Rail Story 15 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 15 

 峠は厳しかった 

昭和30年代になって、それまで一部を除いて蒸気機関車の天下だった国鉄の地方幹線にも近代化の兆しが見えはじめる。信越本線の電化はアプト区間の横川-軽井沢間、それに上越線の延長区間ともいえる宮内-長岡間だけで、高度経済成長を迎えた当時の日本にあって、それらが急務だったのは当然だったと言えよう。

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信越本線の電化は昭和37年に入り急速に進められていく。6月10日の長岡-新潟間に続いて7月15日には高崎-横川間が電化される。この碓氷峠へのアプローチ区間が高崎線と繋がった事により、上野-軽井沢間に80系電車による準急『軽井沢』2往復が運転を開始した。
ただし横川-軽井沢間はアプト式であり電車の直通が出来なかったため、碓氷峠はバスでの運行だった。また軽井沢駅構内は600V電化のため、国鉄直流標準の1,500V用の電車や機関車の乗り入れは一応可能だったが、運転にはコツが必要だったとか。
この時アプト区間を直通出来たのは客車と貨車、それに昭和36年5月1日に上野-長野間に走り出した急行『志賀』のキハ57系、同年10月1日、信越本線初の特急となった『白鳥』のキハ82系だった。ちなみに当時、通常の電車やディーゼルカーでは構造上そのままではラックレールに支障したようだが、これらのディーゼルカーはエンジンのシリンダーを縦型から水平に変更して高さを減らし、台車をエアサス化して乗り切ったという。

特急『白鳥』
特急『白鳥』にデビューしたキハ82系

いっぽう工事が始まっていた碓氷峠の新線は、高崎-横川間の電化とほぼ同時の昭和36年6月7日には麓側2kmが試験線として部分的に完成、信越本線スルー運転用のEF62形、碓氷峠専用の補助機関車EF63形1両ずつが出来上がり、さっそく試験運転が始まった。

EF62形電気機関車 EF63形電気機関車
スルー運転用EF62形電気機関車 峠専用のEF63形電気機関車

アプト式ではない、通常の方式で急勾配を越えられるか。確かに箱根登山鉄道では碓氷峠よりも厳しい坂をアプトなしで電車は行き来しているし、京阪電鉄京津線の逢坂山越えも同様で、しかも碓氷峠と全く同じ勾配だった。
碓氷峠においてもアプトなしの試験は早くから行われており、昭和4年10月にはED41形を用いて急勾配を登っている。その後も試験は続けられたがブレーキに問題があったようで12月20日に戦前の試験は終わった。
戦後まもなくの昭和21年9月3日、今度はED42形で試験は再開され、昭和23年3月26・27日をもってアプト式電気機関車のアプトなし実験は終了。どうやらこれらの実験の結果が思いの他満足いくものだったことも碓氷新線建設へのきっかけになったようだ。

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試験線では連日性能が確認されていた。安全に安全を積み重ねた設計、パワーも十分な機関車の性能は大変良かったが、実際に走らせて見るといくつか問題点も見つかった。試験はむしろこのような問題を出し尽くすことが目的だった。
翌昭和38年に入り機関車が続々メーカーから送られて来た。実際の列車の運転を想定した試験が行われる頃には、峠を登る列車は45km/h、降りる列車は旅客列車で37km/h、貨物列車は22km/hまでは可能で大幅なスピードアップ、また1列車当たりの輸送力は450t、峠では無動力で繋がれる電車は11両編成が妥当ではないか…というところまで見えてきた。この様子ならどうやら夏の行楽シーズンには間に合うかもしれない。

しかし、この碓氷新線の安全性について昭和39年2月25日、国会で問題になっている。通常の方式で大丈夫なのか、また職員の削減ともなれば雇用確保が出来るのか。かつてアプト式が採用された時、その試験運転の結果が甚だしく悪くて国会で問題になったのと似ている。
国鉄は新線の安全性と雇用確保について答弁し納得が得られたというが、碓氷峠での試験はアプト式導入時同様、いくつか問題を抱えていたのも事実だった。

そんな中、新線の開業は7月15日と決まる。これは暫定開業でアプト式もしばらくの間併用されることになり、横川・軽井沢駅構内は600Vのまま残るが、新型電車の165系も少々改造すれば乗り入れが可能なことも判った。試験は鋭意繰り返されていく。

ところが開業を目前にして思わぬ結果が関係者を慌てさせた。やはり碓氷峠は簡単に国鉄の思惑を受け入れなかったのだ。

試験運転の途中で連結器が割れる事件が多発してしまった。これは予想出来なかった事態であり1列車当たりの輸送力は再検討が必要となった。続いて電車をエスコートして峠を降りる途中に非常ブレーキをかける試験を行ったところ、機関車の次に連結されている電車の先頭車が浮き上がるという事も起こった。こちらも11両というのはとても無理ではないだろうか。そんな関係者の不安をよそに5月16日、新線は出来上がり引き続き訓練運転は続けられていく。

試験運転が始まった頃からの問題点に対してはその都度機関車の改良が続けられてきたが、やはりアプト式とは全てが違っていたのだ。スピードアップが実現した分、緊急時での車両の負担は大きくなる。碓氷新線を通る電車、ディーゼルカー、客車に対しても車体の強化や台車の改造、ブレーキの改良を行った車両に限定されることになり、施工された証には形式番号の前に●を表記した。通称Gマークと呼ばれている。こうしてようやく新線開業の目途がついたのは7月1日のことで、あと2週間しか残されていなかった。
昭和38年7月15日10時18分、横川駅を準急『軽井沢1号』がEF63形電気機関車2両に後押しされ、碓氷新線へ向かっていった。この開業時点で新線での営業運転は準急『軽井沢』2往復のみとされ、他の列車は従来どおりアプト式だった。以後も試験運転は続き、8月末に新線における1列車当たり輸送力が決定したが、峠専用の補助機関車であるEF63形を2台連結してもなお客車列車は360t、貨物列車は400t、電車は新型で8両、ディーゼルカーは7両。碓氷峠はやはり厳しい峠だったのだ。アプト式に比べ結果的に貨物列車に対してのみ、たったの40tしか増やせなかった。

489系のGマーク
碓氷峠対応車の証、Gマーク

9月に入り旅客列車、貨物列車共に少しずつ新線に移行し、9月29日限りで実に70年にも及ぶ碓氷峠のアプト式は終わりを告げた。特急『白鳥』は最後までアプト式で運転されたという。翌日から新線での本格開業となり、既に6月21日に電化が完成していた軽井沢-長野間の電化と併せ、信越本線は電化時代を迎えた。10月1日から上野-長野間に165系電車急行『信州』『とがくし』、上野-長野・湯田中(長野電鉄乗り入れ)間『志賀』など7往復が運転開始、客車列車・貨物列車もEF62形電気機関車のスルー運転が可能となったが…。

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ようやく安定したように思えた通常方式だったが、昭和38年10月16日、峠を登りきった貨物列車最後尾の車掌車が脱線した。アプト式の頃、行楽客を満載した旅客列車があまりの重みに耐え切れず床下の水槽をラックレールに接触させてしまった、あのバーチカルカーブの地点だったのだ。
峠で連結される補助機関車は、アプト式の時代から電化された頃の一時期を除いて峠の麓側に連結されていた。峠を登るときも降りるときも麓側が定位置で、本務機関車1台だけが峠の頂側というのがいつものスタイル。蒸気機関車やEC40形電気機関車はともかく、ED40形は運転台が麓側にしかなく、峠を登るときはバック運転となり前方もろくに見えなかった。同じく麓側のみ運転台のED41形とED42型は運転台部分の車体の幅が若干広く出来ており、前方監視用にごく細長い窓が設けられた。
EF63形は運転台こそ両側にあるものの通常は麓側の運転台しか使わず、頂側の運転台は駅構内などでの使用のみに機能が制限されていた。峠を登る時はやはりバック運転。ただし前方の監視はスルー運転用EF62形や電車から行えるようになった。険しい峠を登る時は列車を後押しし、降りる時はまるでつっかえ棒のような役割を果たしていたが、それは峠のハイパワーなシェルパに求められた宿命だったともいえよう。

ところがこのパワーが災いしたのが貨物列車の脱線だった。列車がEF63形に推され続けると、連結器の「遊び」が詰まり最後には無くなってしまう。最後尾付近では車掌車と機関車との連結器同士がさらにピッタリくっつき、車掌車が水平区間に出た瞬間、まだ勾配にいた機関車が車掌車をそのまま垂直に押し上げたことにより脱線に至ったようだ。
早速原因について調査した結果、連結器の遊びが無くなっても連結器同士が滑らかに追従するよう機関車の連結器にはグリースをたっぷり塗り、また車掌車の直前には空車を連結しないなど取り決められたが、列車そのものの自重でレールが若干沈下するのは避けられず、この沈下と車掌車のリーフスプリングによる上下動が作用しても脱線は起こりうるという。そのため碓氷峠ではたわみの少ない旧式のサスペンションを持つ、この区間専用の車掌車が限定使用されることになり、黒い車体の四隅を白く塗って区別した。

峠専用のヨ3500形緩急車
碓氷峠専用の車掌車 ヨ3500形

単線で開業した碓氷新線だったが、輸送力増強には複線化が欠かせない。横川から途中の熊ノ平まではアプト式の旧線より少し北側の新線に平行して新設、熊ノ平から軽井沢までは旧線を改築して碓氷峠が複線化されたのは、新線開業から約3年後の昭和41年7月2日のことだった。緩勾配を捨て、あえて急勾配を採用した国鉄が目論んだ建設費の圧縮により実現したものだった。

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昭和41年8月24日、信越本線は長野-直江津間が電化された。スルー運転用のEF62形電気機関車の活躍は日本海側に達し、客車急行列車の先頭にも立って活躍を始めた。続く10月1日、信越本線初の181系電車特急『あさま』2往復が上野-長野間にデビューする。碓氷峠のために8両編成に制限され、食堂車もなく他の特急と比べ見劣りするのは当時としては否めなかったが、そのスマートな容姿は信越本線に新たな風を巻き起こした。

いっぽうこの頃、国鉄内部で問題になっていたのが「赤字」。のちに国鉄が解体される原因にもなったが、信越本線ではやはり碓氷峠という特殊な区間のため専用の機関車やその要員を擁しており、1列車あたりの輸送力も当初の計画を満たせず、列車を走らせれば走らせるほど赤字が膨らんでいくのは紛れもない事実。やはり急勾配を改め緩勾配にするべきでは…という意見が出たのは昭和42年の事だった。実際この区間だけの要員はアプト式時代から変わらないばかりか逆に増えていて、人件費が嵩んでいたのも同じだった。

しかし、碓氷新線が開業してたった4年でこのような意見が通るはずもない。確かに碓氷新線は戦後日本の技術力を内外に誇示することは出来たかもしれないが、抜本的な改善になったかといえば疑問は残るだろう。かつてボイルが、パウネルが強く求めた緩勾配とするのが最良の策ではなかったか。

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昭和44年5月30日、政府は「新全国総合開発計画」を打ち出す。これに基づき翌昭和45年5月には「全国新幹線鉄道整備法」が公布され、昭和47年6月29日には東京から長野、富山、小浜を経由して大阪に至る「北回り新幹線」の基本計画が決まり、翌昭和48年11月13日には運輸大臣(当時)から「北陸新幹線」として東北新幹線盛岡以北や北海道新幹線、九州新幹線などと並ぶ「整備新幹線」として建設が指示される。当時は東海道新幹線のバイパスルートとしての機能も考えられていたが、この新幹線計画が後に信越本線に大きな影響を及ぼすとは、誰も想像つかなかった。


結果的にアプト式と大差がなかった新技術…。自然はそう簡単に受け入れてくれませんでした。それでもどうにか板についてきたところに新幹線計画が舞い込んできたのです。

次は、最後まで闘った信越本線と、新幹線の苦難の話です。

【予告】 闘いの果てに

―参考文献―

鉄道ファン 1996年12月号 特集:最後の力持ち EF63 交友社
鉄道ファン 1997年9月号 特集:信越本線 EF63 交友社
鉄道ファン 1997年10月号 碓氷線全史-その2- 交友社
鉄道ファン 1997年12月号 横軽はこうして消えた 碓氷線全史-最終回- 交友社
鉄道ピクトリアル 1993年1月号 <特集>碓氷峠100年 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 1996年11月号 <特集>信越本線 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2009年1月号 <特集>勾配に挑む鉄道 鉄道図書刊行会
RM LIBRARY 39 碓氷峠の一世紀 運転史から見た横軽間の104年(上) NEKO PUBLISHING
RM LIBRARY 40 碓氷峠の一世紀 運転史から見た横軽間の104年(下) NEKO PUBLISHING

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