Rail Story 9 Episodes of Japanese Railway |
●小便小僧は知っていた
東京を南北に縦断するJR路線は数多い。特に田端-品川間は山手線、京浜東北線が併走する賑やかな区間だ。これに東海道本線や高崎線・東北本線、さらに新幹線と、日本の鉄道を代表する区間とも言えるだろう。
しかしこの区間に線路が増設され現在の姿になるまでは、戦前からの長い歴史があったという。その時代の流れを見つめ続けて来た生き証人がいた。
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田端-品川間は現在山手線と京浜東北線が独立しているが、分離運転が実現したのは昭和31年11月19日のことで、東海道本線の全線電化完成と同時だった。それまでは両線は線路を共有していたが、戦後に急増した乗客で国電は戦前には考えられなかった程の混雑を生み、独立を余儀なくされたという、いわば時代の要請だった。しかしその工事はその時に着工されたものではなく、戦前既に着手されたものの戦争で中断を余儀なくされたものが転用されていた。
その工事とは「京浜急行線計画」というものだった。なぜ京浜急行?
京浜急行と名前を聞くと誰でも現在の京急をすぐ思いつくはずだが、当時京急はまだ京浜電鉄と湘南電鉄、京急になったのは戦後の話である。
戦前、鉄道省は輸送量の向上とスピードアップのため電車を走らせる線路を増設しているが、昭和8年9月15日に中央線御茶ノ水-中野間を複々線にして四谷、新宿のみ停車とした急行(今の快速)を走らせた「中央急行線」がその始まりだった。続いて関西でも線路増設により急行電車が走り出したが、当時「快速」はもっぱら「快速度」というネーミングに用いられた例が多く、名古屋を中心にした「中京快速度」や、関西から伊勢を目指した「参宮快速度」などが知られている。これらは電車ではなく蒸気機関車の牽く列車で、現在とはニュアンスの異なるものだったようだ。
続いて昭和11年、東京-品川間で東海道本線と横須賀線を分離し、さらに京浜東北線電車の一部も走らせるという「京浜急行線」が着工された。これは中央急行線同様、一部の駅は通過するものとなっていたが、品川駅の北と田町駅の北にそれぞれ立体交差を予定していた。
現在田町駅の浜松町寄りは、山側から京浜東北北行き・山手内回り・山手外回り・京浜東北南行きの順に線路が並んでいるが、かつて山手線の線路はここで途切れており、ここから北は田端まで今の京浜東北線の線路を共用していた。線路の途切れた先には東京から延びてきた京浜急行線が京浜東北南行きを乗り越して海側へ移るため、立体交差の盛土となっていた。
続いて品川駅の田町駅寄りには、京浜急行線がさらに東海道本線を乗り越す立体交差が計画されていて、この間は盛土ではなくコンクリート高架橋でつくられた。
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山手線田町駅北側は線路がなく、盛土があった | 品川駅北側の高架橋は現存している |
工事は路盤がほぼ完成、東海道本線の海側への移設、新橋・浜松町駅のホームの設置まで進んだが、やがて戦争の激化により昭和17年に工事は中断されてしまう。
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戦後は山手・京浜東北線の混雑緩和のため、上野から常磐線や高崎線などの蒸気機関車が牽く列車を新橋へ延長してみたものの、1日9往復の設定しか出来ず決定打にはならなかった。
こうなると山手線・京浜東北線分離運転は急務、昭和24年12月に工事は再開された。あの「京浜急行線」計画が大部分利用されることになったが、計画の一部変更により既に出来ていた二つの立体交差は使い物にならなかった。まだ電車を迎え入れていない浜松町駅はホームには昭和27年10月14日、鉄道開業80周年を記念して像が建てられた。そう、有名な小便小僧である。
昭和29年4月15日から一部完成した部分を利用して、暫定的に常磐線の電車が朝夕ラッシュ時限定で上野-有楽町間の延長運転を行なったが、ここまで上野-東京間は東北本線の線路を利用していた。今でも上野始発着の列車がこの間で待機する姿が見られるが、のち東北新幹線を通すために線路は分断されている。
のち田端-東京間を含めた工事も終わり山手線・京浜東北線の分離運転が実現した。田町駅の盛土は撤去されたが、品川駅の高架橋はそのまま残った。
浜松町駅で工事完成を待っていた小便小僧も晴れてホームでお客を迎えることになったが、「京浜急行線」もう一つの目的だった横須賀線の東海道本線からの分離は、この時点でまだ実現していない。
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日本が高度経済成長を迎えた頃、国鉄が計画した「通勤5方面作戦」の一つに総武線の線路増設が盛り込まれ、両国-東京間は地下線となることが決まり、昭和41年5月に工事が始まった。この作戦では東海道本線東京-小田原間の線路増設も含まれていたが、東京-品川間も同様に地下線となることになっていた。
将来的には東京地下駅が両線のターミナルとなるはずだったが、駅の規模を抑えるため東海道本線または横須賀線と、総武線との直通運転を行うことになった。また現在の馬喰町駅は当初本町駅となっていた。
総武線両国-東京間は昭和47年7月15日に開業、特急『わかしお』『さざなみ』が新設され、快速電車も房総を目指した。その後も工事は進められ、総武線快速電車は昭和51年10月1日には品川へ達した。
のち昭和56年7月5日津田沼-千葉間の複々線完成により、総武線における通勤5方面作戦は終結している。
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東京-小田原間における「通勤5方面作戦」では、当初工事は平塚-小田原間で進められたものの、後は貨物列車専用の線路をつくり、空いた線路を転用するしか方法がなかった。
まずは汐留-鶴見間に大井埠頭経由の貨物線を東京貨物ターミナル新設を絡めて建設、昭和48年10月1日に開通した。以後の工事は反対運動もあって遅れたが、昭和54年10月1日の横浜羽沢ターミナルを経由する鶴見-東戸塚間の貨物線開通をもって完成した。
これで品川-鶴見間の品鶴線は横須賀線に転用出来ることになったが、新川崎駅の新設やカーブの改修が必要だった。鶴見-大船間は元の東海道本線の貨物線を横須賀線に転用することになり、いずれも工事は急ピッチで行われた。
昭和55年10月1日、晴れて東海道本線東京-小田原間の線路増設が完了、横須賀線との分離運転が実現してこの間の通勤5方面作戦は終わった。同時に横須賀線は総武線快速との直通運転が始まり現在のスタイルが出来上がったが、これをもってかつての「京浜急行線」の目的が達成されたといっても過言ではないだろう。
ただし横須賀線の電車は東京-品川間は地下線経由になり、浜松町駅の小便小僧を横目に走ることがなくなってしまった。
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浜松町駅の小便小僧 | 今も大切にされている |
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山手線・京浜東北線は工事のため時々どちらかの線路を用いて走ることがある。これは分離運転開始前から田端駅と田町駅構内で、両線が一つになっていた設備をそのまま使うことで可能となっている。この時だけは戦後の山手線・京浜東北線に戻ってしまっている。
浜松町駅の小便小僧は、茶色の旧型電車から現在のステンレス車体の最新型に至るまで多くの電車のデビュー、引退を見届けてきた。頭上にはモノレールが走り、向こうには新幹線が疾走している。今は横須賀線電車には逢えなくなってしまったものの、浜松町駅のシンボルとしての存在は変わらない。
そして、かつての「京浜急行線」が今に至る長い経緯を、全て知っている。
あの小便小僧は、東京を縦断する数多くの線路の歴史を知る生き証人だったのです。しかもそれは国鉄ではなく、一人の歯科医が寄贈したものと石碑に書かれています。また小僧が着る季節ごとの衣装は、ここを通るときの楽しみの一つです。
次は歴史に書かれていない歴史の話です。
【予告】初の特急電車
―参考文献―
鉄道ジャーナル 1976年10月号 鉄道サービス百年史 鉄道ジャーナル社
鉄道ファン 2004年9月号 「首都圏5方面作戦」とは何だったのか 交友社
鉄道ピクトリアル 2000年11月号 山手・京浜東北線 分離運転にまつわる思い出 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2004年9月号 東海道本線 線路改良の記録 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション4 総武線 線路増設計画 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション4 総武線複々線化と東京駅乗り入れ工事 鉄道図書刊行会
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