おまたせいたしました。
レイルストーリー6、発車いたします。


 ●富山地鉄乗り入れものがたり(後編)

大阪・名古屋から5往復の直通列車が乗り入れ、車両も名鉄『北アルプス』のキハ8000系はスター的存在、それに国鉄急行電車の475系、国鉄ディーゼルカーのキハ58系と多彩を極め、一気に花咲いた感があった富山地鉄だったが、それは意外にも長続きしなかった。

昭和52年3月、部分開通を続けてきた北陸自動車道は米原で名神高速道路と直結された。
立山黒部アルペンルートには立山駅から室堂までのルートに有料道路がある。この区間はマイカーの通行は禁止されているが、観光バスの通行は可能。このためバスで便利になった高速道路を経由して直接アルペンルートを訪れる事が実現し、地鉄立山線を利用する観光客が減ってきたのである。いっぽうの宇奈月温泉へは高速道からマイカーでそのまま行けるようにもなって、設備が劣る国鉄急行列車は人気が落ち、また北陸線特急『雷鳥』『しらさぎ』の本数も増え、富山での国鉄特急と地鉄電車の乗り継ぎというパターンも拍車をかけたこともあり、地鉄直通列車は少しずつ斜陽化を見せ始めた。

特急『北アルプス』

そんな中で、名鉄『北アルプス』だけは独自の動きを見せていた。それまで立山駅到着後はそのまま翌日まで停泊していたが、昭和51年7月からはその間合いを利用して、アルペンルートと宇奈月温泉を直結する地鉄線内特急『アルペン』にも使われるようになった。他社の車両を用いて運転する特急というのは極めて珍しい例で注目を集めたが、当時地鉄にはまだ冷房車が少なく、重宝されたという。
またその年の10月から、それまで急行(地鉄線内は特急)だった『北アルプス』は、国鉄高山線を含んだ全区間で特急として運転されるようになった。『たかやま』としてデビューした時からの豪華装備が実を結んだことにはなるのだが…

昭和57年、大阪からの急行『立山』は特急『雷鳥』に格上げされることになり立山直通は10月31日で終了、宇奈月温泉直通も11月14日で終了となった。また名古屋からの『うなづき』『むろどう』も高山線特急『ひだ』への格上げのため、翌昭和58年8月31日に運転終了となった。
最後まで残ったのは名鉄『北アルプス』だったが、こちらも同じく昭和58年10月31日をもって直通運転終了となった。『北アルプス』は元の飛騨古川止まりとなったが、後に『ひだ』の高山-金沢間を廃止してしまった昭和60年3月14日には再び富山へ帰ってきた。これは高山線北部から名古屋へ向かう特急が国鉄ではなく名鉄の列車という、珍しい結果となった。
しかし2年後の昭和62年3月10日には『北アルプス』は高山止まりに変更された。富山へは名鉄『北アルプス』に代わり『ひだ』が3往復することになり、以後名鉄のディーゼルカーが富山へ来ることはなかった。ただし『北アルプス』は最後まで話題に事欠かない列車だったのには間違いない。

直通運転の終了と同時に、富山駅構内の地鉄連絡線は撤去されてしまった。

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国鉄がJRに生まれ変わった頃、ちょうど世の中はバブル景気がはじけ、海外旅行に代わり国内観光の需要が再燃し始めた。JR-地鉄の直通運転は再開の運びとなった。富山駅の連絡線も復活し、平成2年7月21日、大阪からの特急『リゾート立山』が再び地鉄のレールを踏んだ。

この列車はディーゼルカーだったが、運転形態は異色だった。大阪-富山間は北陸線電車特急『雷鳥』に連結され引っ張ってもらい、地鉄線内だけ自力で走るものだった。このために山陰線特急『エーデル』から車両をコンバートし電車連結用に改造したという曰くつき。普通車ながらグリーン車なみの設備とあって人気も上がり、翌平成3年7月5日にはさらに2両の『エーデル』用車両を改造、今度は宇奈月温泉直通も復活して特急『リゾート宇奈月』を名乗った。

特急『スーパー雷鳥』

この復活をきっかけとして、いよいよJRの特急電車乗り入れが実現することになった。平成3年9月1日、七尾線の電化開業と同時にデビューした『スーパー雷鳥』は北陸線特急として初めて編成を分割可能なものとなり、富山寄りの3両が地鉄乗り入れを果たした。ディーゼルカーの『リゾート立山』『リゾート宇奈月』は『スーパー雷鳥・立山』『スーパー雷鳥・宇奈月』に生まれ変わった。
翌平成4年7月にはこの電車を使った夜行急行が誕生し、再び『リゾート立山』を名乗り早朝の立山駅に姿を表わした。ただしこれは片道運転で、立山から富山までは回送されて『スーパー雷鳥』としての運転に戻っていたという変則的なものだった。『リゾート立山』は、冬には『シュプール立山』と名を変え運転され、その頃から全国的に広まったスキー列車『シュプール○○』の一員となったのである。

地鉄稲荷町駅を通過する特急『サンダーバード』

平成7年4月23日、新型特急『サンダーバード(スーパー雷鳥)』が北陸線にデビューした。大阪からの地鉄直通列車はこの新車に置き換えられ、この年の7月に地鉄入りした元西武鉄道の「レッドアロー」も地鉄線内特急にデビュー、既に地鉄の一員となっていた元京阪特急と合わせて、まるで鉄道模型のような光景が展開された。

平成9年4月には『サンダーバード(スーパー雷鳥)』は『サンダーバード』と改称、これを受け地鉄直通特急も同様に改称した。また冬の『シュプール立山』も新型車に代わり『シュプール・サンダーバード立山』となったが…

その頃から海外旅行の価格破壊が起き、国内旅行の人気は徐々に低迷していく。
加えて平成7年7月に北陸地方を襲った大雨で、宇奈月温泉の目玉商品「トロッコ電車」こと黒部峡谷鉄道が大打撃を受け、その年の秋まで運休という事態になってしまった。立山黒部アルペンルートのほうは大きな被害はなかったが、こちらもダメではないかという風評まで重なり、地鉄を利用する観光客が激減してしまったのである。その後も思うような人気回復には至らなかった。

平成11年11月15日。この日をもってJRからの地鉄直通運転は終了した。それ以後復活の兆しを聞くこともなくなってしまった。

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これには四つの理由があると聞く。

まずは電車のパワーの問題。『スーパー雷鳥』までの電車は120KWモーター8台装備でトータル960KWだったが、『サンダーバード』はインバータ制御になったこともあり220KWモーター4台装備のトータル880KWになっていた。大幅改良が進んだJR北陸線では高速走行が可能だが、地鉄立山線の連続勾配区間ではモーター単体でのパワーが向上している分スリップが発生しやすく、登坂性能に問題を生じてしまったのである。これは後に『サンダーバード』の地鉄乗り入れ編成だけが故障を多発するという問題まで発生してしまった。

次は補助金の打ち切りだった。伸び悩む地鉄直通列車の赤字を補填するために、宇奈月温泉の旅館組合は地鉄に対し補助金を出して応援していたが、不景気の影響と旅館そのものの宿泊客減少により打ち切られてしまったのだ。

三つ目は地鉄内部の問題。JRからの直通電車は地鉄の電車とは構造や取り扱いが違うため、選抜された乗務員が講習を受け、運転にあたっていた。このことが地鉄乗員組合で「一部の組合員だけが優遇されている」という問題に発展し、組合員の待遇平等を期するためにJR直通列車そのものを断る結果を招いてしまった。

最後は『サンダーバード』の問題。地鉄直通の『サンダーバード』は富山寄り3両で、グリーン車を含む大阪寄り6両は七尾線の和倉温泉へ乗り入れていたが、これではJR線内の富山-大阪間のキャパシティは少なすぎ、また和倉温泉への6両は多すぎるという需給のアンバランスが起こった。また意外と需要の多い金沢-富山間の自由席利用客からも苦情が寄せられた他、切り離しが行われる金沢駅での誤乗も相次いだ。

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以上の理由により、直通運転は意味を持たなくなってしまったのである。後に『サンダーバード』は大阪寄り6両が富山行きとなり、富山寄り3両が和倉温泉行き、もしくは金沢止まりとなってアンバランスは解消された。

平成12年度以降、中断時期はあったものの長く続いた地鉄直通列車は運転されていない。地鉄の利用客そのものも近年は減少が顕著で歯止めがかかる様子もない。富山でJRから地鉄特急に乗り継ぐ客も減り、運転本数も減らされているのが現状だ。今の地鉄のスター的存在、元の「レッドアロー」も力を持て余し気味のようだ。

しかし…富山駅構内のJR-地鉄連絡線は、かつてのように撤去されることなくそのまま設置されている。いつの日か再び地鉄直通列車が復活し、活況を呈する日が来ることを祈りたい。


地方私鉄にとって、利用客の減少は深刻な問題となっているようです。これは大手私鉄でもその傾向が表われていますが、「鉄道復権」を願いたいものです。

次は北陸本線の複雑な歴史に関する話題です。

【予告】敦賀への道

−参考文献−

鉄道ジャーナル 1974年3月号 富山地鉄を走る乗り入れ列車
鉄道ファン 2001年11月号 さよなら”北アルプス”
鉄道ピクトリアル 1997年9月号 <特集>富山地方鉄道
鉄道ピクトリアル 2001年5月臨時増刊号 【特集】北陸地方のローカル私鉄
名列車列伝シリーズ15 特急しなの&ひだ +JR東海の優等列車

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