Rail Story 13 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 13 

 残っていた三国線

京福電鉄6100形北陸のローカル私鉄の一つにえちぜん鉄道がある。かつては京福電鉄という名前だったが、あの二度続いた正面衝突事故で運行停止となり、代わって第三セクター方式で再生した私鉄路線で、福井-勝山間の越前本線と福井口-三国港間の三国芦原線の二つから成る。その前身の京福電鉄の頃は越前本線は大野口まであり、永平寺線や丸岡線など嶺北地区に路線を延ばしていたが、現存するのはこの2路線だけになってしまった。

京福電鉄(以下京福)は京都の嵐山線や叡山電鉄同様、京都電灯(現在の関西電力の前身の一部)が明治後期に福井県に進出、その電力を用いて後に鉄道事業を興したのに始まっている。
大正3年2月11日、京福は京都電灯越前鉄道部として新福井-市荒川(現在の越前竹原駅の0.4km勝山寄り)を開業、続く3月10日に市荒川-勝山間、4月11日に勝山-大野口間が開通して路線は出来上がったが、のち昭和4年9月21日には福井-新福井間が開通して北陸線との接続も叶った。ただし戦後はモータリゼーションの影響を受け、利用客の減った勝山-大野口間が昭和49年8月13に廃止され、残りが現在の越前本線となっている。

いっぽう現在の三国芦原線は越前本線とは生まれも育ちも全く違っていた。

県庁所在地である福井と北前船以来の歴史を持つ港町の三国、さらに三国から北上して石川県の大聖寺へと路線を計画した加越電気鉄道が始まりである。大正8年12月26日に福井-三国間、三国-三木(石川県)間の路線免許を取得した。その後社名を吉崎電気鉄道と改めたが、大聖寺への路線は断念したようで大正14年4月4日に免許は失効、翌日北陸鉄道加南線の前身、温泉電軌が代わって大聖寺-吉崎間の延長免許を申請、その年の10月9日に取得している。
大正15年に吉崎電気鉄道は越前本線を開業していた京都電灯の支配下となり、昭和2年12月には三国芦原電鉄と再度改称、路線の建設も進んで昭和3年12月26日には福井口-芦原(現:芦原湯町)間が開業した。翌昭和4年1月31日に芦原-電車三国間を延長した。

さて延長開業した芦原-電車三国間であったが、並行する路線があった。もともと明治44年12月15日、北陸本線の金津(現:芦原温泉)-三国間は官設線の通称三国線が既に開業しており、大正3年7月1日には三国港まで延長されている。
珍しいことに三国芦原電鉄の芦原-電車三国間は、官設三国線と芦原で接続、その先4.2kmもの間で完全に並行していた。

その後三国芦原電鉄は吉崎電気鉄道から引き継いだものを含めた路線の延長を計画、昭和7年5月28日に電車三国-東尋坊口間を開業したものの、後は実現しなかった。

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京福電鉄は東古市で永平寺鉄道(後の永平寺線)にも接続、電車の直通運転も行われたものの徐々に戦争の影が忍び寄ってくる。
特に昭和16年に公布された電力統制令は電力会社の兼業を禁止したものだった。京都電灯が福井県下で行ってきた電力部門と鉄道部門は分離を余儀なくされ、電力部門は現在の北陸電力に移管、鉄道部門は京福電鉄として昭和17年3月、再スタートすることになる。続く8月には三国芦原電鉄を合併、丸岡鉄道(昭和6年6月15日に本丸岡-西長田間を開業)、それに永平寺鉄道を昭和19年12月に合併して戦後を迎えることになるのだが…。

太平洋戦争末期、資源の枯渇した日本で金属回収令が敷かれたのは有名な話だが、その時全国の鉄道では観光路線を中心に不要不急の路線は廃止または縮小させられたものが相次いだ。その中に三国線と三国芦原電鉄の芦原-三国・電車三国間の並行区間、それに名勝の東尋坊へ向かう電車三国-東尋坊口間も対象にされてしまう。もともと人口の少ないところに路線が重複し、しかも終点は観光地とあれば当然だった。京福は昭和19年1月8日、電車三国-東尋坊口間の営業を休止。レールは当然供出されていった。

続いて鉄道省も三国線金津-三国港間の営業をあっさり休止することを決める。昭和19年10月4日からは列車は走らなくなりレールの供出のため撤去されたのであるが、撤去されたのは芦原-三国間の京福との重複区間だけだった。

ここで奇妙なことに同じ10月4日に京福は三国周辺約1.3kmの路線免許を受けている。そのたった1週間後の10月11日に省の三国線三国-三国港間1.0kmとその手前には架線が張られて京福の電車が走り出したのだ。また京福が乗り入れていた芦原駅は省に代わり京福が管理することになり、電車三国駅は省の三国駅に移転、これも京福の管理となった。結果、三国芦原電鉄改め京福三国芦原線は福井口-三国港間と変わっている。

こうして棚ボタのように路線が入れ替わり、終戦からちょうど1年経った昭和21年8月15日、国鉄三国線は線路が残っていた金津-芦原間の営業を再開、その先の芦原-三国港間については京福へ「乗り入れる」ことになった。のち芦原-三国港間の乗り入れは取りやめとなり金津-芦原間の運転となったが、北陸本線が電化されると、三国線は未電化で残ってしまう。晩年はディーゼルカーが行き来していたが、やがて短区間路線ゆえの採算性悪化が問われるようになり、昭和47年2月いっぱいで廃止されてしまった。

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国鉄三国線の廃止と同時に京福の芦原駅は芦原湯町駅と改称したが、三国-三国港間の線路と駅は京福からえちぜん鉄道に引き継がれた現在もそのままとなっている。第三セクター化で国鉄路線を継承した例は多いが、それよりずっと前に施設だけが移管されたのは珍しい。

JR北陸本線芦原温泉駅の金沢方には、少しだけ西へと向かう線路が延びている。これがかつての三国線だ。ちょうど北陸本線の線路を越す陸橋があるが、その先で道路は合流し廃線跡をトレースしている。やがて小高い丘を越え、ほぼ直線状にえちぜん鉄道芦原湯町駅へと延びていく。

芦原温泉駅の構内の金沢方 この先が三国線だった 芦原駅の手前で合流 現在の芦原湯町駅
芦原温泉駅の金沢方 元三国線の途絶えた線路 道路に寄り添ってくる線路 現在の芦原湯町駅

やがて道路には線路が寄り添ってくるが、これがえちぜん鉄道の三国芦原線だ。道路と線路が並行になったところに芦原湯町駅がある。広い駅前広場はかつて三国線の芦原駅で、京福に移管された後も駅舎はそのまま使われていたが、現在は建替えられている。
芦原湯町駅から先も道路は延びていく。ここからは終戦直前に撤去された三国線芦原-三国間で、えちぜん鉄道と完全に並行していたのが判る。再び小高い丘を越すと道路と線路は右にカーブしているが、その少し先で道路は突然途絶え、えちぜん鉄道の線路がS字状になっている。ここが三国芦原線の線路が三国線の線路へと移り、そのまま三国駅へと繋がれた場所で、ちょうど駅の約0.3km手前であることから京福が昭和19年10月4日に得た路線免許とほぼ一致する。

かつての並行区間 三国駅の手前で線路を移った
三国線跡の道路と並行する線路 三国駅の手前で遷移している

三国駅は三国線と京福が並んだ別の駅だった。京福の電車三国駅は撤去されて駅前広場になっている。京福の線路はこの先で三国線を乗り越えて東尋坊口へと向かっていたが、現在その廃線跡は確認出来ない。唯一交差部分だったところに橋台が残っているだけである。ちなみに電車三国-東尋坊口は戦後もそのまま休止扱いで、正式に廃止となったのは昭和43年3月21日のことだった。

東尋坊口への立体交差跡
現在唯一残る遺構の橋台

やがて日本海が見えてくると三国港駅だ。駅は港にも面しているが、駅舎は反対側の集落側にある。ただし集落は高台にあり、駅を出ると階段かスロープを上がらなければならない。集落内では駅がどこにあるのかは判り辛く、やや寂しい終着駅…という感があるのは否めない。この駅舎だけは三国線時代からのものだ。

三国港駅で発車を待つ電車 駅直前のレンガ造の陸橋 三国港駅 国鉄時代以来の駅舎
三国港駅に停車中の電車 駅直前の陸橋はレンガ造り 三国港駅の佇まい 駅舎は開業当初からのもの

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平成4年、京福電鉄は採算性の悪化著しい永平寺線、及び越前本線東古市-勝山間廃止の検討を始める。以後行政のテコ入れや地元の積極的な利用促進策が採られたが芳しいものはなく、さらに三国芦原線の廃止まで視野に入ってしまうが…。

平成12年12月17日、京福電鉄越前本線の志比堺-東古市間で電車同士が正面衝突するという、信じられない事故が起こってしまった。原因は古くなっていたブレーキ部品だったが、これを機に全国でも同じブレーキ方式を持つ古いタイプの電車が相次いで姿を消したのは記憶に新しい。
ところが事故から半年あまりの平成13年6月24日、同じ越前本線保田-発坂間でまたしても正面衝突事故が発生した。今度は信号無視というヒューマンエラーで、福井県内の京福電鉄線には陸運局より全線の運行停止命令が下ってしまった。ATS(自動列車停止装置)が設置されていなかったのも一因だったが、この事故を教訓にATSが設置されていなかった地方私鉄には急速にATSが完備されていくという、皮肉な結果をも招いた。平成14年10月21日、電車が走らないまま永平寺線は廃止されてしまう。

これ以上路線の維持が不可能と判断した京福電鉄は、京都電灯時代から長く続いた福井地区での鉄道営業からの撤退を決めた。路線は廃止されてもおかしくない状況だったが、地元では鉄道を残そうという動きも根強く、第三セクターでの存続が決まって平成15年2月1日、えちぜん鉄道として再スタートした。

残った京福電鉄の路線はえちぜん鉄道に引き継がれ、現在は愛知環状鉄道から移籍した電車が主力となって走っている。福井県嶺北に新しい風を呼び込んだと言えるだろう。

そして、芦原三国線の一部には、国鉄三国線が今でも残っている。


太平洋戦争の終戦直前に、こんな路線の「やりとり」が行われていたのです。確かに当時、混乱はあったのは間違いないのですが、実はずっと先を見越したものだったのかも…そんな気もします。

次は東京の話題に移ります。

【予告】 山貨と呼ばれた頃 (前編)

―参考文献―

鉄道ピクトリアル1996年9月号 <特集>北陸の鉄道 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル2001年5月号 【特集】北陸地方のローカル私鉄 鉄道図書刊行会

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