お待たせいたしました
レイル・ストーリー5、発車いたします


 ●さようなら 急行『能登路』

本州の日本海側の真ん中に、日本海へ突き出る格好の能登半島がある。金沢と、能登半島に点在する都市をずっと結んできた急行『能登路』。平成14年3月のダイヤ改正で、惜しまれつつ最期の時を迎えた。

● ● ●

昭和35年4月、急行『能登路』の前身、準急『のとじ』が軽快なディーゼルカーで金沢-輪島間にデビューした。国鉄(当時)七尾線・能登線初の優等列車で、県庁所在地の金沢と能登半島を結ぶこの列車は大好評で迎えられた。ただし列車の一部は能登線に直通していたものの、能登線内は普通列車だった。
のち好評に応えて準急『そそぎ』『つくも』『へぐら』が増発され、4往復体制になった。この時能登線直通車も準急に格上げされたが、昭和39年10月、これらの姉妹列車は今の『能登路』の名に統一されている。

キハ55系時代の『能登路』

『能登路』は石川県内だけの運転だったが、大阪からの直通ディーゼル急行『奥能登』が昭和38年4月に走り出した。下りは和倉(現:和倉温泉)まで、上りは輪島からの運転で変則的ではあったが、これも好評であった。
さらに名古屋からの直通ディーゼル急行も昭和43年10月、運転が開始された。下りは夜行列車の延長という形ではあったが、高山線急行『のりくら』が穴水(下りは普通列車になり宇出津まで)まで足を伸ばすようになった。同時に大阪からの直通急行『奥能登』は『ゆのくに』に改称、金沢までの電車急行と同じ名前を名乗ることになった。
かつて「陸の孤島」とまで言われたほど交通が不便だった能登半島だが、ディーゼルカーの躍進で一気に便利になっていった。

話は前後するが、準急『能登路』は昭和41年3月から急行に格上げされた。大阪で開催された万国博の頃から、国鉄は「ディスカバージャパン」と銘打った作戦に出たが、これに乗じて「能登半島ブーム」が巻き起こり、昭和48年10月には急行『能登路』は季節列車を含めて下り8本、上り10本と仲間が増えていた。

しかしこの能登半島ブームが結果的には『能登路』の最期に結びついてしまった。
能登半島には列車だけでなくマイカーによる旅行者も激増した。その頃能登半島の道路整備は進んでおらず、ゴールデンウイークには能登半島の入口である津幡から、何と輪島までが渋滞の列になったという。これを重くみた石川県は、能登を目指す高規格の道路建設が急務と考えた。
その後金沢の郊外、内灘から羽咋まで開通した能登海浜道路は後に穴水まで延長され、能登有料道路となった。この道路の開通により交通事情が一変したと言っても過言ではないだろう。マイカーによる所要時間が大幅に短縮され、「鉄道離れ」のきっかけとなってしまったのである。

● ● ●

その頃富山県と長野県を結ぶ「立山黒部アルペンルート」が出来あがり、昭和46年には富山地方鉄道乗り入れ急行『越山』が和倉-立山間に新設された。能登と立山という観光需要の融合を狙ったものだったが利用率は芳しいものではなく、1シーズン限りの運行にとどまった。

昭和53年10月、大阪からの『ゆのくに』の特急格上げと同時に七尾線乗り入れが廃止された。この時『能登路』は下りが1本増えたが、この頃から人気はマイカーに移っていった。
昭和55年の夏シーズンからは、新幹線から座席を移設し、ビデオセットが設けられた指定席車「ロマンスカー」が連結されたが人気は芳しいものではなく、約2年で連結は中止されてしまった。昭和57年11月のダイヤ改正では高山線からの直通急行『のりくら』が特急『ひだ』増発を受けて廃止され、大阪や名古屋からの直通急行がなくなってしまった。以後『能登路』は少しずつ運行本数が減っていってしまう。

昭和63年3月、能登線の第三セクター「のと鉄道」への移管を控えたダイヤ改正が行われ、『能登路』は7往復に削減され、しかも金沢-七尾間が運転の主体になり能登線直通は廃止、金沢-輪島間直通は僅か1往復になってしまった。

電車『能登路』に使われた415系800番台

続く平成3年9月、七尾線は津幡-和倉温泉間が電化され、大阪や名古屋から直通の特急電車が華々しくデビューした。かつて急行『ゆのくに』『のりくら』として乗り入れていたものが、年月を経て復活したのだ。後には越後湯沢からの『はくたか』も七尾線乗り入れの仲間に加わった。
しかしこの時『能登路』は3往復に減ってしまい、内1本は金沢-和倉温泉間の1往復は電車化されたが、電車そのものは普通電車に使う3つドアの415系(800番台)だった。
この電車『能登路』は半年後の翌年3月には下りの片道だけの運行になってしまったが、ディーゼルカーの『能登路』2往復は1往復が金沢-輪島・珠洲間の運行になり、『能登路』は再び能登線を走るようになった。

平成10年12月、この時のダイヤ改正ではディーゼルカーで残った2往復は金沢-輪島間1往復、金沢-珠洲間1往復に整理され、併結運転は姿を消した。時を前後して、能登有料道路経由の北陸鉄道バスが金沢から能登半島の各地へと路線を伸ばし始めた。

晩年の『能登路』
晩年のディーゼル急行『能登路』の姿

そして平成13年3月末、赤字続きで経営が思わしくなかったのと鉄道穴水-輪島間が惜しまれつつ廃止された。このために『能登路』は廃止を目前にした3月1日のダイヤ改正で金沢-輪島間1往復と、電車の金沢-和倉温泉間下り1本が廃止となり、金沢-珠洲間1往復だけになってしまった。

とうとう孤塁になった『能登路』。ティーゼルカーは晩年には黄色ベースの塗装になり、本数が減り運用に余裕が出来たのが功を奏してか、JR西日本管内の臨時列車にも活躍した。しかし車両そのものはリニューアルされたものの老朽化は隠せず、平成13年9月末で廃止された名鉄からの高山線直通ディーゼル特急『北アルプス』の車両を買いとってテコ入れを図るのでは…という噂もあったが、ご存知のように『北アルプス』は会津鉄道に移籍し、これは噂に終わった。

平成14年3月23日、長い伝統を持つ『能登路』は廃止された。クルマ社会という地方での現実に『能登路』は勝てなかった。でも、陸の孤島と言われた能登半島の交通を活発にし、働き続けた功績は大きなものがあるのは誰もが認める事実だろう。

ご苦労様でした。急行『能登路』。

―参考文献―

鉄道ジャーナル 1975年5月号 北陸本線の生い立ち 鉄道ジャーナル社
鉄道ダイヤ情報 2001年9月号 特集「急行」 弘済出版社
名列車列伝シリーズ15「特急しなの&ひだ」+JR東海の優等列車 イカロス出版

このサイトからの文章・写真等内容の無断転載は固くお断りいたします。


《あとがき》

前作「レイル・ストーリー4」をリリースしたのは昨年6月のことでした。それ以来、次の話題を集めていくうちに、初めて長野に取材に行くことが出来ました。この「レイル・ストーリー5」は本当ならもっと早くリリースしたかったのですが、なかなか取材は思うに任せず、予定していた東京地区の話題は次回作に回すことにし、大阪地区・長野地区・北陸地区の話題で発車となりました。ともかく、リリースが遅くなってしまったことをお詫びいたします。

地元北陸地区の話題を書いているうちに入ってきた情報は「急行能登路の廃止」でした。ボク自身、母の実家の墓が羽咋にあることもあって『能登路』は身近な存在でした。これはこの場でも取り上げない訳にはいかないな…と急遽話題に取り上げた次第です。

記憶を辿っているうちに「鉄少年」していた小学生の頃を思い出しました。毎週のように金沢駅へ通ったものです(笑)。
あの頃はもちろん金沢駅は地上時代。七尾線の定番ホームは旧貨物ホームだった1番線・2番線(その後0番線Aホーム・Bホーム)で、カラカラ…とアイドリング音をたててディーゼルカーが乗客を待っていたのが思い出されます。普通列車などは今では考えられない長い編成で、よく輪島行きと蛸島行きを併結していたものです。

またその頃は蒸気機関車ブーム。ふるさと列車「おくのと」というのも日曜には走っていましたね。牽いていたのは金沢-七尾間がC58、七尾-珠洲間がC11だったように思います。客車の内1両はお座敷車でした。この列車の廃止後、牽引機のC58の140号機は千里浜渚ドライブウエーの入り口である能登有料道路の今浜IC出口に静態保存されましたが、なにしろ海のすぐ近くなのであっという間に錆びてしまい、数年後には解体されてしまったのは残念でした。

おっと、すっかり昔話になってしまいました。

次回作の構想は…実はもう概ね固まっています。いつでも取材の旅に出る気持ちはあるのですが、何分にも休暇と先立つものがなかなか言う事を聞いてくれません(笑)。でも次こそ10ヶ月も空けるようことはしないようにしたいと思っています。

最後になりましたが、お便りを寄せて頂いた皆様、大変感謝しております。励みになりました。今後も頑張りますのでよろしくお願い致します。

ご乗車ありがとうございました。

トップに戻る