Rail Story 15 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 15 

 そこは駅だった

これまで「レイル・ストーリー」シリーズに何度も取り上げた京阪電鉄(以下京阪)。かつて京都-大阪間の速達サービスにはカーブが多いという分の悪さはあったが、特急にはテレビカーの連結、そして今では2階建て車の連結などサービスレベルは民鉄の中でもトップクラスにあるといっても異論はないだろう。
さすがに近年は携帯電話の機能が充実してテレビ放送も容易に観られるようになり、京阪特急テレビカーの特異性は薄れてしまった。特急車8000系もこのほどリニューアルを機にテレビの撤去を決め、時代の流れをつくづく感じるようになったのは事実だ。

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もっとも京阪は軌道線というスタートを切っており、ルートとした京街道沿いには一部路面区間があったことはよく知られている。今も御殿山駅付近は道路沿いに路線があるが、これはかつての路面区間だったところが道路から独立した証だ。このように京阪電鉄の歴史は路線改良の歴史でもあるのが興味を引くところでもある。今回は大阪市内に残る路面区間の跡と、ある駅に注目しよう。

平成20年10月19日、京阪は長い間の懸案だった中之島線天満橋-中之島間を開業、それまでの淀屋橋駅との両輪で大阪側のターミナルを構築した。それまで殆どの列車が発着していた淀屋橋駅への一駅集中が回避されたが、淀屋橋駅ですら大阪市の市営モンロー主義に阻まれて開業したのは昭和38年4月16日のことで、長らく京阪の大阪側ターミナルは明治43年4月15日の開業時以来親しまれた天満橋駅だった。
前にも述べたとおり、当初京阪は天満橋ではなくもう少し都心寄りの高麗橋をターミナルに考えていた。しかし市電路線の建設を進めていた大阪市が高麗橋-天満橋間で路線が重複するとして京阪を天満橋へと後退させ、その代わりに市電路線に乗り入れて梅田までの運行を認めた。初代の天満橋駅はこれを考慮したものだったようで、ターミナルというより中間の停留所のようなものだった。のち市内中心部から延びてきた市電の線路にそのまま接続出来るような雰囲気だったのが、大阪市側が京阪の乗り入れを一転して難色を示すようになり、結局乗り入れは中止となってしまった。

そのままでは天満橋駅はターミナルとしての昨日を発揮出来るような規模ではなく、早々に改良が行われる。大正2年10月24日には寝屋川を渡る橋を150m上流に架け替え、翌大正3年7月10日には二代目の天満橋駅が開業した。

ところがそれもつかの間、寝屋川の淀川への合流地点を少し東側に移設することが決まり、大正14年から工事が始まった。これに伴い、京阪は埋め立てで出来た元の寝屋川の水路部分の払い下げを受け、そこで天満橋駅を拡張する。こうして出来上がったのが淀屋橋延長による駅の地下化まで親しまれた天満橋駅だったのだ。昭和7年3月20日開業。

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京阪は並行して路面電車スタイルからの脱皮を進めていた。「野江の七曲り」と称された蒲生-守口(現在の守口市)間の連続カーブ区間を一気に高架化したのは昭和6年10月14日で、この時はまだ複線だったが昭和8年12月29日には複々線になり高速化が図られた。これと対照的だったのが天満橋-蒲生間で、特に天満橋-野田橋(現在廃止)間は路面区間のまま残され、それは意外なことに戦後の昭和29年11月30日まで続いた。
ようやくこの区間の改良が図られたのは道路に沿うように流れていた鯰江川の埋め立てによるもので、埋め立てられたところに京阪の線路を移設、ようやく開業以来大阪市内に留まった路面電車の名残が姿を消した。野田橋駅は少し移設され、片町と改称した。

日本が戦後の落ち着きをようやく実感し始めたこの頃、大阪や東京では都市交通の今後のあり方が問題とされていた。特に大阪ではずっと市営モンロー主義が京阪の市内中心部乗り入れを阻み続けていたが、とうとうその兜を脱ぐ時がやって来た。運輸省(現在の国土交通省)の諮問機関である都市交通審議会が京阪の淀屋橋延長を認め、長い間の懸案だった市内中心部乗り入れが決まった。昭和38年4月16日、淀屋橋-天満橋間が地下線で開業した。

確かにこの時点では京阪の念願は叶ったように見えたが、京阪トップの乗降客数を誇る京橋駅は国鉄(現在のJR西日本)大阪環状線との乗換駅で賑わっていたものの、駅と連絡通路の狭さは混雑に拍車を掛ける一方だった。しかも京阪自慢の蒲生-守口市間の複々線も京橋-淀屋橋間では複線に戻ってしまうので、朝のラッシュ時など京橋駅では停車している電車の後に次の電車が待っているという有様、とにかく京橋駅を改良しないと殺人的とも言われた混雑を解消することは出来なかった。

京橋駅の改良は高架化と天満橋までの複々線化が行われることになった。まずは混雑のひどい乗り換えを改善するため駅の高架化が先行する。近鉄と大阪環状線の乗換駅である鶴橋ではホーム同士が直角に交差し、駅構内で直接乗り換えが出来るようになっているものを、これは階段などに乗客が集中してしまい危険であるとされたため、京橋ではあえて駅前広場に一旦乗客を集めて各々の改札口へと向かう方式を採ったという。
昭和44年11月10日、待望の新しい京橋駅が高架線で開業した。駅ビルには京阪ショッピングモール(現在の京阪モール)が入り翌昭和45年4月15日オープン、雑然としていた駅のムードはガラリと変わった。なお片町駅はこの京橋に統合され、姿を消している。
昭和45年11月1日には京橋-天満橋間が高架複々線化され、守口市から続く当時私鉄最長の複々線が出来上がった。ともかくこれで京橋駅のラッシュは大きく改善された。

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天満橋駅から路面区間と、その先の面影を探ってみよう。

駅の京都側には寝屋川が淀川と合流しており、京阪が渡っている。ここが三代目天満橋駅が出来た時の橋の位置で、それまでは違う位置であったことを伺い知ることが出来る。橋を渡ると道路沿いに京阪の高架線が道路沿いに京橋駅に向けて進んでいく。かつてその線路脇には鯰江川が流れていたはずだ。
しばらく高架線沿いに進むと野田橋交差点がある。ここには高架化まで片町駅(路面区間時代は野田橋駅)が設けられていた。昭和25年、黄色と赤のツートンカラーの鮮やかな車体で走り出した京阪特急だったが、この路面区間だけはノロノロ運転を強いられていたという。

寝屋川を渡る2400系 かつてこの路面を走っていた 野田橋交差点(片町駅付近)
寝屋川を渡る2400系 かつては路面を走っていた 野田橋交差点(片町駅跡付近)

交差点の先、歩道がやや不自然な形でY字状に別れている。左側が京阪の線路跡で、ここからは道路を離れ線路だけが緩くカーブしながら京橋駅に向かっていた。
やがて現在の京橋駅が右手に見える頃、線路跡は一旦京橋公園に吸い込まれてしまう。この部分は半径250mのカーブを描いていたという。

線路跡は左側 右にカーブする 京橋公園
ここで路面区間が終わっていた 右にカーブ 京橋公園

公園から先は再び道路となり、大阪環状線の高架を潜る(進入禁止標識の先)。高架を潜った先は京橋東商店街のアーケードが京阪の高架線に少しずつ近づきながら続いており、アーケードは高架線に接する形で終わっている。

さらに右カーブ 大阪環状線を潜る 京橋東商店街 蒲生信号場跡付近
公園の先はさらに右カーブ 大阪環状線を潜る 京橋東商店街アーケード 現在線との接続地点

こうして天満橋-守口市間(のち寝屋川市へ延伸)の複々線は高度経済成長期の大阪を支えていった。天満橋-淀屋橋間だけは複線のまま残ったが、ラッシュ時に天満橋発着の列車を設定することで凌ぐことは出来たようだ。天満橋駅の1番線・2番線ホームは日中の発着のない時間帯はガランとしていたのを覚えている人も多いだろう。のち京阪は長年の夢だった天満橋以西へ新路線での進出をようやく中之島線の開業で果たし、同時に線路容量を上げる事も可能とした。行き止まりだった天満橋駅の1番線・2番線が淀屋橋行きに振り替えられたのも記憶に新しいところだ。

さて、あの殺人的といわれた元の京橋駅はどうなったのだろう。
線路跡が大阪環状線を潜ったところにあるのは、関西人なら誰もが知る「♪京橋は〜ええトコだっせ〜…」でお馴染み、総合レジャービルのグランシャトーではないか。

グランシャトー…そこは駅だった。

♪京橋は〜ええトコだっせ〜グランシャトーがおまっせ〜グランシャトーはレジャービル〜グランシャトーへ〜いらっしゃい
グランシャトーが、おまっせ〜


なんと、サラリーマンの憩いの場所が、実はサラリーマンの受難の場所だったとは全く皮肉でした。その記憶はだんだん薄れていくようですが、残された証はなおも語り続けています。

次は、未来を約束されながらも悲しい運命を背負った車両の話です。

【予告】 悲運のクイーン

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 2000年12月臨時増刊号 【特集】京阪電気鉄道 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2009年8月臨時増刊号 【特集】京阪電気鉄道 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 2007盛夏号 京阪電気鉄道特集 PartW 京阪線・大津線 関西鉄道研究会
JTBキャンブックス 大阪・京都・神戸 私鉄駅物語 JTB

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