Rail Story 8 Episodes of Japanese Railway

 ●美濃町線を救った電車

高度経済成長以後、日本の交通界は大きな変貌を遂げた。

それは「モータリゼーション」だった。昭和30年代以後、国民車構想の名の下に自家用車の発達は目覚しいものがあったのは事実だが、これが結果的に路面電車や地方のローカル私鉄を邪魔者にしてしまったのも確かだ。

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名古屋の近郊には世界に冠たる自動車メーカー、トヨタがあるのはご存知のとおり。モータリゼーションの立役者、大衆車のカローラやパブリカなどは発売開始以来爆発的人気を得て日本全国で走り出すことになったが、これがトヨタのお膝元、名鉄にとっては大きな脅威だった。

このままでは多くの通勤客が自家用車に流れてしまうことは火を見るより明らか。名鉄は早急に対抗策を打ち出す必要に迫られたが、まずは電車のグレードアップと特急網の拡大を行うことにした。名鉄を代表する電車のパノラマカーは、6両で運転する名古屋本線だけでなく支線区にも4両に組み替えたパノラマカーがお目見え、パノラマカー以外の電車もドアが二つ、車内のシートは転換式のクロスシートというスタイルを定着させていく。

ところが名古屋本線を中心とする架線電圧が1,500Vの線区はその恩恵に預かったが、問題は当時まだ電圧が600Vで、堀川を始点としていた瀬戸線と、同じく電圧600Vで岐阜地区の美濃町線、揖斐線などの路線にはこのサービスを行うことが出来なかった。

そこで名鉄は瀬戸線用に古い電車を改装、車内は転換式のクロスシートを取り付け、パノラマカー同様の赤い塗装を施し、アクセントに白の帯を入れた厚化粧ではあったものの、特急が走り出すことになった。

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名鉄の岐阜地区は岐阜市内線、美濃町線、揖斐線などの600V線区が存在するが、これは複雑な経歴を持つ現在の名鉄の路線網が関係している。美濃町線はもともと明治42年に設立された美濃電気軌道を前身としており、明治44年2月11日、岐阜市内線と同時に開業している。基点は市内線の神田町(現在の岐阜柳ヶ瀬。戦後徹明町に移動)で、従って路線や電車の構造は路面電車の延長線上という設定だった。

その後美濃電気軌道は岐北軽便鉄道(のちの揖斐線)を合併するものの、名岐鉄道の前身の初代名古屋鉄道と合併、のち名岐鉄道は愛知電気鉄道と合併して再び名古屋鉄道となり戦時中に谷汲鉄道(のちの谷汲線)を合併、名鉄岐阜地区の路線が形成される。

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のちモータリゼーションを迎え、名鉄は岐阜市内線と揖斐線との直通運転を昭和42年に開始、翌昭和43年には谷汲線も同様に直通運転となったが、美濃電気軌道時代に製造された大正生まれの古い電車に、無理やりパノラマカー同等の転換式クロスシートを押し込めたものを新岐阜駅前から走らせた。

名鉄岐阜地区の600V線区電車は新岐阜駅近くの長住町の工場で保守が行われていたが、やがて手狭となり今の岐阜工場に移転することになった。そのため工場と600V線区とを結ぶ線路が必要となり、昭和41年8月、美濃町線の競輪場前から分岐した引込み線がつくられていた。

完成した岐阜工場と引込み線は各務ヶ原線のすぐ脇。揖斐線・谷汲線に続く岐阜地区の輸送改善策は、この引込み線を活用して美濃町線の電車を新岐阜駅へ直接乗り入れることだった。これなら名古屋からパノラマカーで着いた乗客が一旦市内線に乗り換え、徹明町で再び美濃町線に乗り換える手間がはぶける。

しかし問題は各務ヶ原線と美濃町線の規格の違いだった。両者はレールの幅は同じとはいえ各務ヶ原線の電圧は1,500V。路面電車スタイルの美濃町線の電車は各務ヶ原線の電車とは大きく違っていた。

そこで名鉄は美濃町線の古い電車の足回りを利用して、両方の電圧に対応する新車モ600形を製造した。車体は路面電車スタイルとなるのは仕方ないが、パノラマスカーレットの赤い車体に白い帯をきりりと締め、車内はもちろん転換式クロスシートだったが、床下に全ての機器を納めることが出来ず、一部は屋根の上に鎮座したのはご愛嬌。新岐阜駅の各務ヶ原線乗り場にはこの電車に対応する低いホームが増設され、途中の田神駅では通常のホームの端に低いホームを継ぎ足して対応している。

延長した工場引込み線は田神線と名乗り昭和45年6月25日開業、美濃町線との直通運転が始まった。このモ600形を使った急行運転も行われ、新岐阜-美濃・新関間を50分間隔で走った。この電車は美濃町線の救世主となったばかりか、翌年鉄道友の会のローレル賞を受賞するという栄誉に輝いた。名鉄の輸送改善策は一旦は成功を見るが、その後自家用車ともう一つの「敵」がその座を脅かすことになる。

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名古屋地区で都市間輸送を一手に引き受けてきた名鉄ではあったが、やがて国鉄が余剰になった急行用電車を使って快速電車の運転を始めるようになってから変化が現れた。これは今の新快速とパノラマスーパーの戦いまで続いている。

名鉄の支線区にまで至る特急・急行ネットワークにより、岐阜地区の各路線は一旦は活発化したが、昭和63年6月1日に岐阜市内線の徹明町-長良北町間が廃止された。これは翌年岐阜で開かれた「ぎふ中部未来博」開催にあたり、その輸送手段として岐阜市内線は不適当と判断されてしまったからだ。逆に博覧会アクセス用道路の整備が進み、以後美濃町線に平行するバス路線や自家用車がライバルとして台頭することになる。

前後して国鉄はJR東海となったが、信じられないことに東海道本線の名古屋地区では普通電車の運転が1時間に数本という、かつての「汽車型」ダイヤが残っていた。これではせっかく国鉄時代に導入した名鉄特急のライバル、快速改め「新快速」も実力を発揮しきれなかった。ところが後のバブル景気により名古屋のベッドタウンが岐阜市内よりもさらに郊外にまで広がり、結果JR東海は名鉄のシェアより外に広がりを見せ、新車を次々と投入し新快速・普通電車を増発、スピードアップも実現する。

これは自家用車でJRの最寄り駅まで行きJRに乗り換えて名古屋へ向かうという選択肢もあるということを意味している。事実名古屋-岐阜間をほぼ直線で結ぶ東海道本線はスピードでも優位に立ち、逆にこの間カーブが多く線形の悪い名鉄は特急のスピードアップが限界に達し、新岐阜乗換え、その先の美濃町線は路面電車スタイルのままで最高速度40km/hという足の遅さも手伝って、かつての天下は揺らぎ始めた。モ600形からはいつしか白の帯が消え、赤一色になってしまった。

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平成4年、名鉄は美濃町線美濃-新関間6.3kmの廃止を打ち出す。その後地元の自治体との協議は長引いたが平行して走る長良川鉄道に代替となる駅を新設し、新関から長良川鉄道関駅まで路線を移設することで協議は合意に達し、平成11年3月31日をもってこの区間は廃止された。

名鉄岐阜地区の600V線区は累積赤字が増え、続く平成13年9月30日をもって谷汲線の全線と揖斐線黒野-本揖斐間が廃止された。同じ日に名鉄のJR高山線直通特急『北アルプス』が廃止されたが、この区間に走っていたモ750形は戦前の名岐鉄道時代に高山線に乗り入れていた経歴を持ち、奇しくも同じ日に路線もろとも運命を共にするとは誰も思わなかっただろう。

平成14年10月から11月にかけて、名鉄岐阜市内線を中心としたトランジットモール交通実験が行われた。これは既存の交通機関を活用して市街地の活性化を図ろうと全国各地で行われているものだが、多くの都市ではまずまずの成果を挙げている中、ここ岐阜では「効果なし」という苦渋の結論に至ってしまった。実際それほど岐阜ではクルマ社会化しているという裏づけにもなり、名鉄は平成17年3月31日をもって岐阜地区の残る600V線区全ての廃止を決めてしまった。

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先行して廃止された美濃町線美濃-関間だが、美濃駅跡は現役当時そのままに保存されている。ホームには美濃町線を救ったモ600形と、先輩のモ510形が今にも走り出しそうな姿のまま並んでいる。かつて岐阜からこの地に電車を走らせ、地域の発展に寄与しようとした先人の苦労と、長年活躍してくれた電車と駅に対する愛着が感じられる。

旧美濃駅 美濃町線で活躍した名鉄モ600形
今も残る美濃駅舎 保存されているモ600形

名鉄美濃町線で活躍したモ600形も老朽化が進み最後は稼動車1両を残すだけとなった。そのまま最後の日まで活躍を続けた。


地方都市におけるクルマ社会化は予想以上に深刻なようです。全国各地で愛すべき路線や電車が次々に過去のものになっていくのは、クルマと道路が便利になっただけなのでしょうか。 

次は同じく名鉄美濃町線から異色の電車についての話題です。

【予告】海を渡った電車

―参考文献―

鉄道ジャーナル 1976年7月号 特集 私鉄の急行電車 鉄道ジャーナル社
JTBキャンブックス 私鉄廃線25年 36社51線600kmの現役当時と廃線跡を訪ねて JTB
新版まるごと名鉄ぶらり沿線の旅 七賢出版

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