの作家ルルフォが著した、実在する小説だ。名前しか知らない
父、ペドロ・パラモを訪ねる「おれ」。行き着いた町に住んでいるのは死者ばかりで、あたかも生けるが如き彼らのささめきが、ペド
ロ・パラモの人物像とその土地の歴史を浮かび上がらせる。時系列を重視せず、断片的な文章の積み重ねで物語を構築する点
において、『マグヌス』は『ペドロ・パラモ』の小説技法を踏襲しているようだ。『マグヌス』では、通常の小説で「章」に当たる部分が、
そのものずばりの「断片」と題される。各「断片」の合間には、作中に出てくる実在の都市や人物についての説明=「注記」、詩歌・
本からの引用=「続唱」などが挿入され、架空の物語に現実的背景と文学的彩りを与える。また、冒頭の「序奏」では、自分自身
が信じられない記憶喪失者の物語をどのように書けるか、そもそも「書く」ということは何か、著者自身が独白のように呟く。この
醒めた視点と筆致のため、ストーリー性よりテキスト性が重視された作品という印象もある。
 とはいえ各「断片」は波瀾に満ち、主人公が心通わす二人の女性との挿話や、思いがけない人物と邂逅する終盤の展開は非常
にドラマチック。主人公は何かを得てはそれを失い、場から場へと彷徨う。幼少時の記憶喪失という体験は特異だが、その自分探
しの旅路は普遍的で共感を呼ぶ。人が己を認識するために必要な「言葉」の重さ、そして頼りなさを考えさせられる話だ。
 フランスの高校生が密度の高い議論を通して選ぶという「高校生ゴンクール賞」二〇〇五年の受賞作。

                
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『顔を持つまで』
(C。Sルイス著・中村妙子訳 平凡社ライブラリー)
         
ーーウィークリー出版情報06年11月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「『ナルニア国物語』作者、C・Sルイス最愛の自作」

 クーピドー(キューピッド)とプシケーの物語は有名だ。美しい人間の娘プシケーがエロスの神クーピドーの妻となる。彼の訪れ
は夜のみで、彼女は彼の顔を見てはならない。ある日プシケーは遊びに来た二人の姉達にそそのかされ、禁を破って夫の顔を
見てしまう。罰として過酷な試練が課されるが、達成した後プシケーは女神となり、再び夫と結ばれる。人の魂の成熟過程を示唆
するとも言われるこの神話が『顔を持つまで』の構想の元となった。
 語り手は小国グロームの女王オリュアル。賢く、情深く、そして醜く生まれついた彼女は、美と人徳の化身のような腹違いの妹・
プシケーを同腹の妹より可愛がる。だがプシケーは山の神に犠牲として捧げられてしまう。遺骨を集めようと山に登ったオリュア
ルは、生きているプシケーを見出だす。今は神の妻となり、豪奢な宮殿に住んでいると語る妹。だが彼女が「そこにある」と言い
張るものがオリュアルには見えない。姉妹の絆は断たれ、その後は各々苦難の道を歩む。
 神話では、姉達は自分達より良い暮らしをする妹に嫉妬し、神の顔を見るための灯を渡すのだが、同じ場面でオリュアルが抱く
感情はもっと複雑だ。愛する妹が自分の理解不能な世界に没入していることへの怒りと寂しさ、目に見えない世界は存在するの
か、それは美しい者にしか開かれないのか、という疑念。時が過ぎ、それらの感情が単なる妹への嫉妬として神話に語られ始め
たのを知り、彼女は神の理不尽を糾弾しようと決意する。その姿は聖書の『ヨブ記』におけるヨブにも重なって興味深い。オリュアル
は構造の枠から逃れようともがく一つの個性だ。剣を振るい、政治に辣腕を示し、常に顔を隠して、女という性の枠も超えようとする。
そうすればするほど彼女は自分が憎む「惜しみなく奪う」顔のない神に似てゆく。やがて邂逅した姉妹が二人ながら「想像を絶する
美しさ」であるという件に、「個人がなまで出る様な時は却て真の美しさは遠い」という民俗学者・柳宗悦の言葉を思った。
 オリュアルに示された神からの「答え」に納得できるかどうかは、読者が神というものをどう考えるかによるだろう。神話の再構築
としてでなく、ルイス独自のファンタジー世界の話として読みたかったようにも思う。

                
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『大吸血時代』
(デイヴィッド・ソズノウスキ著・金原瑞人・大谷真弓訳・求竜堂)

            
ーーウィークリー出版情報06年10月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「吸血鬼の子育て奮戦記」

 退屈しのぎで始めたはずのことなのに、いつの間にか、それに自分の生活を支配されている。何かの虜になるときというのは
そんなものだ。この作品を読む限り、吸血鬼にも同じことが起こるようだ。 物語の舞台は、近未来と思われる。世界の主は吸
血鬼。人間社会とほぼ変わらない社会を営みながら、日の光を避け、人工血液を飲んで暮らしている。残り少ない人間たちは
富裕層のお楽しみ用としてひっそり飼育されている。
 不死身の吸血鬼がつらいと感じること、それは「退屈」。退屈が昂じて自殺に走る者も多い。主人公マーティもそうだった。彼は
生からの逃避行の途上で、小さな人間の女の子と衝撃的な出会いをする。人間牧場から逃げてきたイスズ。母を亡くした彼女を、
マーティは家に連れ帰る。いずれその血を飲むという思惑に胸膨らませ、死ぬほどの退屈も忘れて。ところが人間の女の子は
思った以上に手のかかる生き物だった。物を食べる。トイレにいく。生意気を言う。何より他の吸血鬼の目から隠しておくのが
一苦労だ。優雅だったマーティの独身生活はかき乱され、イスズ中心のものに変わる。だが彼には不思議な幸福感があった。
手のかかるチビ、でも、笑顔が可愛い……。
 クールで皮肉な物言いが身上のマーティだが、牙の生えた今もなお、昔死んだ父を慕い、母を懐かしむ。彼の根本には、失わ
れた自分の家族を愛する気持ちがある。彼がイスズへの庇護欲に目覚めるや、加速度的に良き育ての父に変貌していく姿は
微笑ましい。イスズを育てながら、自らもどんどんエネルギッシュになっていく。吸血鬼の日々の糧である人工血液が存在しなか
ったら、救いのない話になっていたかもしれない。なんといってもイスズは、飲んでしまいたいくらい可愛い娘なのだから。 吸血
鬼にとって、退屈よりもつらいのが喪失感だという。思春期を迎えたイスズは彼女なりのやり方で吸血鬼の友人や恋人を作り、
やがてマーティの手を離れる。その際のマーティの狼狽ぶりは気の毒なほどだ。勿論、世の常の例に洩れず、何かを失った後
には必ず何かが得られるのだが。
 文中にはアン・ライスの小説や映画『吸血鬼ノスフェラトゥ』などなど、吸血鬼ものの新旧の定番作品も登場して、そつがない。

                
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『ピエールとリュース』 (ロマン・ロラン著・宮本正清訳 みすず書房)
   
          ーーウィークリー出版情報06年8月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「ひとつの愛から」

 舞台は第一次世界大戦下のパリ。ドイツ軍の空爆でごった返す地下鉄の中、十八歳のピエールは一人の娘に出会う。二人は
その後も度々行き会い、恋を語らうようになる。娘の名はリュース。彼女は貧しい絵描きで、ピエールは良家の子息。加えて半年
後には戦争に行かねばならない。未来に希望を持てない二人だが、一緒にいられる今現在を精一杯楽しもうとする。しかし戦争
は、若い恋人たちに、皮肉なやり方で牙を剥く。
  おやつを交換したり、散歩したりして互いへの思いを育む二人の姿は初々しい。ボーイ・ミーツ・ア・ガール。少年と少女が出会
い、恋が生まれる。二人の背景に戦争が影を落としてさえいなければ、これほど単純で、微笑ましい構図はない。
 ピエールにはフィリップという兄がいる。良き兄だったフィリップは出征してから心が荒んでいる。だが帰省した折に弟の恋を知っ
てからは、彼らの幸せを願う気持ちになる。ピエールと同年代のシニカルな学友が、飛び蟻の結婚飛翔を例にとってピエールの
束の間の幸福を揶揄するのとは対照的だ。登場回数は少ないながら、フィリップは作中で唯一、戦場を知る人間として描かれる。
 彼が再び弟への愛情を表す場面は、戦争に奪われた人間性が甦る瞬間でもある。ひとつの愛が別の愛を呼び起こす様子が、
短い中にも鮮やかに描かれて印象深い。この兄との逸話は、ピエールとリュースの若い感傷に溢れた恋物語に崇高さを付与す
る一因となっている。
 物語の終盤では復活祭が重要な意味を帯びる。復活祭は、死の三日後に甦ったとされるキリストを記念するキリスト教の宗教
行事。復活祭を前に、人々は祈りと音楽のために教会に集う。ピエールは厭世から、リュースは現実主義から、宗教に深く肩入れ
していないが、人類を愛する友としてのキリストに共感、教会へ行く。二人の恋の終焉は、死を超えて甦るものと有限の命のものが
ひとつになることでもあった。
 著者ロマン・ロランは『ジャン・クリストフ』や『魅せられたる魂』を著したノーベル文学賞作家。民族に捉われない立場から世界に
反戦と平和を訴え続けた。今井正監督による映画『また逢う日まで』は、この『ピエールとリュース』の翻案である。

                
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『影を踏まれた女』
(岡本綺堂:光文社)

                 ーーウィークリー出版情報06年6月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「踏まれる影 忍び入る影」

 大正時代に編まれた岡本綺堂の『青蛙堂鬼談』から十二篇、同じく『近代異妖編』から三篇を収録した短編集の新装版文庫。岡本
綺堂は、捕物帖の嚆矢と言われる『半七捕物帖』で知られる。定評ある時代考証と読み手に優しい筆致で古き日本、特に江戸情緒を
描き出す点は、捕物帖も怪談物にも共通する。
 『青蛙堂鬼談』では、雪のちらつく春の一日に、好事家の紳士が自宅で急な会合を催す。好奇心で集まった人々を待ち受けていた
のは、家の主人と三本足の竹細工の蝦蟇だ。「青蛙」と呼ばれるいわくありげなこの蝦蟇の前で、客たちは手持ちの怪談をするよう
乞われる。百物語に倣ったオーソドックスな手法だ。身の毛がよだつ、といった内容のものはなく、読後に不思議な余韻を残す話が
多い。
 青蛙にまつわる伝説『青蛙神』。『利根の渡』は、渡し場で毎日一人の男を捜し続ける座頭の執念が怖い。部屋に掛けた猿の仮面
の目が夜ごと光り、悲劇を招く『猿の眼』。『清水の井』『蟹』『一本足の女』『龍馬の池』などは、あやかしに犠牲者として選ばれた者の
不運が極まる、一種の不条理譚だ。
 続く『近代異妖編』も、ある語り手が語った怪異という形式を取る。『寺町の竹藪』では、女の子のたったひとつの台詞で全体が怪談
となる。表題作『影を踏まれた女』は、影踏み遊びの子供達に影を踏まれて以来、明るい場所へ出るのが怖くなった娘、おせきの話。
彼女は「影を踏まれると悪いことが起こる」と頑なに信じる。怪談そのものというよりは、おせきの強迫神経症的な脅えを怪談という
角度から描き出した秀作だ。
 全編、人間心理の描写が生き生きしているため、短い話であっても薄くはない。『利根の渡』で座頭の面倒を見てやる老人の気の
良さ。『蛇精』におけるうわばみ退治の名人とその妻の睦まじさ。『影を踏まれた女』では、おせきの許婚が彼女を守ろうとする意気込
みが健気。しかし彼らの人情にほだされていると、話は不条理の内に終わったり、酷い結末を迎えるので油断ならない。
 怪異それ自体を動かない縦糸とし、怪異に翻弄される登場人物の右往左往を横糸にして綴られる短編の数々。きっと読み手の心
の襞に忍び込む影となるだろう。

                
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『デス博士の島その他の物語』
(ジーン・ウルフ著・国書刊行会)

                 ーーウィークリー出版情報06年4月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

「言葉遊びとストーリーテリングの妙」

 言葉の魔術師と名高いSF作家の、本邦初の中短篇集。『デス博士の島その他の物語』、『アイランド博士の死』、『死の島の博士』。
これら「島三部作」が本書の中心。同じ単語を使ったタイトルでも、単語の位置が変われば意味が変わり、それぞれの物語が立ち上
がる。 表題作は、主人公の少年を「きみ」と呼ぶ二人称で綴られる。「きみ」の住む現実世界と「きみ」が読む本の中の世界は時に
交錯する。本から抜け出た登場人物の一人・デス博士は、自分と「きみ」は同じだと語り、「きみ」も小説の登場人物であることを示唆
する。読者である自分ももしかしたら……と、入れ子構造の深みに引っ張り込まれる。
 『アイランド博士の死』は、自ら「アイランド博士」と名乗る人工の島が舞台。手術で脳を二分された情緒不安定の少年が、緊張症の
少女や殺人癖のある青年と共に環境セラピーを受けている。住人の感情が天候に反映される島の上で、激情に駆られる少年の運命
を描く。目的のために個の生死や人格を調整してためらわない「アイランド博士」には、神や、患者に支配的な精神療法家への皮肉が
こめられている。同時に連想されるのは、脊椎動物の膵臓にあると言われる島に似た形状の組織・ランゲルハンス島だ。この「島」は、
ホルモン分泌によって、体内の血糖値量を調整する役目を持つという。
 『死の島の博士』では人類はDNAを変化させる方法を手に入れ、不死になっている。殺人罪を犯した主人公は、永遠に続くかもしれ
ない刑期を過ごしながら、服役前に発明した「喋る本」の一冊を改造する。その結果、物語が他の本に感染する事態が発生。「喋る本」
に依存していた社会は混乱する。死なない人間という存在を、個の生を超越している本になぞらえる件が印象的。ラストは、本には必ず
最後のページがあることを暗示しているようだ。
 他、人間の奇形化が進むアメリカで現と幻の入り乱れる夜を過ごすイラク人青年の手記『アメリカの七夜』、網膜で個人識別する管理
型社会を、網膜のない少年が彷徨う『眼閃の奇跡』の二篇を収録。どの作品も鳥瞰した視点で書かれているが、根底が温かい。著者が
敬愛する作家たち、ウェルズやディケンズらへのオマージュも随所に散りばめられている。読むのを省略しがちなまえがきは、本書では
必読。「島三部作」に連なる物語が隠されている。
                 
               
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『フリーキー・グリーンアイ』(ジョイス・キャロル・オーツ著・大嶌双恵・訳)
                〜〜ソニー・マガジンズ刊〜〜

                
ーーウィークリー出版情報06年2月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

 主人公は十四歳の少女、フランチェスカ。時々、自分の中に強力で冷徹なもう一人の自分を感じることがある。
 彼女は父親に似たその自分を「フリーキー」(いかれた、の意)と呼び、困ったときに頼りにする。フリーキーは主人公の意志を
コントロールする。実際の父親がそうであるように。
 主人公の父親は、アメリカで有名なスポーツキャスターだ。外では完璧なまでの魅力を振りまくが、身内には威圧的。常に自分
の意志が最優先でなければ気が済まない。母親はテレビ局アナウンサーだったが、今では家庭に入っている。両親の仲は最近
うまくいっていない。やがて母親が出奔、次いで失踪という事件が持ち上がる。父親の関与はどこまでか。不明のまま物語は進展。
フランチェスカは脅えながらも「フリーキー」の冷静な観察眼で現状を見据え、真実の辛さに迫っていく。
 言葉や腕力の暴力に遭っても、主人公とその兄妹は父親への愛情と誇りを持ち続ける。お飾りのような妻の座に反発した母親が
父親とぶつかる姿を見ると、父親に逆らう母親が悪いのだと苛立ったりする。学校や家庭など、限られた範囲で生活する主人公た
ちは、広く世間への影響力を持つ父親に従わざるを得ない。また、従うことが家族の望みであるようにふるまわなければならない。
その息苦しさがフランチェスカの一人称の語りを通じてじわじわと伝わってくる。必死で平常心を保とうとしながら、実は常に追い詰
められている子どもたちの心理描写がリアルだ。恐怖小説と呼びたいほどの緊張感があり、行間に垣間見える母親の孤独な日々
には、胸塞ぐ思いがする。
 タイトルが示すように、主人公は緑色の目をしている。シェイクスピアは『オセロー』で、人の心を苛む嫉妬を「緑の目の怪物」と
表現した。主人公は、オセローを俗にしたような父親から継いだ気質を持て余しつつ、成長せざるを得ない。好むと好まざるとに関
わらず、子どもは親の遺伝子を半分ずつ受け継ぐ。逃げられない気質と向かい合いながら、勇気ある行動を選ぶ主人公の姿には
救われる。
 日本では父親の存在感の薄さが嘆かれて久しいが、この物語のような「強い父」の出現は、御免こうむりたい。

               
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 『飛行蜘蛛』             ーーウィークリー出版情報’05年10月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

 アラクノフォビア(蜘蛛恐怖症)という言葉がある。クモはなぜ嫌われるのだろう。八本脚の姿のせいか。尻から糸を出す奇抜
さのせいか。獲物の捕り方に狡猾なイメージがあるからか。それらの特徴は、クモが独特の個性を持つことの証でもある。独特
の個性は、ある種の人間には深い魅力となる。
 『飛行蜘蛛』は、クモの科学的、また文学的な魅力について語った本だ。一九七二年、丸ノ内出版から刊行されたものの復刊
である。著者の故郷、山形県では、かつてよく不思議な現象が観察されていた。快晴無風の青空に、白い細い糸が漂うように
流れる。主に晩秋と早春に見られることから「雪迎え」「雪送り」と呼ばれた。昭和の始めにその正体がクモの糸だとわかったも
のの、どんな種類のクモによるのかは不明だった。著者はクモの飛行の様子を十三年にわたって観察。新種を含むそれらの
クモの種類を明らかにし、彼らの空への旅立ちを情感こめて記録した。
 飛ぼうという強い衝動に駆られたクモたちは草の上などに上り、出糸突起から糸を吹流す。糸が上昇気流に乗ると、それに引
かれて空に舞いたつ。行き着く先は何処とも知れない、思い切った種族分散の手段だ。空中移動するクモは、幼生の時期だけ
飛ぶものも、亜成体や成体になっても飛ぶものもいるという。クモが落ちた後の糸が絡まり合って漂う様は、世界各地で観察さ
れている。中国の「遊糸」、英語圏の「gossamar」など。どの国でも「はかなさ」の象徴なのが、文献の引用や冒頭に掲げられた
「雪迎え」の写真から納得できる。
 神話や古典、現代文学に登場するクモの糸談義、クモ談義も充実している。能や歌舞伎の演目にある「土蜘蛛」は、年経た
土蜘蛛の精が掌から千筋の糸を繰り出して戦う場面が見所。悪役のクモが、糸で見せ場を作る。同じ物語が画題の「源頼光
土蜘蛛ヲ切ル図」(芳年)は、この本の表紙にぴったりだ。
 近年、自然環境の変化で、数多のクモが織り成す「雪迎え」「雪送り」は幻の現象になったという。晩秋や早春の晴れた日、
尻を高く掲げてじっとしているクモを見かけたら、静かに見守りたい。彼らの飛行の瞬間だけでも、見られるかもしれない。

下の写真〜〜牧草の葉っぱに架かるクモの糸。この牧草の数メートル上を北西の柔らかい風に乗って、「遊糸」が流れるのを
      西沢(雅野の母)が見ました。この牧草地一帯はどこもかしこもクモの糸できらきらと輝いていました。
       (’05・11・19。まさに小春日の清里で)


                
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『論理表現のレッスン』            ーーウィークリー出版情報’05年8月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

 何を考えているか理解できず、一緒にいると漠然とした不満の溜まる存在に出会うことがある。相性の問題だと割り切ろう
としても、気まずい存在であることに変わりはない。
 『論理表現のレッスン』(NHK出版)を読み、気まずさのしのぎ方を体得した気分になれた。本書によれば、人間の思考はそ
もそもハチャメチャに飛躍するよう仕組まれている。飛躍した思考を第三者と共有できる形に整え、表すためのルールが論理
であるという。『「論理的に思考する」のではなく、「思考を論理的に表現する」ことが大事』。そのためのツールとして言葉がある。
文中に例として出される議論や会話では、言葉に対する解釈が人によって異なる様子が示される。同じ「我慢する」という表現
でも、ある人は積極的な意味に捉え、ある人は精神と肉体の限界を越えた状態を思い浮かべるのだ。事前にその意味を統一
すれば話し合いの効率はあがる。
 『語と語、句と句、文と文との関係性にこころを向け、その関係性に注意を集中すること』が「論理的である」ということでもある。
他者の価値観に誠実な関心を示すこの考え方は、コミュニケーションの基本姿勢でもある。冒頭に挙げた「相性」という表現も、
改めて考えれば漠とした概念ではある。苦手意識を一度離れ、気まずい存在と自分とに共通のルールを見つければ、歩み寄り
の機会があるかもしれない。どう検討してもルールがひとつも見つからなかったら、それが自分にとっての「相性」の認識だったと
思うこともできる。自分の思考が即時に理解できるのは自分だけだ。そこには思い込みも多い。他者との関わり合いの中では
常に意識的に、相手に理解されるような言葉を組み立てなければならない。
 著者は大学で心理学を教えている。教育の現場にあって、学生たちのレポート作成やプレゼンテーションにおける表現力不足
に驚き、論理表現やディベートの重要性を痛感したという。本書は『議論のレッスン』という本の続編にあたるが、内容は独立して
いる。人と人、人と事物が関わり合う際の、考え方のプロセスを示唆してくれる。

                
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『白い人たち』          ーーウィークリー出版情報’05年6月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

 『小公子』、『小公女』、『秘密の花園』。これらの作品についてまったく聞いたことのない方はいないと思う。著者の名が
バーネットだと知っている方も多いだろう。しかし、同じ著者に『白い人たち』というすぐれた作品のあることは、案外知られ
ていない。
 砂川宏一訳以前には、川端康成訳『小公子』(ポプラ社、一九五八年刊)の中に、全体の一部を略した抄訳がある。ここ
での題は『白い人びと』。砂川氏も元は川端の抄訳でこの作品を知り、忘れられなくなる。 どこかから完全訳の出るのを
二十年以上待ち続けたが、ついに自ら手がけることとなった。そのエピソードからも、物語の持つ魅力が推し量られる。
 主人公の少女イゾベルは、スコットランドの荒野に聳える古城の主。両親はなく、遠縁の親戚二人に育てられた。外界との
交渉がほとんどない生活を送っている。ある日ロンドンに出たイゾベルは敬愛する小説家と知り合い、彼の母親とも親しくなる。
二人を慕い、二人からも慕われて過ごすうち、イゾベルは自分が神秘的な能力を持っていることに気づく。小説家と母親は、
とある「恐怖」に囚われている。イゾベルの持つ能力は、二人をその恐怖から救い出すことのできるものだった。
 登場する人物たちの姿から、ふと「愛別離苦」という仏教用語が連想された。愛別離苦は、人が人生で味わう八つの苦しみ
の中のひとつ。愛する者と生別、死別する苦しみの意だ。バーネットには息子が二人いたが、長男は病死。その悲しみを経て
書かれたのが『白い人びと』だ。作中には聖書を賛える台詞が多く見られる。 バーネットは敬虔なキリスト教徒だった。苦しみ
や悲しみなど、現実生活での問題を解決するためのテキストとして、聖書を深く読み込んだのだろう。そして生み出したのは、
宗教や人種を超えて人間の共感を呼ぶ話だった。
 物語の終盤の美しさは比類なく、まるで文章自体がひとつの救いであるかのようだ。短編集『掌の小説』で哀感溢れる幻想譚
を綴った川端康成が訳をこころみたのも頷ける。抄訳の載った『小公子』は現在入手が難しいが、図書館などで手に入れば
、完全訳『白い人たち』と併読してみるのも興味深い。

               
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『「遺体」の語る歴史と謎』 ーーウィークリー出版情報’05年4月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

 インパクトのある題名から、一瞬ホラーを連想するが、そうではない。
著者は解剖の現場に携わる気鋭の学者。動物の死体は知の宝庫、未来に引き継がれるべき財産だと説き、
それらを生ごみとして扱う近年の社会や学会に警鐘を鳴らす。その主張は動物の死体を「遺体」と呼ぶ姿勢
にも表れる。そして遺体に秘められた謎、その謎が解明されるまでのプロセスが、主にパンダの手の解剖を
通してスリリングに語られる。元はクマ科の肉食動物だったパンダ。その手は親指が他の四本の指に平行
して伸びている。本来、竹のような丸く細いものを握りこむには向かない。では一体どんな仕組みで竹を掌中に
保持できているのか。
 著者はジャイアントパンダ・フェイフェイの解剖の現場を文章で再現しながら、読者に「遺体科学」の追体験を
させてくれる。説明に専門用語が並び、堅苦しくなりそうな箇所では、「私が短母指外転筋・母指対立筋なら、
嬉々として(中略)収縮を試みるだろう」とユーモアを交えつつ、観察対象に入り込む視点の重要さを示す。
 動物学的な記述ばかりではない。第三章の「語り部の遺体たち」では、保存された遺体が担う時代や文化史的
背景にも話題が広がる。スミソニアン博物館の毛皮標本からはルーズベルトとテディ・ベアにまつわる逸話が呼び
起こされ、東大農学部の保管する「忠犬」ハチ公の臓器からは生前のハチの意外な暮らしぶりが推定される。
ハチを忠犬と呼ぶに至った当時の日本の時代背景も物語られて興味深い。
 遺体を見つめ、遺体の持つ履歴の行間を読めば、確かに「死体はよみがえる」のだということが信じられてくる。
第四章の最後で、東京上野の国立科学博物館の展示室「大地を駆ける生命」が紹介されている。著者が手がけた
遺体の展示室だ。理念の一端が現実化している場所を見てみたくて足を運んだ。剥製の遺体たちはガラス張りの
展示スペースの中だが、床に高低差が設けられているので、さまざまな角度から眺められる。この本の立役者・
フェイフェイも、娘トントンと共にここに並ぶ。もの言わぬ遺体たちを拝観しながら、彼らの毛並みの下に内包されて
いる数多の歴史と謎に思いを馳せた。

                
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  『自己犠牲について』・1         ーーウィークリー出版情報’03年4月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー

  「誰か、もしくは何かのために」

 自己犠牲が脚光を浴びている。
 我が身を捨てる行為がもてはやされる傾向は、映画「千と千尋の神隠し」や「ロード・オブ・ザ・リング」の国境を
越えたヒットからもうかがえる。前者は日本のアニメ映画で、海外上映でも人気を博す。後者はハリウッド映画で、
英国のファンタジーの古典『指輪物語』を原作にもつ。
 両作品とも主人公は平凡な少女であり、若者だ。性質が素直な頑張りやである点も一致する。時に弱音を吐くが
芯は強く、観る側が感情移入しやすい。かれらは家族や友人、仲間の身を思うがゆえに、無償の労働についたり、
苦難の旅に出たりする。己が身の不利や危険を顧みず。己が身。
 ここで少し冷静に、生物としての己、というものを考えてみたい。
 多田富雄著『生命の意味論』(新潮社)は、免疫系的見地から「自己」を考証する。そこでは「自己」は存在では
なく行為であるという。ウィルスなど外部からの侵入者=「非自己」に対し、「自己」が行う行動様式の総体である、
と。I am what I do. というわけだ。細胞は自己複製・組織化を行い、内部や外部から情報を取り入れて自己の体
制を確立・運営する。(筆者はその営為を超システムと呼ぶ)。ここで言う自己は単に細胞を人格化したというだ
けでなく、自我意識をもった人間単体としての自己に通じるものがある。
 文中にペストについて触れた部分がある。この伝染病の度重なる流行は、人間に近代的医療の発展、すなわち
近代的行動様式=自己、の発展をもたらしたという。
 フランスの文豪アルベール=カミュの代表作のひとつに『ペスト』(新潮社)がある。アルジェリアの町オランがペ
ストの流行によって封鎖され、住民や、たまたま現地に滞在していた旅行者は、外部との接触を断たれてしまう。
物語は町の医師リウーの目と、その友タルーの手記を通して綴られる。印象的なのは新聞記者ランベールの変
化だ。最初、旅行者である彼は、フランスの恋人の元へ帰るべく脱出策に奔走する。しかしリウーのペスト患者へ
の献身的行動を目の当たりにし、行きずりとは言え関わってしまったこの災禍から逃げた所に、自分の幸福は有
りえないと判断、脱出を中止し、志願の保険隊に入る。
 タルーの存在も大きい。彼は若き日に、検事である父親が死刑判決を下す裁判を傍聴し、衝撃を受けた。人を
死なせたり、人の死を正当かする一切のものと闘う覚悟のタルーは「明瞭に話し、明瞭に行動する」人物だ。「人
は神によらずして聖者となりうるか」という真摯な命題を投げかけつつ、ペストとの闘いに散っていく。
 かれらは利他的な行動に身を捧げながら、それが自分の心の満足のためだということを常に意識している。
 世間に知られて久しいながら、読み返すたびに斬新な、リチャード・ドーキンス著『利己的な遺伝子』(紀伊国屋
書店)を思い出す。この本は『生命の意味論』中でも紹介されている。傷を負ったふりをして逃げ、子を捕食者か
ら遠ざける親鳥の「擬傷」や働きバチの巣への貢献は、利他的な行動と見られてきた。それが実は、「個」よりも
「遺伝子」の存続を最重視する「利己的な遺伝子」の指令による行動なのだ、という説だ。生物の遺伝子は自らの
子孫や所属集団を拡大された自我ととらえるので、自分以外のもののために命を捨てる行為は、利他的に見え
ても結局は利己的である、と。
 物語に登場する人びとにも、あるいは同じことが言えるのかもしれない。しかし動機が利己的であるにせよ利他
的であるにせよ、またそれを意識するにせよ、しないにせよ、個体としての自分を捨て去ることの難しさは、日常
的な経験から想像がつく。
 自分でない誰か、もしくは何かのために身を捨てるということが、人種や時代を問わず普遍的なテーマとなる由
縁である。
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 『自己犠牲について』・2         ーーウィークリー出版情報’03年5月3週号掲載(日販図書館サービス刊ーー

  「利他的”利己的遺伝子”に寄り添う」

 自己犠牲の”犠牲”という語は本来神への供物を指す。人間が供物にされた時代もあったが、徐々に獣で代用
したり、形代を作ってその役に充てるようになった。
 光と闇の根元的な対立を綴ったスーザン・クーパーの『闇の戦い』シリーズ第2巻『みどりの妖婆』(評論社)には、
ユニークな形代が登場する。舞台は英国、コーンウォールのトリウィシック村。ここでは毎年、海の女神に捧げる
形代として、木の枠組に枝葉を差し込んだ”みどりの妖婆”の像が作られる。妖婆は人間達に様々な願い事を託
された後、断崖から海に突き落とされる。皆が自分の願い事だけをする中、少女ジェーンは妖婆自身の幸せを願
った。海で生命を得た妖婆は少女の願いの優しさを思い出し、物語を動かす重要な行為をする。
 形代は人の形をとるものが多い。変化して愛玩用となったのが人形だ。ルーマー・ゴッデン著『人形の家』(岩波
書店)は、小さな木の人形トチーとその家族の物語。それぞれ材質も性格も違う一家は、人形の家で仲良く暮らし
ている。ある日、高価で高慢な人形マーチペーンがやってくる。彼女は一家を台所に押しやり、一家のお母さんで
あることりさんをいじめる。セルロイド製のことりさんは、いつも頭の中にからころと鳴るものがあり、ものがはっき
り考えられない。マーチペーンは一家の末っ子りんごちゃんをロウソクの炎で燃やそうとする。ことりさんは身を投
げ出してりんごちゃんを救い、自分は燃えつきる。インドのジャータカ神話には、飢えた旅人に食べ物を与えるた
め我が身を火に投じる兎の話がある。実は帝釈天の化身だった旅人は、兎の心に感じ入り、黒焦げの亡骸を月
の面に永遠に留めてやる。月と兎の説話の由来である。
 同じ話は日本では『今昔物語』天竺の部に伝えられている。兎を釈迦の前世の姿のひとつとする、仏教説話色
の濃い伝承もある。無力なものが人のために我が身そのものを呈する。その設定は感動的であると同時に危う
い。取柄のない存在が人の役に立つためには、命を丸ごと犠牲にしなくてはならない、というふうにも受け止め
られる。他のために犠牲となったものは、尊い存在として特別視される。しかし犠牲になる前は、一段低く見られ
ることもあったはずだ。『人形の家』のことりさんにしても、物忘れが激しく、場にそぐわないことを言うので、彼女
の夫の人形はときどき我慢がならなくなる。
 世界を破滅に導く力を持つ指輪をめぐる物語、映画化でさらに有名になったトールキンの『指輪物語』(評論社)
でも、主人公フロドは小さなホビット族、平和を愛する純朴な民の一人に過ぎない。そんな彼が『旅の仲間(下)』
の巻で指輪を滅ぼす使命を負う。引き受けた後は戸惑いながらも果敢に旅を続けるが、重大すぎる使命に傷つ
いてばかりだ。
 私たちはか弱く純朴な存在を愛しやすく、その愛情と平行するように、彼らを犠牲者として気の毒がる視線も併
せ持ってしまう。、また、このような物語を読んで得る感動は、身近なもののために犠牲になることを潔しとする精
神構造をつくることにつながりはしないだろうか。前回この欄で触れた”利己的な遺伝子”は、それも良しとしては
いたが。
 物語の作者たちは、ことりさんには彼女を思い続ける家族を、フロドには彼のために苦労を惜しまない旅の仲間
を用意している。記憶に残され、寄り添われることによって、犠牲者たちは絶対的な孤独をまぬがれる。絶大な魔
力ゆえの孤独を秘めた無気味な形代の妖婆にさえ、ジェーンがいる。妖婆、ことりさん、そして、魔法使いガンダル
フから「かれは見える目をもつ者には、澄んだ光をたたえた杯とも見えるようなものになるかもしれぬ」と言われる
フロド。かれらの物語は本の中では終わったが、現代の社会で再生され、繰り返されているように思う。

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『自己犠牲について』・3           ーーウィークリー出版情報’03年6月3週号掲載(日販図書館サービス刊)ーー


 本を読み終わって、ある場面や台詞が忘れられないことがある。著者の考え方やテーマが心に深くきざまれる
ときもある。共感し、刺激を受けた本の中の言葉を、どのようにして自分の中に取り込むか。濾過して日常に落
とし込んでゆくか。それを模索するのも読書のひとつの醍醐味だ。今回、『自己犠牲について』という主題に沿っ
て本を紹介してきた。誰か、もしくは何かのために死ねるかという問題は、そのために生きられるかという問題と
表裏一体だ。相手への関わり方のネガとポジといえるかもしれない。現実の生活では、大切な人のために死ぬ
よりも、生きなければならない場合の方が遙かに多い。
 インドにクリシュナムーティという人物がいた(1976年没)。神智協会という宗教団体で指導者として育成され
たが、真理は組織的な営為を通じて得られるものではない、と考えるようになり、宗教を離れて一人で活動する
ようになる。彼にとっての真理とは「あるがままのもの」への理解と受け止められる。「あるがままのもの」とは何
だろうか。
 著書『自我の終焉』(篠崎書林)から引くと、「現実に、一瞬一瞬、行為し、考え、感じていること」。「あるがまま
のもの」を本当に理解したいと思うときには「自己と対象を重ね合わせて同一化することもなく、非難もしない精
神状態」が必要だという。
 クリシュナムーティの考え方に共鳴しつつ考えてみると、自己犠牲も「誰かや何かのために〜〜べきだ」という
理想=観念に基づいて行為する限りは、観念への自己同一化を図っているに過ぎない。対象である誰かや何か
への愛、共感が本当にあるならば、べき論の入り込む余地はなく、行為のみがある。
 受容の哲学は、ビジネスの現場にも応用できる。他人の発言の邪魔や批判をしないというルールのもとに各自
アイデアを出し合う、ブレーンストーミングというやり方がある。「対象を非難しない」場であるから、誰もが安心し
て、自由で多彩な発想を出せる。
 越川禮子著『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』(講談社)によれば、江戸の寺子屋や”講”(町人の間に組織された
一種の相互扶助会)では既にブレーンストーミングが行われていた。江戸しぐさとは、江戸商人が身につけたマナ
ーだが、広く万民に役立つ共生術でもある。狭い道ですれ違うときに相手に胸を向けて肩を引き、半身になって
通り過ぎる”肩引き”も江戸しぐさ。自らが一歩譲って他者への寛容を示す。手の平サイズの自己犠牲と言える。
 相手尊重の心情の背景には、江戸の町の人々が目の前の人を仏の化身と思っていたことがあるという。現代
に生きる仏教徒ではない人間が江戸しぐさに学ぼうとするなら、目の前の人を自分の好きな相手に置き換えてみ
るのも一案だ。絵や彫刻に表される仏の姿は柔和で美しく誰の目にも受け入れられ易い。同じように自分の好き
な人間は、容貌の美醜とは関係なく無条件に受け入れたくなる美しい存在である。
 橋本治著『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(筑摩書房)では、美しい、と感じる感情が、そこにあるものを「ある」
と認識させる、と説明する。「ある」ということに意味を見出したときに人間関係が芽生える。
 美しいと感じることは、憧れを抱くことでもあるという。憧れは「自分にはその要素がない」という、自己の欠落を
あぶり出すものでもあるため、敗北感をも呼び起こす。その敗北感を素直に受け入れられる人、または最初から、
美しいもののあるがままの姿を見ることの出来る人が、純朴な人間というものだろう。
 無駄な気負いを持たず、自らの目と感受性を常に愛するものの上に注ぎ、行為するときには理由づけなど必要
としない純朴な存在。そのような存在は自分の行為の果てに待つのが死であっても、それを犠牲とは思わず、ただ、
ひとつの終わりとして見るだろう。絶対的な無にはなりようのない終わりとして。

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