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友だちの部屋(きどのりこ)

 西沢杏子詩集『ズレる?』によせて  〜〜『ズレる?』の跋文より〜〜

 いわゆる「少年詩」と呼ばれる詩を読んでいて、時たまではあるが苛立ちを感じることがある。 子どもの感性になりかわって大人がうたうことが胡散臭いというのではない。純真素朴な<童心>の表現を見るたびに、子どもの実存はもっとシュールでへんてこなものだと思うからだ。また作者そのものが日々生きている修羅の巷を捨象し、ハレの日の祭りの賑わいだけを連ねる詩にも抵抗がある。
 西沢杏子さんの詩に私が惹かれるのは、いかにも「少年詩」にふさわしい直截な生命の歌とともに、作者自身のケ(褻)の部分の表明と、作者の個性でもあるシニカルさとがコミになって、独自な詩の世界をつくりだしているからに他ならない。 ……と考えていたら、「三日坊主」という詩があるではないか。

 一つ二つ三つ
 抜き出した今日のハレの陰に
 雲隠れする百のケ

「豊年祭りのように言葉を祀る」ことを詩人は嫌い、ケの部分を隠し、殺すことに抵抗を感じる。なにしろ二つ三つのハレの陰に、百のケがあるのだから。人生とはそのようなものであることは、年若い読者も、大人ほどではなくても充分認識している。その隠れた百のケの上に立つならば、「少年詩」も、また「児童文学」と呼ばれるジャンルも、大きな意味があり、また事物を見る清新な視線を持ち得るのではないか、と思う。
 そして西沢さんの詩には、その最も造詣の深い対象としての昆虫たちをはじめ、多くの生き物たちが出てくる。表現されるのは「共生感」などというありきたりのものではない。「ぐんぐん近づくしあわせ」や「こんこんにち!」に易しい形でうたわれているものは、二つの生命のまったく対等な激しい出会いであり、ここでは作者と猫、またキツネは等身大の姿としてイメージされる。そしてこの出会いは、それぞれ相手を「孕みあう」といった肉体感覚が近いかもしれない。生存形態を異にするものたちの出会い。しかし両者はすれ違ってももう「とぼとぼ」とは歩かない。ベクトルは違っても<同行二人>となって「こんこんにち!」と元気に歩いていく。
 また、これもまったくケに属するところの日常的な生命の苦悩をうたう時、それはもう作者自身のものと区別がつかない。たとえば「神さまの色」では、「苦みの谷間から/黄色い胆汁を滴らす」のは、詩人自らの苦悩であり、一方「虫は自分で気がつく前に/黄色い体液をしぼりだす」。通底する苦しみのために、神は「黄色」という同じ色を与えたのだと納得される。また「逆恨み」をしながら「どぶのように」生きていて、雨戸のなかで目覚めているのは、作者でもあり、トタテグモのようなものかもしれない(「見えないものは見えないから か」より)。「見えない苦悩」には、何の援助物資も集まらない。見えないものは暗いから……。ここでも詩人は生命のなかのケの部分を見ている。
 夕暮れに青虫が黒いうんちを一粒落とす、という「夕暮れ」では、ごく微小な単位での「裏切り」というものがうたわれているが、これも青虫と自分の間なのか、あるいは人間同士の些細な行為であるのかわからない。とにかく、

 夕暮れは青虫の・
 うんちあたりからやってきて・
 
 森のように静かに・
 土のように深々と・
  わたしのなかにしみ込んでくる・・

 夕暮れはやがてすべてを包む闇となり、そのなかでケの微小な単位も、作者のなかにしみ込んでいく。こうした感覚は若い読者にも共有できるものに違いない。

 この詩稿を国分寺駅ビルの上階にあるコーヒー店でいただいた折、印象的なできごとがあった。お話している最中に西沢さんの目は、駅ビルの窓の張り出しにとまっていた一羽のハクセキレイを捉えた。「あんなところにハクセキレイが!」
話を中断して西沢さんは叫ばれた。私はもちろん、談笑していた人びとが誰一人気づかなかった一羽のハクセキレイに、瞬時に気づかれたのが何とも西沢さんらしかった。ツグミのために「空にいっぽん線を引いてやりたい」と願う詩人らしかったのだ。
 そして「過重や不意の出来事によく堪える」、また「思慮深くすこしズレる」こともある「尖った敷石」のような人間に私もなりたい。また何かをうたう時があれば、願わくばこの詩人のように、その対象と深く同一化したいものだ。そうした西沢さんの姿勢に少し近づくことができたかと思う拙句を一つ、この詩集に献じることにする。

 てのひらに動悸はげしき青蛙

           2005年6月     きどのりこ


 詩集『陸沈』(西沢杏子)によせて  〜〜’04・4・10号「ほっ!とタイムズ」紙掲載

「大隠は市井にあり」とは真の隠者は山野に逃れず、かえって俗世間の中に沈潜して生きるという「文選」の詩句。
その状態を陸沈というのだそうだ。それをタイトルとした詩集は、まさにこの時代の阿鼻叫喚の中で、あえて生者と
死者の織りなす人間の深みに身を沈め、そこから言葉を発しようとしている。
 床下の闇に、多くの他殺体が埋まっているという詩がある(「床下の秘め事」)。また、背中に老いた死者と瀕死の
赤子を背負って眠ろうとする詩もある。いずれも私たちの生が、何の上に成り立っているかを象徴的にうたいながら
も実感があり、ユーモラスでさえある。 流れる指紋が自らを数える「ひとべちょ/ふたべちょ/みべちょ…」といった
自嘲的な響き(「指紋」)にも、この詩人の鋭い言語感覚があらわれている。シルクロードをうたった後半では「砂漠」と
いうモチーフを得て、そのまなざしはさらに研ぎすまされている。西安の昼間、往来する「今」をしゃがんで眺めている
男に「陸沈」を見る詩人は、また森羅万象の生命をうたうすぐれた少年詩集や童話を多く著しているが、それも詩人の
一つの「陸沈」の姿勢といえよう。  

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