Rail Story 14 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 14 

 湘南特急の宿命(前編)

東京と伊豆半島のリゾート地や温泉などを結ぶ特急『踊り子』。使われている185系電車はもちろんJRの特急電車ではあるが、ある意味私鉄の特急電車のような軽快さを持ち合わせているのは確かだ。
そんな特殊性を持ち合わせた電車が走っているのは、どうやらかなり前から始まっていたようだ。

昭和44年4月25日、ゴールデンウィークを前に行われた国鉄のダイヤ改正で、東京-伊豆急下田間に特急『あまぎ』が走り出した。これは伊東線初の特急だったが、特筆すべきは伊豆急行(以下略して伊豆急)へ直通したことで、これは国鉄特急列車の私鉄乗り入れとして初のケースだった。
ただしこの特急『あまぎ』は、その前日まで急行『伊豆』として走っていた157系電車で運転された。この157系電車こそ、今の185系に至る湘南特急の宿命を背負った電車だったのかもしれない。

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国鉄157系電車157系電車は、東京と日光を結ぶ準急『日光』用としてつくられた。日光といえば東照宮など国際的な観光地なのは有名だが、戦後外国人観光客がこの地を訪れるようになると、最初から電車が走っていた東武鉄道に比べ電化さえされていない国鉄日光線の分は悪かった。
昭和31年には準急『日光』にキハ55型ディーゼルカーが投入されるが、東武鉄道は特急専用で設備に優れた通称白帯車の1700系で対抗する。もっとも国鉄日光線は25パーミルの坂が続く勾配線で、こうなれば電化して電車の快適性に頼るしか方法は残されていなかった。

国鉄は電化後の日光線に、その頃東海道本線の準急などに活躍を始めた通称東海型の153系電車を『日光』にも使用するつもりだったという。しかし客席の設備はディーゼルカーのキハ55型と大差なく、それでは外国人観光客に対して恥ずかしいのではないかという話が国鉄内部で持ち上がった。東武鉄道の特急にも到底勝てるものでもない。

そこで設計されたのが157系電車だった。車体構造は東海型の153系を踏襲したものの、車内は東海道線の特急電車「こだま型」151系に準じ、ロマンスシートが並んだ。準急用ということで冷房装置は設置されなかったが、後で用意に取り付けられるよう準備されており、「日光準急用特別電車」という肩書きで製造が進められた。車体の塗装はクリーム色に日光の神橋にちなんだ朱色を配した。
当時国鉄の準急列車といえば蒸気機関車の牽く客車列車が多くを占めた中、特急並みの準急は正に特別な存在だった。

冷房が見送られたため窓は開閉式となり、国鉄車両としては珍しく下降窓が採用された。ただ、この窓が157系電車の運命を左右するとは…。

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昭和34年9月22日、157系による準急『日光』が東京-日光間に走り出した。同時に春〜秋の季節列車として新宿-日光間の『中禅寺』、上野-黒磯間の『なすの』も運転を開始、日光-黒磯間には回送を兼ねた快速としても運転された。

ところがこの157系電車は最初から特急として運転することも考慮されていた。設備は冷房が無かったことを除けばこだま型とほぼ同等だが、当時は客車列車だった国鉄のフラッグシップ的列車『つばめ』『はと』も一等車と食堂車を除けば冷房が無く、特急用としても十分な設備だった。
デビューまもなくの昭和34年11月21日には、その年の運転が終わった『中禅寺』『なすの』の157系電車を用いて東海道線臨時特急『ひびき』に進出、早くも日光準急と東海道線特急の二股に亘る活躍が始まった。ギアレシオは東海型153系と同じでこだま型151系よりは少しローギアードな設定だったが、東海道線では151系と同じスピードで走り、名バイプレーヤーぶりを見せるようになる。

昭和36年3月1日、157系電車は準急『湘南日光』として伊東線に進出することになる。早くも湘南特急としてのデビュー前哨戦を飾ったのだ。この列車は首都圏からのリゾート地、伊豆と日光を結ぶものだったが、シーズンによっては東京で列車は別々の運転形態を採り、東京-伊東間を『臨時いでゆ』、東京-日光間を『第二日光』としても運転されたようだ。

昭和38年4月20日、ダイヤ改正が行われ特急『ひびき』は定期列車になる。新幹線開業前の東海道線の輸送力は限界に達していたのだ。改正を前に157系電車はその年の1月〜3月にかけて冷房が取り付けられた。準備工事が功を奏したことになる。車体の朱色はこの時特急車標準の赤に改められ、特急の名に恥じない電車に成長した。翌年東海道線で起こった151系特急『富士』の衝突事故の影響で157系は特急『こだま』として走ったり、上越線特急『とき』のしんがりを努めたものの、その間さらに新潟地震が起こって『とき』が一時足止めに…。ようやく落ち着きを取り戻した頃には東海道新幹線が開業、『ひびき』は運転を終了した。
ただし157系電車は10月3日から10月28日まで東京オリンピック期間の臨時準急『特別日光』として横浜-日光間を走り、休むまもなく11月1日からは東京-伊豆急下田・修善寺間の急行『伊豆』に活躍の場を移す。準急『日光』(昭和41年3月25日からは急行)は157系で存置されたが、『中禅寺』『なすの』は急行型の165系電車に代わっていた。

すっかりリゾート列車となっていた157系は、昭和43年の夏には碓氷峠を越え中軽井沢まで足を伸ばす。7月20日から9月29日まで上野-中軽井沢間特急『そよかぜ』に抜擢されたのだ。この運転を前に157系電車は、碓氷峠で電気機関車にサポートしてもらえるよう改造されていた。翌年から『そよかぜ』は181系電車にバトンタッチしたが、信越本線にも足跡を残した貴重な記録だったと言えよう。

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そして昭和44年4月25日、急行『伊豆』のうち2往復は電車ごと特急に格上げされ東京-伊豆急下田間の『あまぎ』を名乗ることに。同時に『あまぎ』は休日運転の臨時列車、季節列車各1往復も設定され、特急が曜日や季節に応じた弾力的な運転が行われるきっかけにもなった。157系は修善寺には顔を出さなくなったが、東海道新幹線初の追加駅である三島に『こだま』が停まることになり、修善寺へは三島で伊豆箱根鉄道乗り換えか、修善寺行きを残した急行『伊豆』にシフトしている。
急行『伊豆』は東海型153系電車が後を継ぎ、以後『あまぎ』と共に伊豆方面へのリゾート輸送を担っていくことになる。なおこの時急行『日光』を165系に譲り、157系は生まれ育った日光線から撤退するが、既に国鉄は東武鉄道との争いに敗れ、『日光』がローカル急行に転落したことを物語っていた。

湘南特急の顔となった157系電車は、再び山へと走ることになった。昭和46年3月7日、吾妻線への臨時特急『白根』として上野-長野原間に進出する。のち万座・鹿沢口まで走るようになり草津温泉や志賀高原までをもターゲットにした。

準急から特急に昇格して東京・上野からのリゾート路線に不動の地位を得た157系電車だったが、思わぬ事態が発覚する。当初冷房が無かったために開閉可能なようにと設けられた下降窓だったが、ガラスから入り込んだ雨水が溜まり、車体の腐食を招いていたのだ。気づいた頃には車体の傷みは思ったより酷く、急遽窓の固定化工事が4両に施工されたものの全車の改造は見送られ、窓にガムテープが貼られるものまで現われる始末…。引き続き皇室用に使われる5両を除いて上越線特急『とき』に進出を始めた183系1000番台への置き換えが決まり、157系電車は昭和50年11月24日をもってまず『白根』の役目を終えた。翌昭和51年2月29日、名残を惜しむような涙雨の中を『あまぎ』からも引退。新幹線開業前の東海道線特急時代の栄光を知る電車が一つ、消えていった。デビューから17年、短い命だった。

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『あまぎ』の183系置き換え後、今度はかつての僚友、急行『伊豆』に使われていた153系電車にも疲れが見え始めた。『あまぎ』よりも運転本数が多く、しかも伊豆急下田行きの10両、修善寺行きの5両が連日満席になる位の人気があり、どのように新車に置き換えるかは当時の国鉄の悩みの種だった。そんな頃、関西に画期的な電車が走り始めた。

JR西日本117系昭和47年3月15日の山陽新幹線岡山開業と同時に関西地区の新快速にデビューした「ブルーライナー」は、塗装こそ斬新だったが実は東海道・山陽本線の準急や急行に使われていた東海型153系だった。関西では私鉄特急の人気が高く、特に京阪や阪急京都線などはロマンスシートの特急専用車を走らせていて、切り立った向かい合わせシートの国鉄153系では太刀打ち出来なかったのは事実だ。
しかし戦前から「急電」の歴史を持つ国鉄大阪鉄道管理局のプライドは私鉄の快進撃を黙って許していなかった。昭和55年1月22日、新快速用の新車117系がデビューする。ズラリと並んだロマンスシートは私鉄特急並みの豪華さを誇り、車体のアイボリーに茶色という配色は、あの「急電」と同じだった。その後僅か半年で関西地区の153系は引退を余儀なくされたが、私鉄各社に一矢を報いることは出来たようだ。

117系はギアレシオこそ近郊型…後についたあだ名「かぼちゃ電車」の113系や115系と同じで、急行型の153系よりもローギアードだったが、それでも京都-大阪間では特急『雷鳥』や急行『比叡』を軽々と追い越す韋駄天走りで、当時の営業運転上でのスピードは新快速として十分だった。この電車の成功が湘南路に大きな影響を与える。

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しかし…急行『伊豆』を新車に置き換えるには、東海道本線東京口の特殊事情が絡んでいた。それはラッシュ時間帯は急行電車といえども普通電車にも使わなければ電車が足りないというもので、混雑を助長するような電車は使いものにならない。とはいえ元は準急型だった153系そのままの電車をつくっても、もはや社会のニーズに対応するものでもない。むしろ設備的には特急レベルに、という声も上がるが特急用に特化した183系の投入では通勤輸送などとても無理で、伊豆急下田行きと修善寺行きを繋げるような機動性にも欠けることになる…。
これらの事から、急行『伊豆』の153系電車の置き換えは、将来の特急格上げも視野に入れながら通勤輸送にも対応するという高い汎用性が求められた。そのプロトタイプとなったのは、他ならぬ新快速の117系電車だった。


湘南特急は「日光型」こと157系電車でスタートしました。ただ美人薄命といいますか、人気を集めた電車ほど引退も早かったのです。その後継車は、奇妙な位に157系に似た運命を辿るのです。

次はその後継車と、今に至る話です。

【予告】 湘南特急の宿命(後編)

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 2004年10月号 【特集】157系電車 鉄道図書刊行会
鉄道ダイヤ情報 2008年2月号 [特集]117系・185系電車に注目! 交通新聞社

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