Rail Story 8  Episodes of Japanese Railway

 ●京阪電車の大きな存在

京阪電車と言えば、二階建て車を連結した華やかな特急テレビカーの印象が強い。その特急は大阪淀屋橋と京都出町柳を直結しているが、最近は速達形の「K特急」と停車駅を増やした「特急」に変化、朝を中心に3ドア車も走るようになった。また今まで特急とは無縁だった私市へも、朝夕ラッシュ時に「おりひめ」「ひこぼし」というネーミングの特急がデビューし、かつての京阪間ノンストップというエリートスタイルから変貌を遂げている。

戦後、京阪特急が走り出した時の区間は天満橋-三条だった。淀屋橋からとなったのは昭和38年4月16日のことで、それまでの53年間はずっと天満橋が大阪側のターミナルだった。
また京都側の三条から出町柳へ延長されたのは平成元年10月15日と、割と最近の話である。つまり、今では当たり前のような淀屋橋と出町柳の存在はまだまだ歴史が浅く、むしろ天満橋と三条がターミナルとして長く親しまれたという証が残っている。

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天満橋駅が開業したのは明治43年4月15日のことだった。京阪は当初路面電車スタイルだったこともあってか、この天満橋駅は駅というよりは路面電車の終点停留所のようなものに過ぎず、ホームも低いものだった。大正9年になり駅全体を覆う大屋根を設置し、ホームを京都側に延長、この時ホームを前後半分に分けて降車用と乗車用として使うようになった。電車が高速型に進化するにつれてホームの高さも上がり、ようやくターミナルとしての体裁が整ったという。
昭和7年には再び駅の改良工事を行い、以後地下化までずっと京阪の大阪側ターミナルとして存在していた。

駅の地下化により元の駅跡地は大きく変貌し、今ではOMMビルがそびえている。いっぽう地下の新駅の上には松坂屋が進出、かつて電車がのんびりと発着していたという様子は全く感じられない近代的な街となった。

OMMビル
天満橋のOMMビル

しかしかつての京阪天満橋駅の存在は、現在も地名として残っている。

京阪が開業した頃、大阪市電も同様に路線ネットワークを拡大していた。市電天満橋停留所の一つ東の停留所についた名前は「京阪東口」だった。ここは道路の交差点でもあり、以降交差点名としても「京阪東口」が定着した。
その後大阪には早くにモータリゼーションがやって来た。既に昭和30年代初めには乗客が減りだし赤字経営になってしまったが、それ以上に深刻だったのは、自動車の爆発的な増加で電車が身動きさえ取れなくなってしまったことだった。昭和35年10月6日の大阪市内交通マヒは10時間にも及び、市電の廃止を決定的なものにした。

大阪市は市電から地下鉄への転換、既存私鉄路線の市内乗り入れを進めていく。京阪天満橋駅は地下に潜り、電停はバス停に変わったが、「京阪東口」の名前はそのまま受け継いでいる。
また交差点名もそのままで、大阪国際女子マラソンのコースにも入っており、全国のテレビでこの交差点の存在を知ることも可能である。

京阪東口バス停 京阪東口交差点
大阪市バスの「京阪東口」バス停 交差点名も「京阪東口」

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さて京都の三条のほうは既に「三条京阪」が地名としても十分通用することはよく知られている。これは京都市内の地理が東西と南北の通りが交わる場所を基準にしているためで、開業以来鴨川の東詰めを走っている京阪電車はやがて「線路」ではなく「通り」として認識されるようになったからだ。こうして本来「京阪三条駅前」となるはずのものが「三条京阪」または「京阪三条」という言い方が常識となっていた。京都市バスの停留所は昔から「三条京阪前」だった。

現在京都市内の東福寺の先から出町柳の間は地下を走っているが、工事が着手されたのが昭和54年3月、一旦三条まで開通したのが昭和62年5月24日だった。大都市の路線地下化としては比較的遅い部類に思われるが、計画そのものはずっと前の昭和10年に出来上がっていた。

それは昭和9年秋に日本列島を襲った室戸台風により鴨川が氾濫したことに始まる。京都府は急ぎ鴨川の改修が必要という結論を出したが、それには鴨川と琵琶湖疏水の間の堤防上を走る京阪電車が邪魔となる。昭和11年には京阪の地下化の認可申請が行われたが、やがて戦時体制に突入したことにより計画は頓挫してしまう。
ようやく昭和40年になり京都市都市交通対策審議会でこの計画が再燃、ところが続く昭和43年の都市交通審議会の答申ではこの計画は高架化というものだった。
しかし京都という街の景観という特殊事情もあって、昭和47年から行われた調査により計画は再び地下化に落ち着き、何と事の起こりから45年近くを経てようやく着工の運びになったという。

のち地下区間の出町柳延長が実現し、地上に残っていた京津線の三条駅は一旦「京津三条」と名乗ったものの、平成9年10月12日の京都地下鉄東西線と京阪京津線の直通運転開始により京津三条駅もなくなってしまった。

ところが、京阪三条駅の場所は今でも「三条京阪」だ。そればかりか地下鉄東西線の駅名まで「三条京阪」ではないか。

現在の京阪三条駅入口 地下鉄東西線の三条京阪駅 バス停は三条京阪前
京阪三条駅入口 地下鉄は「三条京阪」駅 バス停は昔から「三条京阪前」

地下化された京阪の跡地には川端通が延長されたが、三条通との交差点は「川端三条」とは言わない。それどころかこの交差点名は昔から「三条大橋」となっている。これでは橋の東詰めか西詰めか紛らわしいところだが、西詰めのほうは三条木屋町だ。

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京津線三条-御陵間の廃止により、三条通をクルマをかき分けて走っていた電車も姿を消したが、実はこの区間には日本で最急クラスの勾配があった。

都ホテルの前の蹴上電停から大津側に進むと、電車は路上を離れ専用軌道に移りいきなり急勾配を登り始めたものだった。
実際この場所を歩いてみるとかなりの急坂であるのが判るが、その割合は66.7パーミル、あの信越本線横川-軽井沢間の碓氷峠と全く同じものだったのだ。碓氷峠の場合は専用の機関車を連結しなければどの列車も走れなかったが、京阪京津線の小さな電車たちは、毎日何食わぬ顔をしてスンナリとこの坂を越えていたのだ。
もっとも箱根登山鉄道はさらに急な80パーミルだが、あちらは重装備の電車。京津線は郊外電車と路面電車の合いの子のようなスタイルだったのが大きな違いと言えようか。

京津線が走っていた三条通 道路の右側は京津線が走っていた
現在の三条通 ここが66.7パーミル勾配だった

京津線の地下鉄東西線直通は路線の性格まで大きく変えることになってしまい、多くの電車が役目を失った。廃止直後はそれらの電車は不要となった線路跡や京津三条駅跡に集められ無残な姿を晒していたが、やがて跡地の道路への拡張を前に姿を消していった。
三条-四宮間の主的な存在だった80形電車は売却が検討され、一時は福井鉄道へ…という話がまとまりかけたが、最終的に折り合わなかったという。また解体を逃れ浜大津駅に疎開していた仲間もいたが、現在は石坂坂本線の錦織車庫で静かに保存の日を待っている。

京津線で活躍した80形
浜大津にいた頃の80形

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乗客のニーズが多様化したことにより徐々に変化をしつつある京阪特急。それに地下鉄との直通運転によりこちらも大きく変わった京津線。しかし路線の持つ本来の歴史は変わることはなく、沿線の人たちの生活の一部として存在している事実が、京阪電車の大きな存在でもある。

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 2000年12月臨時増刊号 【特集】京阪電気鉄道 鉄道図書研究会
鉄道ピクトリアル 2003年10月号 【特集】関西大手民鉄の列車ダイヤ 鉄道図書研究会
関西の鉄道 1999爽秋号 京阪電気鉄道特集 PartV 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2001初冬号 大阪市交通局特集 PartV 関西鉄道研究会

JTBキャンブックス 私鉄廃線25年 36社51線600kmの現役時代と廃線跡を訪ねて JTB

―あとがき―
 
今回もお待たせして申し訳ありません。
 
前作「レイル・ストーリー7」をリリースした時点で持越しとなっていた東京地区や名古屋地区の話題を取り上げることは決めていましたが、それだけでは不十分という気もして、やはり大阪地区の話題は外せませんでした。
取材や資料集めをしている中、ボクに聞こえてくる話題は明るいものばかりではありませんでした。特に名鉄の岐阜地区600V線区廃止のニュースは、やはり…と思う半面、割と大都市に近い地方都市でのクルマ社会化が著しいのに驚きは隠せません。やはり鉄道会社にとって厳しい現実なのだと改めて感じました。
 
同時に大都市でも鉄道の姿が変わってきたと思ったのは「異母兄弟の謎2」で取り上げた電車の共通化です。これを単なる工業化と捉えるかどうかは個人的な判断はあるにせよ、とにかくコストダウンは必至というのも現実のようです。ただ、特急などその鉄道のスター的存在にまで及ぶのは、乗る人にとって魅力が無くなるということにもなります。現に小田急ロマンスカーが再び前面展望室付きの連接構造に戻るではありませんか。「旅」「夢」という心も大切だという表れではないかと思います。
 
今は鉄道の復権が叫ばれていますが、まだまだ模索が続くのでは…という気もします。
ただしストアードフェアカードに始まる交通機関のシームレス化とキャッシュレス化は、少し流れを変えたな…という実感もあります。なにしろカード1枚という手軽さは、鉄道のみならずバスなどを含めた交通機関の復権も可能ではと思います。今はまだ大都市中心ですが、地方都市でも導入されつつあるICカードは、正に「切り札」としての役割を果たすかもしれません。
 
次回作をリリースするまでの間、悲しいニュースを聞くことがなければいいのですが…。
 
ご乗車ありがとうございました。

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