大変ながらくお待たせ致しました
レイル・ストーリー7 只今発車します

 ●二つの『しらさぎ』ものがたり(後編)

大井川鉄道での第二の活躍を続けていた『しらさぎ』だったが、近鉄南大阪線特急に使われていた16000系、南海高野線から「ズームカー」こと21000系、京阪から特急「テレビカー」3000系が相次いで移籍し、『しらさぎ』は車庫で休む日が多くなってしまった。平成14年10月には事実上引退した。

というのも、これら関西大手私鉄からの移籍車は全て特急として走っていたハイレベルな電車ばっかりで、何といっても冷房がついていた。ところが『しらさぎ』が新製された当時、私鉄の電車で冷房なんてものは特急電車以外では名鉄でようやく実用化され始めたばかり。ただし南海からやってきた21000系は南海時代に改造で冷房を取り付けているし、同時期にデビューした地方私鉄の電車では、富山地鉄のように改造して冷房を取り付けるところもあったが、これらはスチール車体だから問題はなかった。

ここで『しらさぎ』のオールアルミ車体というのがネックとなってしまった。
しかもこの電車の場合は試作的要素が強かったため、ボディはアルマイト加工された部材を溶接して組み上げてあり、これは世界初の試み、かつ現在でも『しらさぎ』だけという極めて特殊なものである。無理をして冷房装置を取り付けるよりは移籍してきた他の電車に役目を譲るほうが良いと判断されてしまったようだ。

それからの『しらさぎ』は、大井川鉄道本線の終点、千頭駅でその身体を休めていた。正面には北陸鉄道時代から受け継がれたエンブレムがなおも輝いており、開放的な車内は加南線という観光路線を意識した設計を伺わせてくれていた。

近鉄特急と並んで

現在は千頭駅に

栄光のエンブレム

近鉄16000系と並んで

千頭駅で休む『しらさぎ』

光り輝くエンブレム

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昭和46年7月10日に廃止された北陸鉄道加南線だが、今でもかつての名残を見ることが出来る。

北陸本線大聖寺駅の東側には山中線のホーム跡地が現在も広がっている。そこから北東側に進む線路跡はしばらく2車線の道路となっていて、もとの帝国繊維前駅を過ぎ、国道8号線をアンダークロスしたあたりで舗装が途切れている。ここからはクルマさえろくに進めないような道に変わり、一旦南よりの山間地を経由して山代線との分岐点だった河南に至っていた。

大聖寺駅跡は空地のまま

線路跡は細い道に

山代線大聖寺駅跡地

山間部へと向かう線路跡

そのまま大聖寺川沿いに進めば良かったものを、あえて山間地を経由したのは山中馬車鉄道として開業した当時、途中から商売敵の山代温泉の景色が見えてしまうのはどうか…という話があったからと伝えられている。

山中線は河南から先は現在の国道364号線の歩道部分を走っていた。終点だった山中駅はバスターミナルとして整備され、廃止当時は駅舎がそのまま使われていたが今は建て替えられている。

山中駅跡

山中駅跡

山中駅跡のバスターミナル

駅舎は建て替えられている

河南から分岐した山代線は、大聖寺川を渡っていた鉄橋が現在も歩道として使われている。その先は全国的に有名な巨大旅館「ホテル百万石」の脇を通り、今度は2車線の道路となって山代駅跡へと続いている。

大聖寺川の鉄橋はそのまま

山代駅へと進んでいた

山代東口駅跡は道路に

大聖寺川を渡る鉄橋跡

この先山代駅へと進んでいた

山代東口駅跡

山代温泉には山代線のもう一つの玄関口、山代東口駅があった。駅舎は鉄筋コンクリート造2階建てで、山代駅よりもずっと立派だった。廃止後は山中駅同様バスターミナルとして使われたが、現在は線路の跡を利用した県道の拡張工事により取り壊され、かつての面影は伺えなくなってしまった。
この先国道8号線との立体交差部分までは道路となっているが、さらに先は終点だった新動橋まで線路跡は田圃になっている。

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その後加南線という名前自体すっかり忘れ去られていたが、平成17年8月、驚くべき動きがあった。

大井川鉄道で翼を休めていた『しらさぎ』は、生まれ育った山中温泉に戻ることになった。加南線はやはり石川の人々の心の中に生きていたのだ。
『しらさぎ』は大井川鉄道の好意もあり無償で山中町へ譲渡されることになり、8月6日に新金谷をトレーラートラックの牽かれて出発、9日には山中温泉に出来た道の駅「ゆけむり健康村」に到着した。早速山中町職員や消防署、北陸鉄道など関係者により清掃や整備が行われ、8月14日から一般公開された。

山中温泉に戻ってきた『しらさぎ』 北陸鉄道のマークも復活
山中の地に舞い戻った『しらさぎ』 北陸鉄道のマークも復活した

車体は大きな変化はないが、大井川鉄道時代に増設された正面のライトはそのままとなっている。ただし車体の中央の「ワンマン 千頭-金谷」の表示は取り払われ、代わって北陸鉄道のマークが復活した。
また車内も開放されており、往時を偲ぶことが出来る。
運転台と客室の間には壁はなく、連結部も大きく2両の電車が一体になるように見せている。客用ドアもガラス部分を大きくするなどの工夫がなされ、北陸鉄道と製造を担当した日本車両の意気込みが感じられる。加南線ではたった8年の活躍だったが、モータリゼーション以前の鉄道の存在が如何に大きかったかが判るというものだ。

大井川鉄道時代に取り付けられたワンマン運転用機器はそのまま残っており、一部の広告類やドアの締切表示なども、この電車の歴史を物語っている。

運転台は開放感たっぷり 連結部は大きく取られている ガラスを多用したドア
運転台は開放感満点 連結部は大きく取られている ガラスを多用したドア

山中温泉のある江沼郡山中町は、平成17年10月をもって加賀市への合併が行われる。『しらさぎ』の帰還は、山中町最後のビッグプロジェクトとして行われたものだったのだ。由緒ある「山中」の名を、そこへかつて走っていた電車の記憶と共に残すために。
その一部始終は、先に空へ旅立ったかつての僚友『くたに』も、遠くから目を細めながら見ていたことだろう。

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「加南線」は、北陸本線の列車から乗換えて温泉へと向かう乗客で賑わっていた。鉄道の果たすべき役割があった。しかし時代は変わり、国鉄特急『しらさぎ』はよりビジネスライクに変身を遂げ、北陸鉄道『しらさぎ』はかつての姿のまま、栄光のエンブレムを輝かせながら生まれ育った山中温泉で静かに余生を送っている。


思わぬ長い話になって、初の3話構成となってしまいました。
北陸に限らず哀しい歴史を持つ鉄道路線というのはたくさん存在しますが、運良く第二の働き場所を得た電車もあれば、そのまま路線と運命を共にした電車も…。また路線の跡も今なお判るもの、全く判らなくなったものもあるようです。
それにしても北陸鉄道『しらさぎ』が、まさか戻ってくるとは思いませんでした。関係者のご尽力に感謝します。

次は同じ石川県から能登地方の話題を取り上げてみましょう。

【予告】もうひとつの「能登線」

−参考文献−

鉄道ジャーナル 1975年5月号 聞き書き 北陸本線の生い立ち 鉄道ジャーナル社
鉄道ピクトリアル 1996年9月号 <特集>北陸の鉄道 鉄道図書研究会
鉄道ピクトリアル 2001年5月臨時増刊号 【特集】北陸地方のローカル私鉄 鉄道図書研究会
鉄道ピクトリアル 2002年4月号 【特集】581・583系電車 鉄道図書研究会
鉄道ピクトリアル 2003年1月号 【特集】私鉄高性能車の半世紀 鉄道図書研究会
名列車列伝シリーズ 17 特急はくたか&北陸の485/489系 イカロス出版

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