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レイル・ストーリー5、発車いたします


 ●赤ガエルは難産だった?

長野電鉄(以下長電)長野線の長野-善光寺下2.3kmの区間が、地方私鉄には珍しい地下線の区間になったのは昭和56年3月の話だ。

電車が地下線を走るには不燃構造としなければならないが、当時長電には特急用の2000系12両とOSカー4両以外の34両は旧型車ばかり。それらは当然不燃構造にはなっていなかった。長電は多くの電車を改良する必要に迫られたが、OSカーを増備するほど財政は芳しいものではなく、かといって旧型車を不燃構造にするには新車を造るほどの金額もかかるという。だったら不燃構造になっている中古車を買いとって走らせるしかないのだろうか。

長電は他の私鉄、国鉄(当時)、車両メーカーに声を掛けた。すると東急電鉄(以下東急)から「ああ、それならいいのがありますよ」と返事が返ってきたのだったが…。

結論から先に言うと、東急の中古車を買ったのには間違いはないが、当初候補に上がったのは後に「赤ガエル」というニックネームがついた名車の誉高い東急5000系ではなく、東急でも旧型車で廃車時期に達していた3450型だった。

確かにこの3450型も名車だったことは言うまでもない。ずっと東急線で活躍した代表的電車だったが、もともと昭和一桁生まれで東急東横線の前身、東横電鉄が渋谷-桜木町(今の東横線)を全通させた時に造られたものだったのだ。でもこの電車は昭和39年から47年にかけて車体に大幅な手が加えられ、地下線対応の不燃構造を満たす位にまで生まれ変わっていたのは事実。当時東急では池上線、目蒲線などでのんびり余生を送っていたが、そろそろ引退を迫られていた。

でもいくら車体に手を加えたとはいえ、足回りは古く不適当ではないかということになり、この話は一旦流れてしまった。

同じ頃名古屋鉄道(以下名鉄)ではクルマから電車に戻ってきた利用者が急激に増え、あまりの混雑に名古屋陸運局から「混雑を改善せよ」と異例の勧告を受けるほどになっていた。そこへ東急3450型の後輩格である3700型が助っ人として急遽移籍、東急のライトグリーンから名鉄の赤い塗装に厚化粧し直して再デビューしたという話も残っている。…これは余談。

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続いて長電に入ってきた話は、今の特急「踊り子」の前身、「あまぎ」で活躍した国鉄157系だった。この電車は特急なみ装備を誇り、東武鉄道の特急「けごん」と熾烈な戦いを演じた日光線の準急「日光」で昭和34年にデビューした。新幹線開業前は東海道線特急としても活躍、後に伊豆方面に活躍の場を移したことで有名。独特なスタイリングで人気が高かったが、客室の窓の構造に問題があり昭和51年に引退、比較的短命に終わってしまっていたのだった。その足回りと台枠を利用して車体だけ造りましょうかという話が車両メーカーを通じて長電にもたらされた。

しかしこの案は、国鉄の足回りだと長電の規格寸法をオーバーしてしまうことが判明、勾配線にも対応した制御装置を持つ国鉄157系の足回り再利用は、同じく勾配線区のある長電にはなかなかいい話と思えたが、残念ながらこの話も流れてしまった。

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さて、その頃東急では戦後の鉄道界に革命的進歩をもたらした名車、「青ガエル」こと5000系も引退時期を迎えていた。この電車なら、改造は必要なものの長電の要求にほぼ沿ったものであり、東急では引退時期とはいえ長電ではまだまだ現役で通用するものだった。不燃化もバッチリだった。

東急5000系は昭和29年、東急東横線にデビューした。それまで電車と言えば頑丈な車体を持ち、「うおーん」とモーターの雄叫びを上げながら走るのが当たり前だったが、戦後の技術革新を早くに積極的導入したのがこの電車だった。それは神奈川県の金沢八景に、元の海軍廠の払い下げを受けて設立された東急横浜製作所改め東急車両製造(株)の社運を賭けたものだった。
この電車は、それまでフルフレームだった車体構造を、飛行機や自動車のモノコック構造を取り入れて徹底的に軽量化を図り、新型の駆動装置を用いてモーターを小型で高回転タイプにし、内装、電装機器に至るまで軽量化と近代化したというものだった。これらの設計思想は、JR、私鉄を問わず今でも受け継がれている。

車体デザインも大きく進歩し、ライトグリーンの新塗装に身をまとって颯爽と東横線急行を中心に活躍した。そのスタイルからいつしか「青ガエル」というニックネームがつくようになった。玉電こと玉川線には、この構造を取り入れた「ペコちゃん」の名で親しまれた200型が登場した。5000系には続いてステンレス車体を試用した5200型も仲間入り。

だが、やがて時代の要求で東急線は大型でオールステンレス車体の電車に変わっていき、「青ガエル」は活躍の場を奪われていった。

そこへ長電から「ぜひ東急5000系を」という申し出があり、「青ガエル」の長野入りが決まったのである。
長電用に改造された東急5000系改め長電2500系は、東急時代のライトグリーンから長電の赤とクリーム色に身を改め、まず2両が昭和52年1月24日、長津田から国鉄線に入り機関車に牽かれて長野へと旅立って行った。

「赤ガエル」こと長電2600系

電車は翌日には長電の須坂車庫に到着、さっそく練習運転が開始された。この時、同伴した東急の社員による取り扱い説明もあり、長電からはいたく感謝されたという話で、これが後に永く長電でも愛される結果となったのかもしれない。
最終的には2両編成10本、3両編成2本の計26両が長電での活躍を始めた。のち「青ガエル」はその姿から「赤ガエル」というニックネームがついた。
そして馴れない雪国での活躍もすっかり板についた昭和56年3月1日、長電長野線の地下線開業と同時に「赤ガエル」は真価を発揮し始めたのである。

またこんな優秀な電車を他の私鉄も見逃すはずがなく、同じ長野県内の上田交通や、福島交通、熊本電鉄、岳南鉄道にも「青ガエル」が移籍、第二の活躍を始めた。中には連結部分に運転台を設置したものもあり、それは本来の運転台のスタイルではなかったため「平面ガエル」というあだ名まで頂戴したという。それが"ど根性ガエル"だったかどうかは別として(笑)。

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長電ですっかり主役の座を得た「赤ガエル」だったが、いつしか車齢40年近くになりとうとう世代交代の時期がやってきた。同時に利用客の減少で合理化に迫られ、長野オリンピック開催を機会に置き換えが決まったのだ。
長電「赤ガエル」は平成5年度から徐々に数を減らし始め、当初の予定から1年遅れの平成9年度には全車勇退した。鉄道界に戦後の技術革新をもたらし、永く活躍した「青ガエル」改め「赤ガエル」には拍手を贈りたい。

長電須坂駅構内には、引退した「赤ガエル」が現役時代の姿のまま駐まっていて、かつての活躍ぶりを偲ばせていた。まるで今にも営業運転に走り出しそうな…そんな感じだった。しかしOSカー同様こちらも平成14年8月に解体処分されてしまい、その功績を伺い知ることが出来なくなってしまった。

でも東急5000系は永遠の名車の一つには間違いないだろう。


「赤ガエル」にとって代わった電車というのは…実は驚くべき事実があったようですが…。

次は、その電車の話題です。

【予告】二度経験したというものは?

―参考文献―

鉄道ジャーナル 1973年7月号 私鉄名車物語E 東京急行電鉄3450形 鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル 1977年5月号 東急5000系→長電2500系 信濃路で活躍開始 鉄道ジャーナル社
鉄道ファン 1985年2月号 30才を迎えた"青ガエル" 東急5000系のあゆみ(1) 交友社
鉄道ファン 1985年3月号 30才を迎えた"青ガエル" 東急5000系のあゆみ(2) 交友社
鉄道ファン 1997年12月号 長野電鉄の赤ガエルとOSカーの今 交友社

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