Rail Story 15 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 15 

 紆余曲折の末に

JR信越本線。平成9年9月30日限りで「碓氷峠」と呼ばれる横川-軽井沢間が廃止され、翌10月1日には北陸新幹線高崎-長野間、通称「長野新幹線」が長野オリンピックを控え開業した。また軽井沢-篠ノ井間は第三セクターの「しなの鉄道」に移管され、信越本線はそれまでとは役割を変え、文字通り信州と越後を結ぶ路線として生まれ変わった。

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大政奉還、そして明治政府の発足により日本は近代国家として歩み始める。それまで公共交通機関など皆無に等しかった中、欧米に倣い国力をつけるのにも必要なのは何よりも鉄道。既に幕末からイギリス、フランスから鉄道建設が提唱されていたが、時のイギリス公使パークスは鉄道敷設を明治政府に働きかけ、早速政府との間で鉄道敷設の会談が持たれたのは明治2年11月のことだった。
どこに鉄道を敷くか。まずは大都市と海外への玄関口となる港とを直結する意味で、江戸改め東京と横浜、それに大阪と神戸の間にイギリス政府の援助を受けて建設が始まったのは、会談直後の翌年の明治3年だった。

次に日本の二大都市である東京と大阪を結ぶ、ゆくゆくは日本最初の幹線となるべき鉄道をどこに敷くべきか。候補となったのは東海道と中山道だった。明治3年6月には日本人の手により東海道、翌明治4年3月には中山道の現地調査が行われたが、調査そのものが「見て来た」程度のものだったらしく、結論には至らなかった。明治5年10月14日、日本の鉄道は新橋-横浜間の正式開業を迎える。
明治7年5月、再び幹線の建設調査が中山道で行われた。今度は日本人ではなくイギリスから招かれたボイルとその部下によるもので、調査精度も少しは上がったようだ。翌明治8年9月にもう一度調査が行われ、報告書が出来上がる。

そこに記されていたのは…「鉄道幹線は中山道が適当である」。

東海道は陸路だけでなく既に海運も発達していたが、中山道は険しい山岳ルートであり、交通は不便。よってここに鉄道を建設することにより交通は活発になり、沿線の地域振興策にも繋がる…というのだ。万一有事の際、東海道では簡単に攻撃を受けてしまうから、という山県有朋の説もあるが、ともかく明治政府はこの意見を取り入れる。
明治10年2月に関西側の京都-神戸間で開業した鉄道は、後に中山道ルートを東進して大垣を目指していく。また関東側の上野-高崎間は既に日本鉄道の手により建設が進められていたため、残る高崎-大垣間の中山道での鉄道建設が決まったのは明治16年8月のことだった。

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明治17年10月20日、中山道鉄道は高崎-横川間の着工を迎える。レールなど資材はまだ輸入に頼らなければならなかったが、ほぼ同時に中山道鉄道の建設資材運搬ルートとして直江津-上田間の直江津線の建設が決まり、後の信越本線の骨格が形成されていく。明治18年10月15日、高崎-横川間が開業した。

しかし…横川から先に立ちはだかっていたのは碓氷峠だった。急峻な地形をどう克服するか、この時点では全く見当がついていなかった。さらに碓氷峠以外の山間部をずっと切り開いて鉄道を建設していくには莫大な費用がかかることも判ってきた。明治政府は再び東海道と中山道をコスト面で比較する必要に迫られ、結果半額程度で建設可能な東海道に変更されるのは半ば当然だった。明治19年7月19日、計画は変更される。中山道鉄道建設の費用として集められた公債は、東海道へと回される結果に。

建設途中で目的を失ったかに見えた直江津線だったが、日本海側と東京を結ぶ鉄道として必要だという話になり、そのまま建設が進められる。明治18年8月15日、直江津-関山間を開業。明治21年5月1日には長野、同年8月15日には上田、12月1日には軽井沢(仮駅)まで路線は延びていった。いよいよ残ったのは横川-軽井沢間だった。

ご存知のように、碓氷峠は麓の横川から登りきったところが軽井沢、言うなれば片道の峠であり単なる峠越えとは訳が違う。どうしても越さなければならない峠である。
さて、軽井沢の中心部は「旧軽銀座」なのは有名だ。行楽シーズンには多くの人で賑わうオシャレなスポットでもある。ここは軽井沢駅前から伸びている軽井沢本通りから続いてはいるが、駅からは幾分離れている。実はこの旧軽銀座をそのまま東へと向かうのが江戸時代までの中山道の碓氷峠で、現在は松井田町峠とも呼ばれているようだ。
明治11年に明治天皇が東北巡幸の際にこの道を御輿で通られたが、あいにく前日の雨で道はぬかるみ、天皇自ら歩いて峠を越えたという話は有名である。このままでは道路事情が極めて悪いため、明治16年から新道の建設工事が始まった。明治19年、現在の国道18号線(旧道)が当時の国道5号線として本来の中山道から約3km程南の中尾川沿いに完成し、以後こちらが碓氷峠を名乗ることになる。

続く明治21年9月5日、碓氷峠の国道上には「碓氷馬車鉄道」が開業した。1日4往復、所要2時間半ではあったが、横川と軽井沢の間に初の鉄道が敷かれた。この馬車鉄道、それに国道が信越本線横川-軽井沢間に大きな影響を及ぼすとは、この時誰も予想しなかった。

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いっぽう碓氷峠に対する国設の鉄道ルートの検討は当初のボイルによる計画では概略に過ぎず、明治16年11月から翌年3月にかけて日本人技師の南清により本格的な調査が行われた。
一般に広義の碓氷峠では前述の旧中山道を含めた別ルートが存在する。入山峠と和美峠がそれで、江戸時代までは裏街道として使われた記録もあるという。これらの峠も含めて検討が行われることになる。
とにかく駅間の高低差が552.5mにも及ぶ区間にボイルは勾配を緩く抑えループ線などを併用して少しずつ登る案を推奨しながらも、勾配を急にしてケーブルで列車ごと引き上げる案や、フェル式というレールの間にもう1本敷いたレールに水平の車輪を押し付け、強力な駆動力を得て急勾配を登る案なども記していたという。これらの案を手に、南は峠に向かった。
測量の結果、ボイルの概略に沿った特殊な装置や機関車を必要としない緩い勾配で入山峠をループ線で越す案、勾配は急になるが同じく入山峠をフェル式を併用しスイッチバックで越す案、和美峠をケーブルで越す案など5案が出来上がったが、今ひとつ説得力がなかったのか、どれも決定打にはならなかったようだ。またこの時点では後の碓氷峠を越す案は考えられていなかった(以下「急勾配」とはアプト式など特殊装置を必要とする勾配、「緩勾配」は特殊装置を必要としない勾配の表記とする)。

しかし残る横川-軽井沢間の建設は急務、明治22年6月イギリス人技師パウネルが現地に派遣され、また日本人技師の本間英一郎も続いて峠に向かい、南の案を精査することになった。パウネルはボイル同様入山峠を緩勾配で越す案を推したが、路線延長が長くなりすぎ、また橋梁やトンネルなども多くなるため建設費が高くつくのが大きな欠点であった。
たまたま当時、ヨーロッパの鉄道を視察していた後の鉄道大臣、仙石貢がドイツのハルツ山鉄道でアプト式というレールの間に水平歯車レール(ラックレール)を敷き、機関車に設けられた歯車を噛み合わせて急勾配を克服した実例を目にした。この報告を基に急勾配案にスポットが当たり、和美峠をアプト式急勾配で越す案、和美峠案の途中から分岐して入山峠近くから同じアプト式急勾配で越す案、それに新たなルートとして中尾川沿いにアプト式急勾配で越す碓氷峠案の3案が比較対象に加えられたが、まずは緩勾配案かアプト式か、どちらが妥当なのだろうか。
パウネルは緩勾配案を強く主張して一歩も引かず、また視察から帰国した仙石は緩勾配案は不可能とこちらも一歩も引かない。結局日本国内ではラチが開かずイギリスのシャービングトン顧問に諮問した結果、アプト式に軍配が上がった。

当初アプト式では和美峠案が有力視されていた。これは緩勾配案を否定されてしまったパウネルも渋々同意した案だという。本間は和美峠案の実測に取り掛かったが、とにかく建設費を少しでも安くしたいのが明治政府の意向だった。そこで急浮上したのが和美峠ではなく中尾川沿いの碓氷峠案だ。和美峠案は碓氷峠案より急勾配区間が少し短かったといわれているが、碓氷峠案は一番距離が短くて済み工事費も一番安かった。もう一度現地に入ったパウネルも碓氷峠案に同意、明治24年2月4日、横川-軽井沢間は正式に碓氷峠案に決定する。

ラックレール 歯車を噛み合わせて登坂する
通常のレールの間にあるのがラックレール 歯車を噛み合わせて登坂する

さてこの時点で碓氷峠には国道5号線(現在の18号線)新道が出来上がったばかり。実測の結果、路線は国道とほぼ並行して作られることになり、その国道を工事用として使えるのは大きなメリットだった。また碓氷鉄道馬車も同じく工事用として使える…本間は自らの碓氷峠案にこれらの事も書いていたという。確かに工事費の圧縮に寄与したことは間違いないかもしれないが、江戸時代までは顧みられることのなかった碓氷峠が、先行した国道のためにその後ずっと遺恨を残すことになろうとは…。

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明治24年3月19日、横川-軽井沢間は仮駅だった軽井沢側から着工される。8月には峠部分の工事が本格化、トンネルは全部で26箇所、また橋梁は18箇所を数える大工事で、しかも工事途中の明治24年10月に濃尾地震が起こった影響で橋梁などの補強も追加されたが、地質が思いのほか安定していたのも手伝ってか約1年半で工事は終わり、翌明治25年12月22日に横川-軽井沢間11.2kmが完成する。途中の熊ノ平には蒸気機関車の給水のための設備が作られた。ちなみに水源は近くを流れる中尾川だったそうだ。
なお工事中約500人の犠牲者が出たと伝えられているが、これは期間中作業員にコレラが流行したためで、工事での犠牲者は約20人だったという。

年が変わり明治26年1月17日、ドイツから輸入されたアプト式蒸気機関車が横川の機関庫に到着、さっそく試運転が行われた。

しかし試運転は失敗…。新橋にあった工場に機関車を送り返して調べてみると、肝心のアプト式の歯車が図面と逆に付いていたとか。日本に陸揚げされ組み立てられた時のミスだったようだ。23日に機関車は横川に戻り、峠に再チャレンジした。
ところが試運転にあたったイギリス人技師と日本人機関士ではアプト式を知らない者と判らない者同士、上手くいくはずがなかった。初日はどうにか峠を越したかに見えたが、機関車が故障して中断。翌日は無事に済んだかと思いきや負荷を増やすとボイラーがギブアップ、なかなか思うように試運転の結果が出なかった。

この失敗はたちまち国会で取り上げられ、2月27日、衆議院で問題にされてしまう。本当にアプト式が設計どおりなのかどうか、また今後も使用に堪えるものかどうか。試運転での失敗をことごとく暴露され、鉄道局は苦しい答弁を強いられたという。そんな中、碓氷峠での試運転は少しずつペースを掴み始め、4月1日の営業運転開始を迎えることになる。アプト式区間での運転速度はたったの8km/h、連結出来る客車・貨車は70tという極めて小規模な輸送体制だったが、これで信越本線が全通した。
なおそれまで使われていた碓氷鉄道馬車は役目を終えたが、会社が設立されたのが鉄道局の横川-軽井沢間鉄道建設を決めた後だったという理由で、何の補償も得られず消えて行ったのだそうだ。工事にも使われたというのに。

のち碓氷峠には最初のドイツ製機関車より強力なイギリス製機関車も加わり、また石炭と一緒に重油を燃料に使ったり、列車の中間にもう1両の機関車を連結して輸送力を上げていくものの他の区間に比べものにならない位それは低く、やがて信越本線の列車が増えていくと貨車が横川、軽井沢の両駅に滞るという問題が発生した。また坂を登る機関車は低速で強烈な煙を出すため、トンネルでは灼熱の煙地獄の様相を呈した。乗務員は床に這い腕だけ伸ばしての運転操縦を強いられ、旅客列車の乗客は途中給水で熊ノ平に停まると先を争って外に出て、再び列車に乗るのを嫌がったために車掌は乗客をなだめるのに大変だったと伝えられている。

果たしてアプト式は成功だったのだろうか。実は試運転失敗が国会で取りざたされるのと同時に、鉄道局は以後国内の勾配区間でアプト式を採用しないことを決めている。


幹線鉄道としては珍しいアプト式を採用した信越本線。もう後には引けません。しかし前途は多難な事が見えてきました。アプト式は日本の動脈になり得るのでしょうか。

次は、アプト式のその後と、苦労話です。

【予告】 アプトは峠を制したか

―参考文献―

鉄道ファン 1996年12月号 特集:最後の力持ち EF63 交友社
鉄道ファン 1997年9月号 特集:信越本線 EF63 交友社
鉄道ファン 1997年10月号 碓氷線全史-その2- 交友社
鉄道ファン 1997年12月号 横軽はこうして消えた 碓氷線全史-最終回- 交友社
鉄道ピクトリアル 1993年1月号 <特集>碓氷峠100年 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 1996年11月号 <特集>信越本線 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2009年1月号 <特集>勾配に挑む鉄道 鉄道図書刊行会
RM LIBRARY 39 碓氷峠の一世紀 運転史から見た横軽間の104年(上) NEKO PUBLISHING
RM LIBRARY 40 碓氷峠の一世紀 運転史から見た横軽間の104年(下) NEKO PUBLISHING

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