Rail Story 14 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 14 

 能勢電の謎

阪急宝塚線の支線は同時に開業した箕面線があるが、川西能勢口からはもう一つ支線的役割を持つ能勢電鉄が出ている。朝夕ラッシュ時には阪急の梅田と能勢電鉄の日生中央間を直通する『日生エキスプレス』が運転されていて、また古くから阪急との関係が深く、実際に阪急と同じ電車が走っているので一見しただけでは別の鉄道会社とは判らない程だ。

なぜこんな関係があるのか、そして今も残る謎に触れてみよう。

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能勢電鉄1500系能勢電鉄の歴史はは明治38年3月30日に会社設立された能勢電気鉄道に始まる。同時に特許申請を行った路線は阪鶴鉄道(現在のJR宝塚線)の池田(現在の川西池田)から平野を経て現在の一の鳥居駅に至るものだったが、将来的には一の鳥居より先に路線を延ばすつもりだった。
当時まだ阪急の始祖である箕面有馬電気軌道(以下箕有)は設立されておらず、登場順としては能勢電気鉄道が先だったということになる。1年後の明治39年4月には箕有は会社設立を前に現在の宝塚線・箕面線などの路線特許申請を行い、10月19日に会社を設立、続いて同年12月22日には申請した路線の特許を得た。
路線特許申請では順番では先輩格だった能勢電気鉄道だったが、いざ特許という段階になると箕有に先を越されてしまった。というのも阪鶴鉄道池田駅には機関庫など列車の運転に必要な設備があり、能勢電気鉄道の駅構内乗り入れに難色を示される。また池田町(当時)の一部住民からは建設反対の声も上がったようだ。
結局明治40年3月4日、能勢電気鉄道の路線特許は得られたものの、起点は阪鶴鉄道池田駅ではなく川西(開業直前に能勢口に変更。現在の川西能勢口)にされ、しかも路面区間のある路線が「鉄道」を名乗るとはけしからんと行政指導を受け、同年4月15日に社名を能勢電気軌道(以下能勢電)と改める。

早速能勢電は路線の建設に取り掛かる。能勢電は当初阪鶴鉄道との連絡を考慮してレールの幅は1,067mmを予定していた。しかし起点が変わってしまった以上、独立した路線では採算面で不利ではないかという話になり、それなら建設中の箕有と直通運転が出来るよう、同じ1,435mmにしたほうが有利だと判断した。この判断が現在に続く阪急との関係の一つになったことは確かである。
ただし…能勢電の建設はやがて訪れた不況により思うように進展しなかったばかりか、当初からの資金不足がたたり一時は会社の存続さえ危ぶまれる程に。箕有には路線開業も先を越されてしまい、ようやく能勢電が能勢口-一の鳥居間が開業したのは大正2年4月13日の事だった。

晴れて電車が走り出した能勢電だったが、電力不足でまともに電車が走らないことが発覚、急遽8月9日から箕有から電力を分けてもらう事で凌いだが、これも現在の阪急との関係の一つであることは間違いない。

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そもそも能勢妙見宮への参拝客輸送を目的の一つとしていた能勢電は、一の鳥居より先の建設を急務としていた。大正2年4月21日に一の鳥居から妙見(現在の妙見口)までの路線特許は得られたが、能勢電はさらに路線を亀岡まで延ばすことを計画、箕有との連絡で日本海側を目指す壮大なものだったが実現の可能性はゼロに等しかった。
また能勢電は猪名川沿いに進む比較的険しい地形を進んでいかなければならなかった事情もあり、路線の工事代金支払いさえも滞りがち…。とうとう大正3年8月6日、能勢電は破産してしまう。それでも電車の運行はどうにか続き、翌大正4年11月11日には会社の更生を果たす。この一度目の危機を乗り越えた能勢電は、実現しなかった能勢口から福知山線池田駅までの路線延長を大正5年5月17日に特許申請する。危機はもう一度あったのだろうか…。

炭酸飲料の中でポピュラーなものにサイダーがあるが、当時天然の炭酸水を用いてサイダーを製造していたのが平野の帝国鉱泉(現在のアサヒ飲料)だった。商品名は「三ツ矢シャンペンサイダー」。現在の三ツ矢サイダーである。このサイダーの出荷は大正7年から能勢電が利用されていたが、能勢口では一部が箕有にリレーされていたものの、大半は池田駅に運ばなければならなかった。おそらく当時の事、大八車などが使われたのであろう。この手間を省こうとしたのが能勢口-池田駅前(後の川西国鉄前)までの路線延長だった。今度は池田駅の駅前広場への乗り入れなのでスンナリと認可され、距離もたったの0.7kmとあって工事はあっという間に完了、大正6年8月8日に運転を開始した。こうして三ツ矢サイダーは全国へと運ばれていく。また能勢電の貴重な貨物収入だった。

ようやく業績が好転してきた能勢電は、残る一の鳥居-妙見口の延長に着手する。この時箕有改め阪急は能勢電の経営が安定したこと、大阪北部の交通を一手に引き受けたかったことを理由に能勢電に資本参加し、建設がスタートした。この区間はさらに急峻な地形もあって工事は難航したようだが、大正12年11月3日開業を迎える。この頃にはすっかり乗客も増えており、また大正15年2月3日には能勢口駅構内で阪急と能勢電の線路が直接繋がり、三ツ矢サイダーはそのまま梅田へと運ばれることになったが、旅客を乗せた電車の直通運転は、もっと先の話だった。こうして能勢電は阪急の系列下に置かれる事になる。一旦は路線免許まで漕ぎ着けた亀岡への延長は、いつしか立ち消えに…。

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ところが大正10年、帝国鉱泉はビールの製造も手がける事を決め社名を「日本麦酒」と変更、西宮にビール工場を新築して、ついでにビール製造過程で生じる炭酸ガスを利用したサイダー製造にシフトするようになる。平野の工場は手狭であり増産も不可能なのもあって規模は縮小の方向に…。しかも実用化されたトラックが輸送の主力となってしまい、能勢電の貨物収入は激減する。ただこの頃にはどうにか旅客収入だけでも黒字を計上するようになっていたものの、能勢口-池田駅前間は路線の意義を殆ど失ってしまった。

大正14年8月1日、能勢電50%出資の妙見鋼索鉄道下部線・上部線が開業、ようやく能勢電は本来の目的を果たしたように見えたが、昭和に入り戦時色が強まりやがて太平洋戦争が開戦、日本の敗色が濃くなると妙見鋼索鉄道は鉄材供出のため休止となり、そのまま敗戦を迎えることになる。戦後も能勢電のスタイルは変わらず、路面電車然とした運転形態のままだった。これが意外なほど長く続くとは、この時予想出来なかっただろう。

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昭和29年8月、朝日麦酒(戦後日本麦酒から分離独立)は平野工場でのサイダー製造にピリオドを打ち、昭和30年4月いっぱいで能勢電から工場への引込み線も撤去された。しかし休止していた妙見鋼索軌道の下部線を妙見ケーブルとして昭和35年4月22日、上部線を妙見リフトとして8月27日に復活を果たす。徐々に利用客数の増えた能勢電は阪急千里山線で走っていた小型車を導入、ようやく一部2両編成での運転が始まったが、急カーブが多く鉄橋の強度も低かったのがネックだった。
やがて高度経済成長期を迎えると沿線の住宅化が進むが、能勢電二度目の危機は意外な形で現われた。

それは思いもしない買収話だった。能勢電沿線の多田に「多田グリーンハイツ」の造成を行う西武鉄道が、能勢電の買収を持ちかけて来たのだ。ここまで阪急との関係を強めた能勢電にとって寝耳に水、今後どのような事になるやら想像もつかず、結局能勢電は急遽増資を行い、その株を阪急に引き受けてもらうことで解決したが、能勢電は阪急の子会社となる。
難を逃れた能勢電は路線の改良を進めて阪急から宝塚線電車の貸与を受けることに。昭和41年4月からは阪急320形電車が入線した。阪急では既に小型車の部類だったが、当時の能勢電ではさぞ大きな存在だっただろう。連結両数も増え、ようやく創業以来の路面電車スタイルから脱皮したように思えたが…。

昭和53年10月1日、能勢電気軌道は前年に法規上の路線をそれまでの軌道から地方鉄道に変更したのに伴い、今の能勢電鉄と社名を改める。続く同年12月12日、新規路線である日生線が開業した。これは生保会社である日本生命がデベロッパーとなって宅地開発したもので、その足として能勢電鉄が選ばれたのだ。ただ電車は相変わらず阪急を引退した旧型の小型車ばかりで、真新しい線路には不釣合いだったが、大型車導入に向けてなおも既存区間の改良が進められたばかりか、阪急と共に川西能勢口駅の高架化と駅周辺の再開発が行われる事が決まった。ここで取り残されたのが川西能勢口-川西国鉄前の短い区間だった。
都市型の路線に変貌しつつあった能勢電鉄にあって、この区間だけは相変わらず路面電車然とした1両編成の電車が行ったり来たり。もっとも接続する国鉄福知山線は未電化のローカル線状態が長く続いたこともあって、大阪へは川西能勢口で阪急に乗り換えるのが常識だった。運行は朝3往復、夕方2往復(日曜祝日は朝の1往復は運休)で、路線としての存在は殆ど無いに等しかったようだ。もともと三ツ矢サイダーなど貨物の出荷のためにつくられた区間ではあった。

川西能勢口-川西国鉄前間は昭和56年12月19日、廃止された。冬の冷たい雨だけが名残を惜しむように降った日だった。

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昭和58年からは能勢電鉄にようやく大型車1500系が登場した。これは阪急宝塚線を引退した2100系電車だったが、能勢電鉄初の冷房車は利用者から歓迎されたようだ。車体の色は阪急マルーンをベースに窓回りをクリーム色として差別化を図った。
その後も阪急からの移籍は続き、旧型の小型車は引退する。ただ車体の色はこれといったものがなかったのかオレンジ色にグリーンの帯になったり、クリーム色に赤と青の帯になったりしたが、ようやくクリーム色にドアの部分だけオレンジ色になり、これで決まったかに見えた。この色は利用者からは「フルーツ牛乳」と呼ばれていたとか。

阪急と共同で行われていた川西能勢口駅の高架化は阪急線が先行、能勢電鉄も後を追い、再びレールが繋がった平成9年11月16日には両社のダイヤ改正が行われて最終形となった。この時能勢電鉄の日生中央と阪急の梅田の間を直通する特急『日生エキスプレス』が朝夕ラッシュ時に新設され、阪急宝塚線から乗り入れの堂々8両編成が能勢電鉄の線路を走るようになった。かつて三ツ矢サイダーなど貨物の直通用にレールが繋がって70年余り、ようやく旅客の営業運転が実現した瞬間だった。

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最後まで能勢電のスタイルを残していた川西能勢口-川西国鉄前の短い区間は、今もその名残を残している。

川西能勢口駅は再開発によりかつての姿を全く残していないが、駅の宝塚方にはカーブしながら宝塚線の高架下を潜り、栄南団地の横を通ってJRの川西池田駅へと向かう道路がある。これが線路の跡だ。

川西能勢口駅の宝塚方 線路跡は左に 高架下へと向かっていく
川西能勢口駅の宝塚方 左に曲がるのが線路跡 宝塚線の高架下へ向かう

道路は駅を過ぎると左に、高架線を潜ると再び右に曲がっている。かなりの急カーブだがこの区間は小さな電車1両だったので問題なかったようだ。石垣が見えると道路は左に曲がり、やがて栄南団地沿いに川西池田駅へと向かっていく。

宝塚線の高架を潜る 再び右に 石垣沿いに川西池田駅へ
宝塚線の高架を潜る 再び右に曲がる 石垣沿いに川西池田駅へ

能勢電の川西国鉄前駅は、現在の川西池田駅前のロータリーだった。かつてここに能勢電の駅があった頃はあまり整備されておらず、ポツンと屋根もない短いホームに1両の電車が停まっていただけだった。時間も止まっていたのかもしれない。

ここに川西国鉄前駅があった
現在の川西国鉄前駅跡

現在阪急・能勢電鉄の川西能勢口駅と、JRの川西池田駅の間には川西阪急が威容を誇っている。そして両方の駅を繋ぐようにペデストリアンデッキがつくられ、電車が両者を結んでいたということが信じられないほど生まれ変わった。線路跡となった道路が歴史を語りつつけているが、その路面に設置されたマンホールにはかつて走っていた能勢電の電車が描かれ、歴史が刻まれている。

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平成15年から能勢電鉄は阪急と経営が一体化され、それまで自社の工場で行われてきた電車の検査などは阪急京都線の正雀工場で行われる事になった。フルーツ牛乳色となった電車も工場入りと同時に順次阪急のマルーンに塗り替えられ、今では全く阪急の支線という雰囲気になっている。仮に創業当初、現在のJR川西池田駅への乗り入れが認められていたなら、阪急とは直接関係のない路線になっていたかもしれない。もしかしたら西武鉄道系列となって黄色の電車が走っていたかもしれないし、川西能勢口駅周辺の再開発事業も大きく違っていただろう。川西能勢口-川西国鉄前間も…。

能勢電会社創立100周年の平成20年、記念行事の一つとして阪急マルーンに窓周りがクリーム色、それにフルーツ牛乳色となった電車が復活した。長く愛され続けた能勢電鉄の誇りとも言えよう。しかし少子化や平成不況による利用客の減少は否めない事実であり、能勢電鉄のみならず鉄道全体の復権はなおも続くテーマではある。ただし原油価格の高騰や地球温暖化により鉄道の存在が見直されているのも事実、これが鉄道界に再び射し始めた光明であることを祈りたい。

あとがき ―
昨年春に『レイル・ストーリー14』をリリースして1年以上もお待たせしてしまいました。心からお詫び申し上げます。

今回は以前から暖めていた話題を含め、車両・路線関連でまとめました。日本における鉄道の歴史はやがて140年を迎えようとしています。加えて私鉄路線でも優に100年という長いものも現れるようになりました。いろいろエピソードが残されているのも当たり前ですが、それだけ過去を語るものも少なくなってきているという証拠でもあるようです。そんな中で意外なもの、身近なものがまだまだ残されていました。

相変わらず都市部と地方では鉄道の存在に大きな差があるのは否めません。ただ少し鉄道を取り巻く情勢が変わってきたのも事実です。鉄道の経済性とクリーンさが急にクローズアップされ始めました。今年の夏など、電車に揺られて海へと向かう人が増えたようです。かつての賑わいが戻ってきたのです。当たり前のことが当たり前でなくなった…時代の流れとはいつもそのようなものですが、昨今の鉄道ブームだけでなく、日常の足としての鉄道の意義が再び問われてきているなと実感しています。

これが都市部だけでなく、クルマ社会化が進んだ地方でも同様であって欲しい…そう願わざるを得ませんが、既に失われた鉄道は元には戻りません。勿体ないことをしたものです。人間の我がままなのでしょう。

まだまだ、鉄道にまつわるいろんな話があるはずです。そんな話題を拾っていきたいと思います。

長くなりました。この辺でペンを置くこととします。また次回作でお会いしましょう。

ご乗車ありがとうございました。
平成20年 初秋 

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 1998年12月臨時増刊号 <特集>阪急電鉄 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 2006年盛夏号 阪急電鉄特集PartY 宝塚線・能勢電鉄 関西鉄道研究会
JTBキャンブックス 私鉄の廃線跡を歩くV JTB

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