おまたせいたしました。
レイル・ストーリー6、ただいま発車いたします。


 ●東海道・山陽新幹線うらばなし(前編)

昭和39年10月1日、日本の鉄道輸送の姿が生まれ変わった。東海道新幹線の開業である。この鉄道はスピード、規模等当時世界一の存在として君臨することになった。

明治5年にスタートした国策としての日本の鉄道だが、レールの幅は国際標準である1,435mm(標準軌)ではなく1,067mm(狭軌)が採用され、全国展開が進んでいった。これはイギリスの技術指導によるものだったが、国土が狭く山国である日本は、欧米人からはそれがふさわしいと判断されるのも仕方なかったのだろう。

しかしそれは輸送量の増大と高速化の要求には必ずしも満足出来るものではなかった。後に国は二度レールの幅を標準軌に拡大する計画を立てたが実施直前に中止となる。
続いて鉄道省は東京-下関間には新たに標準軌を採用して車両を大きくし、高速運転を可能にする「弾丸列車」構想を打ち出した。ゆくゆくは海底にトンネルを掘り、中国大陸まで線路を繋げようというかなり壮大な計画だったが、日本は戦争への道を歩み始め、弾丸列車構想は一部区間の着工に踏み切ったものの、あえなく計画そのものが消えてしまった。

そして戦後を迎え、鉄道車両には次々と新技術が導入されていく。鉄道省改め日本国有鉄道(以下国鉄)は動力近代化を進め、日本の大幹線の東海道本線には、戦前からの考えを覆した電車による特急「こだま」がデビューした。
この電車の成功もあり、東京と大阪を行き来する人が大幅に増えた。高度経済成長も受けて、貨物列車も含めた東海道本線の列車運転本数は瞬く間に増えていった。これでは近い将来東海道本線はパンクしてしまう…

このため東海道本線には線路を増やすことが計画された。確かにそれで今まで以上の列車を走らせることが出来るが、そこに急浮上したのが戦前の弾丸列車構想だった。「こだま」以降培った国鉄の技術を結集し、世界一の高速鉄道を実現しようというものだった。それは第二次大戦敗戦国である日本が、いかに国力を付けたかを世界に知らしめるチャンスでもあった。

ただし、このような計画は万里の長城、戦艦大和と並んで「世界の三バカ」と罵られたりもしたが…

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新幹線の工事は昭和34年4月20日に新丹那トンネルで行われた起工式でスタート。これは戦前の弾丸列車構想時代に着工されていたものを受け継いだものだった。しかし目標とした時速200km走行は全く未知数の世界。路線の規格も大幅に違うため、国鉄は神奈川県の鴨宮にモデル線を作り、実用化に向けた試験を行うことになった。
当初の構想では新幹線は今のような旅客専用ではなく、夜間は貨物列車も走らせる計画であった。これはコンテナ列車を電車にしたもので、在来線で試作車が作られたが実用化には至らなかったという。

完成したモデル線には2両編成(A編成)と4両編成(B編成)の1000型という型式のプロトタイプ車が搬入された。動力装置、車体の構造や座席の形状など、様々な方式が比較検討され、自動列車制御装置(ATC)の実用化試験も行われることになった。なにより、飛行機に似た先頭部は「夢の超特急」として日本中の注目を集める存在には間違いなかっただろう。
昭和38年3月30日、B編成を使って行われた高速試験では、とうとう256km/hの記録を達成した。小田急SE車や特急「こだま」の151系から培われた車両技術、北陸本線で実用化に至った交流電化が見事に花咲いた瞬間でもあった。開業後の最高速度は210km/hと決められた。
試験結果は量産車の0系へフィードバックされ、昭和39年2月には先行して製作された6両がモデル線に姿を表わした。モデル線は東京、大阪から進んできた線路と繋がって役目を終え、7月には全線通しての試運転が始まり、その初日には現場の関係者だけでささやかなテープカットが行われたという。
プロトタイプ車の1000形6両は事業用に改造され、A編成は万一の事故に備えた救援車941形となったが、結局役目を終えるまで出番が無かったのは幸い。またB編成は電気検測車922形に改造され、新幹線を陰で支える電車に生まれ変わった。どちらも黄色に青帯という姿になって、初代ドクターイエローと言うべき存在だった。

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新幹線0系

昭和39年10月1日、世界一の高速鉄道の栄冠に輝く東海道新幹線が開業した。当初は1時間に「ひかり」1本「こだま」1本という今では信じられない本数で、安全を期するために東京-新大阪間を「ひかり」は4時間、「こだま」は5時間掛けてのんびり走っていた。今の「のぞみ」が当時の「こだま」の半分程度の時間で走ることを考えると、時代の変化と技術の進歩を感じるものがある。翌年からは「ひかり」3時間10分「こだま」4時間の運転になり、運転本数も増えていき新幹線の真価が発揮されるようになった。

東海道新幹線には大型ディーゼル機関車911形が存在した。これは軌道検測車921形を牽くという目的もあったが、941形同様万一の事故に備えたものでもあった。その頃未電化在来線の花形機関車として全国デビューしたDD51形を新幹線用としたものだったが、車体のデザインは流線型で、当初の構想にあった貨物電車のものに似ていた。また新幹線の機関車にふさわしく最高速度160km/hを誇ったが、今でもこんなに速いディーゼル機関車は国内には存在しない。のちに軌道検測は電気検測と同時に行えるようになり、ATCの信頼性も高まって、引退した。

東海道新幹線は交流25,000Vが採用されたが、困った事に交流の周波数は日本では50Hz、60Hzが混在しており、しかも東海道新幹線は両方に跨っている。現在なら両用が可能だが、当時の技術ではどちらかに統一する必要があった。東海道新幹線では山陽新幹線の計画もあり60Hzを採ることになり、境界となっている静岡県の富士川より東の変電所には、周波数変換装置が存在している。それは巨大な50Hzのモーターで、これまた巨大な60Hzの発電機を動かすという大掛かりなものであるという。
また変電所から架線に電気を送るシステムも現在とはタイプが異なっており、夜間など集電装置から青白いスパークをたくさん放ちながら走っていたものだった。

昭和47年3月15日、山陽新幹線新大阪-岡山間が開業した。同じ頃新幹線電車のさらなるスピードアップを目的としたロングノーズの951形が試作され、2月24日の高速試験では286km/hの記録を達成した。その後全国新幹線網計画に伴い、食堂車や寝台車も連結した961形もお目見え。この961形は50Hz、60Hz両用設計となっていて、後に50Hzの東北新幹線に移った。食堂車は昭和50年3月10日の岡山-博多間開業を前に実現したが、寝台車は騒音問題もあって実現には至っていない。
山陽新幹線には主に「ひかり」が東海道新幹線から直通することになったが、山陽区間の停車駅はまちまちで、停車駅の少ないのが「赤いひかり」、停車駅の多いのが「青いひかり」と区別された。これは電車の色を変えたのではなく、電車に付いている行先表示の色を変えたことに由来するものだった。

新幹線の車体は大きいこともあって、実現した0系の食堂車は通路を独立させる事が出来た。食堂とは壁で仕切られていたが、壁側の席では車窓を眺めながら食事を取ることが出来ないと不評を買った。後にこの壁には窓が設けられ、通路越しではあるが車窓を楽しむことが出来るようになったが、壁は東京から博多に向かって右側の通称「山側」。実は日本のシンボル富士山が見えないということだったのである。そのままでは本当に富士山が見えなかったかどうかというと、もともと窓のある海側の席からも一瞬ではあるが富士山が見えたという話も残っている。

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新幹線は昭和50年3月10日、とうとう関門海峡を潜り博多にまで達した。しかし九州では線路の下に古い炭坑が数多く残っており、地盤が完全に落ちつくまで徐行運転を必要とした。東京-博多間の所要時間は、最速の「ひかり」でも当初予定の6時間40分から6時間56分にスピードダウンせざるを得なかったという。
太平洋ベルト地帯を支える新幹線は日本の大動脈として、また電車の0系は新幹線の顔として君臨する存在となった。


「夢の新幹線」という言葉はもう聞かれませんが、時速200kmを越える高速走行は、流れて行く景色に驚いたものでした。0系独特の走行音も、どこか味わいがありました。ただし新幹線の話題はまだあるのです。

続いて後編へとまいります。

【予告】東海道・山陽新幹線うらばなし(後編)

−参考文献−

鉄道ジャーナル 1993年7月号 特集●新時代を築いた新幹線のすべて
鉄道ジャーナル 1997年7月号 500系の技術的評価
鉄道ファン 1984年12月号 特集:東京駅
鉄道ファン 1979年12月号 特集:新幹線15年 PART.1
鉄道ファン 1993年9月号 特集:100系新幹線電車
鉄道ファン 1994年11月号 特集:0系新幹線電車のすべて

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