おまたせいたしました。
レイル・ストーリー6、ただいま発車いたします。


 ●幻の路面電車(後編)

京浜急行電鉄(以下京急)といえば、何と言っても豪快な高速運転で有名。それはまるで関西私鉄を思わせるものがある。しかしこの京急の走りは、生まれからは想像出来ないものでもある。前編の京王線同様、京急は路面電車としてスタートしているからだ。

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京急のルーツは今の本線ではなく、大師線だった。明治32年1月21日、六郷橋(今の京急川崎)-大師(今の川崎大師)間を開業した大師電気鉄道に始まっている。これはもちろん川崎大師への参詣客輸送が目的であったが、当時の輸送手段は人力車や乗合馬車だったという時代だ。開業にはこれらの業者からの反発もあったらしいが、基点を官営鉄道(今の東海道線)川崎駅ではなく、単に六郷橋とすることで認可が下りたという。また路線に接続する人力車との連絡キップも発売されたらしく、開業当初から好調なスタートだったという。

この大師電気鉄道は、関東地方の私鉄としては始めてレールの幅1,435mmを採用した。これは現在に至る高速運転を目的としたものはなく、当時官営鉄道がレールの幅を1,067mmから1,435mmに直すという計画に呼応したものと言われている。ただし実際には官営鉄道のレール幅改修は、実施直前に中止された。

大師電気鉄道は参詣客の伸びを受けて、東京と横浜を結ぶ路線を計画した。社名も京浜電気鉄道と改称。明治37年12月には品川-神奈川間が開通して、一応路線が出来あがった。この時の品川は今の場所ではなく北品川の少し先にあり、また神奈川は当時横浜市の外れに位置していた。これでは集客に問題があると思ったのか、路線の全通直前の同年3月には、レールの幅を1,372mmに変えてしまった。
というのは、同じく1,372mmを採用した東京市電(今の都電)、横浜市電乗り入れにより市内中心部へ電車を走らせようという計画があったためで、実際に大正14年3月に品川駅前(高輪)まで延長した時の線路は、東京市電のものだった。

京浜電気鉄道は高頻度運転でたちまち人気が上がり、官営鉄道改め鉄道省は慌てて京浜線の運転を開始した。こうなると対抗上電車のスピードアップが必要となるが、京浜電気鉄道は旧東海道ぞいにつくられた路面電車に近いスタイル。所要時間は55分も掛かっていた。そこで線路を道路から独立させ、高速型電車への脱皮が始まった。今の京急の高速運転は、ここに始まっていると言えよう。

同じ頃三浦半島にも路線の計画がスタートしていた。湘南電気鉄道である。会社は第一次世界大戦の後の好景気を受けて設立したものの、関東大震災の影響で計画は一次中断状態に…。そこへうまい具合に京浜電気鉄道共々、安田財閥の資本参加を得ることが出来た。京浜電気鉄道と湘南電気鉄道は将来の接続を決めた。
この頃川崎の臨港地帯では安田の手により
鶴見臨港鉄道が出来ていたが、もし官営鉄道時代のレール幅改修が実現していたら、京急は国に買い上げられていたのかも…。

湘南電気鉄道は昭和5年4月1日に横浜市内の黄金町-浦賀・逗子間を開業。同年2月には京浜電気鉄道も今の横浜まで路線を延長した。両社の接続点は日の出町と決まり、昭和6年12月にはとうとう路線が繋がった。ただし湘南電気鉄道のレール幅は1,435mmでつくられ、電圧は1,500V、一方の京浜電気鉄道はレール幅1,372mmの電圧600V。この時点では直通運転は出来なかった。

この不便を解消するべく、京浜電気鉄道は昭和8年4月1日にレールの幅を再び1,435mmに改修、同時に現在の品川駅が完成した。ようやく両社の直通運転が始まったが、電圧の違いはそのままなので特殊な複電圧車が必要だった。この状態は戦後まで続いてしまったが、物資の不足により複電圧車の保守も困難とあって、昭和20年12月には全列車横浜乗り継ぎという事態になってしまった。加えて穴守線(現在の空港線)は米軍に接収されてしまう始末

昭和22年12月25日、品川-横浜間と穴守線の電圧の1,500V化が行われた。戦時中両社は京王、小田急等と共に東急に合併させられていたが、昭和23年6月1日には旧京浜電気鉄道・旧湘南電気鉄道は一つとなり独立、京浜急行電鉄が発足した。7月になると品川から横浜以遠への直通運転が復活、昭和26年3月には大師線の1,500V化により全線の電圧が統一され、翌昭和27年11月には穴守線の接収も解除となり、後に久里浜線の延長にも着手、京急は現在のスタイルになっていく。

東京都内には最後の路面区間が残っていた。現在京急に品川から乗るとJR線を跨ぐ八つ山橋を渡ってしばらくノロノロと走り、北品川からようやく本来の走りになる。この間約200mは昭和31年6月27日まで国道15号線の真ん中を走る路面区間だったのだ。これは戦後京急線の適用法が変わった時点で改善が求められていたもので、実際その前後には今以上の急カーブもあってスピードアップ出来なかった箇所だった。ただし改良された今も急カーブであり、ノロノロ運転には変わりはない(笑)。

八ツ山橋を渡る電車

北品川へ向かって走る電車

電車はかつてここから路上に出ていた

現在も残る急カーブ

この最後の路面区間が廃止されたことで、京急はさらに高速電車への道を進んでいくのだが…

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いっぽう京急の電車は、昭和31年から製造された700系(のち600系)は新型の駆動装置を採用したものの、2両連結を基本にした車体のディテールには、戦前から路面電車上がりの電車を1両ずつ繋いでいた頃の面影が残っていた。その後都市交通審議会の答申により都営1号線・京成電鉄直通運転が決まり、乗り入れ用1000系のプロトタイプ車、800系が昭和33年にデビューした。車体は18mでドア3つという東京都、京成電鉄との取り決めによって設計されたが、この電車にも京急伝統の大きめの窓と車体のディテールはそのまま受け継がれていた。

翌昭和34年からは1000系の製造が本格的に始まったが、車体のディテールはそのままだった。正面が2枚ガラスで構成された戦後の「京急スタイル」も継続された。しかしこの直後、地下鉄用電車の基準が変わり、正面にドアが必要になった。それ以降に製造された1000系は正面ドア付きになったが、正面ドアなしでデビューした仲間も同様に改造された。800系は1000系に編入された。

1000系はその後快速特急から普通、地下鉄直通と京急の全ての列車をカバーするオールマイティな存在として昭和53年まで長きに亘って製造が続き、快速特急の12両編成運転も実現させた。この電車こそ現在まで京急を代表する電車と言っても過言ではないだろう。

京急1000系

連結部のディテール

京急を代表する1000系

連結部分に残るディテール

この1000系と、同時期に普通電車用に製造された700系まで続いた戦前からのデイテールは、電車の連結部分に残っている。昭和53年から製造された800系(二代目)からは消滅したが、車両を行き来する幌から外の部分がやや角度を付けられ、テーパー状になっている。これは戦前に1両ずつ電車を繋いでいた頃からの伝統であり、それを唯一残す存在となっている。

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京急はその後快速特急の120km/h運転を実現した2000系、都営線直通用600系(二代目)、独特なインバータ音を出す現在の快特用の主力2100系と、次々と新車をデビューさせた。1000系の活躍の幅は徐々に狭まり初期車の引退も始まった。地方私鉄(高松琴平電鉄)に移り、前編で登場した京王5000系と同じ路線を走る仲間もいるが、引退当初はシルバーに身を改め北総開発鉄道に移籍してかつてのまま京急線に足を伸ばしていた仲間や、殆どそのままの姿で京成電鉄にリースされていた仲間もいたことは特筆される。
そして平成14年からは1000系の後継車がそのまま新1000系という名前でデビューした。しかし1000系は、現在でも京急の伝統を残す電車であることには間違いない。


京急はその豪快な走りと電車の魅力で、多くのファンを持つようです。今の京急といえば「ドレミファ」電車に人気が集中しているようですが…

次は久しぶりに営団地下鉄の話題です。

【予告】後楽園駅の謎

−参考文献−

鉄道ピクトリアル 1998年7月臨時増刊号 <特集>京浜急行電鉄

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