Rail Story 13 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 13 

 陸橋は残った

平成18年10月1日。それまでの常識が打ち破られた。長年のライバルであった阪急と阪神が経営統合を発表、両社の関係に一応の終止符を打った。阪急神戸線開業から94年近く経った時の出来事だった。

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明治時代も終わりに近づいた頃、神戸の葺合から岡本、西宮、深江、御影を経て葺合に戻る環状鉄道を計画した灘循環電気軌道という会社があった。ただし特許を申請した時点で既に阪神電鉄が開業していたため、明治45年7月25日に得られた特許は葺合-岡本-西宮という阪神との競合がない山側の半分の区間とされている。続いて阪急の前身、箕面有馬電気鉄道も西宮-十三間の特許を申請、大正2年2月20日に特許を得る。

この灘循環電気軌道の特許線は箕面有馬電気鉄道とって気になる存在、両者を繋げば神戸と大阪を結ぶ路線が出来上がのは明らかで、買収に向けて動き出すものの阪神が黙っているはずは無かった。結局3年弱の裁判にまで発展してしまい、最終的には箕面有馬電気鉄道が灘循環電気軌道を買収することで決着を見ている。つまり阪急と阪神のライバル関係は、阪急神戸線の開業前にしていきなり裁判沙汰で始まっていたのだ。

ようやく話が落ち着いて阪急神戸線の建設が始まる。宝塚線の反省から極力直線ルートを取り高速化を目指した。しかし阪神はルート上の土地を買収、やむなくカーブを作らせるなど相変わらずのライバル意識を燃やしていた。
阪神の路線は海岸沿いの集落を縫って建設されたため、カーブが多くスピードアップには不向きだったことは阪神首脳陣も判っていた。そこに阪急が参入すると速さではとても太刀打ちできない。阪神が打ち出した策は高速別線の建設だった。まだ阪急神戸線が開業していない大正8年11月19日に尼崎-岩屋間の第二阪神線の特許を得る。続いて第二阪神線の延長として伝法線(現在の西大阪線大物-千鳥橋間)に千鳥橋-野田-梅田間を追加申請するなど、阪急への対抗策を次々に取って行く。

大正9年7月16日、阪急神戸線が開業。やはりスピードの差は歴然で阪神は同じステージの第二阪神線の他に、阪急の牙城への進出を企てることになる。

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大正11年10月、兵庫県の政財界を中心とした宝塚尼崎電気鉄道(以下尼宝電鉄)が出屋敷-宝塚間の路線特許を申請する。宝塚と言えば阪急が開発したリゾート地であることは間違いない。

明けて大正12年。この年は阪急、阪神にとって目まぐるしい1年だった。

7月19日、尼宝電鉄は路線特許を得るが、その月末には阪神は尼宝電鉄に出資することをスピード決議する。一説によると、申請時点の尼宝電鉄はもともと建設の意思などなく、実現可能な会社に権利を売却するつもりだったとも言われている。ともかく、この会社に阪神が飛びついたことだけは確かで、資本金の半分を引き受けるなど最初から阪急への対抗策として進められていく。

当初尼宝電鉄は武庫川の廃川跡などを利用して、川沿いに宝塚へと向かうルートで特許を得ていた。これは武庫川流域の開発を行うという目的があったためで、いかにも政財界らしい理由とも思えるが、尼宝電鉄は特許取得の翌月にはルートを阪神の尼崎駅から武庫川左岸の集落沿いに宝塚へ向かうものに変更申請している。これはこの時点で阪神が資本参加することを見越した、あるいは既に判っていたと考えるのが妥当だろう。

このルート変更は阪急にとって面白いはずがない。神戸線と同時開業した伊丹線のエリアに近づくばかりか、梅田から電車を直通させれば宝塚線のバイパスルートにもなる。阪急は尼宝電鉄が特許を取得する直前の5月に伊丹線の宝塚-伊丹間延長、さらに塚口から尼崎(阪神尼崎駅に併設)、尼崎港、西宮海岸を経由して今津へ至る尼崎線を申請する。これらの線を全線開業が迫っていた今津線と繋げば、宝塚-塚口-今津-西宮北口-宝塚という環状ルートが見え、現に阪急は「西宮循環線」と名づけていた。またそれを前に能勢電鉄も6月27日には前年に申請した池田駅前(後の川西国鉄前。現在廃止)-伊丹間の特許を得ており、阪急はグループ挙げての阪神対抗策に出るが、翌月には尼宝電鉄に最初の特許が下りてしまい、しかもルート変更案の事実に驚かされてしまう。

阪急による尼宝電鉄対策は、地図で見るとまるで囲い込みのようだった。阪神は7月、阪急に対抗して出屋敷から浜甲子園、中津浜を経由して今津へ至る阪神海岸線を申請する。これは阪急尼崎線とほぼ同じルートで対抗意識の顕著なものだろう。12月には阪急が尼宝電鉄のルート変更に対し当初の武庫川流域開発と話が違うこと、権利の売却目的だったことを上申(実は阪急にも権利譲渡の話があったらしい)、こうして両社膠着状態のまま激動の大正12年は暮れていく。

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大正13年5月19日。両社に行政の判断が下る。阪急の尼崎線については既存の阪神線と並行するという理由で尼崎-今津間は却下され、西宮循環線は成らなかったが残る塚口-尼崎間、宝塚-伊丹間に特許が下りる。また阪神の阪神海岸線も特許を得て、これら特許争いに関して言えば喧嘩両成敗という形に収まったと言えようか。

争いがひと段落して大正15年には尼宝電鉄の建設工事が始まる。少しずつ路盤だけは形になってきていたものの、途中の駅を何処に設けるかはまだ決まっていなかったこと、また宝塚付近で阪急との立体交差や既存の駅との接続に総工費の1/3を要する難工事というの判り、早々に工事は宙に浮いてしまう。
また阪神線との接続を出屋敷から尼崎に変更したものの、尼崎市の都市計画により「市内は全て高架線で作るように」と言われてしまう。阪神は将来的に前述の第二阪神線も建設するつもりであったが、どちらも高架線で作る費用など簡単には用意出来ず、また既存の駅を地平で残すと、第二阪神線が出来ない限り大阪と宝塚の間に電車を直通させることが出来ないどころか、阪神本線の改良が進み第二阪神線は路線建設の意義を失いつつあった。これらの問題が明らかになり、建設は事実上ストップしてしまった。

尼崎駅の神戸方 尼崎駅の大阪方
現在の尼崎駅神戸方 こちらは大阪方

とうとう尼宝電鉄は電車の運行を諦めることにした。そこで採られた策は「バスでの運行」。つまり一部完成した路盤を道路として整備の上でバス路線に活用しようというのである。途中まで進んだ路線を道路にするのは比較的容易だったようだが、肝心の尼宝電鉄は阪神国道自動車(通称阪国バス。現在の阪神電鉄バス)に吸収合併されることになり、昭和7年11月18日、短い歴史を閉じている。
皮肉にもほぼ同時に道路は完成、12月25日からはこの道路で神戸-宝塚間、大阪福島-宝塚間の阪国バスが走り出した。1年後に大阪行きは梅田まで延長されて、電車はバスに変わってしまったものの、尼宝電鉄当初の目論みが、一つだけ形にはなった。

阪急が特許を取得した塚口-尼崎間、宝塚-伊丹間だったが、こちらも路線建設には至らず…というより阪神への対抗策であり建設の可能性はもともと低かったが、こちらも解決策は「バス」。昭和3年に宝塚-伊丹間を阪急系列の宝塚有馬自動車が、塚口-伊丹間を同じく尼崎バスが運行を始め、のち周辺にも路線が伸びて行くことになる。
また尼宝電鉄包囲網に加勢した能勢電鉄の延長線も、一旦は測量まで行われたが当時能勢電鉄には新路線建設の力がなく、こちらはいつしか立ち消えに終わった。

いっぽう阪神が阪急対抗策として特許を得た阪神海岸線は、少し形を変え出屋敷-東浜間が尼崎海岸線として昭和4年4月に開業。あと浜甲子園-中津浜間が甲子園線の延長線の形で昭和5年7月に開業したが、尼崎海岸線の一部の高洲-東浜間は昭和26年に休止(昭和35年に廃止)、残る区間も昭和37年に廃止されてしまう。甲子園線浜甲子園-中津浜間に至っては戦時中の昭和20年1月に休止、その後電車が走ることなく昭和48年9月に廃止となる。

こうして尼宝電鉄を巡る争いは、いずれもあっけない結果を迎えた。

幻の尼宝電鉄線はその後も阪国バスだけが走っていたが、太平洋戦争が勃発、軍需産業が多いこの地域からは道路の開放を求める声が高くなっていた。これを重く見た兵庫県は昭和17年4月、バス専用道路の買収を決める。敗戦色がますます強くなっていく中ではあったが、道路は県道となりトラックが忙しく走る姿が多く見られるようになった。

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尼宝電鉄の路盤跡に出来た道路は「尼宝線」(あまほうせん)と名づけられ、現在もその名で親しまれている。その尼宝線に阪急と阪神の両社が唯一設けた接点が、今も残っている。

「尼宝線」の道路標識
「尼宝線」の道路標識

阪急神戸線、武庫之荘駅の西に道路陸橋があるが、この道路こそが尼宝線だ。この道路、阪急線の前後は盛土となっているが、良く見るとその勾配は一般的な道路に比べればいささか弱いように感じられる。もしかしたら、この盛土は建設が途中まで進んでいたという、電車が走るために造られたのか…そう思わせるものがあるのは否めない。
またこの陸橋は幅が狭く、尼宝線は4車線供用されているのにこの場所だけが2車線に絞られており、渋滞が起きやすいのだという。ということは、橋台や橋桁自体も鉄道時代の設計で出来てしまい、そのまま道路に流用されたように思われる。

武庫之荘駅付近の立体交差 陸橋の手前 陸橋の勾配 宝塚行きバス
陸橋の下を行く阪急9000系特急 陸橋の手前で車線は減少 道路陸橋にしては勾配が弱い 尼宝線を走る宝塚行きの阪神バス

現在尼宝線のバス路線は尼崎-宝塚間、杭瀬-宝塚間を中心に運行されている。バスに尼宝電鉄の面影を求めることは出来ないが、阪国バスのそれを求めることは可能かもしれない。

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とっくに決着したはずの尼宝電鉄を巡る阪急と阪神の争いだが、実はまだ決着していないのである。

というのも、尼宝電鉄の路線特許が失効したのは昭和7年11月2日。阪神の阪急対抗策だった尼崎海岸線、甲子園線も姿を消し、未成区間の特許も昭和45年11月5日を最後に失効しているが、阪急が大正13年に西宮循環線の一部である塚口-尼崎間、宝塚-伊丹間で取得した路線特許は、不思議なことに今もなお阪急が保持しているのだ。
現在阪急の宝塚駅や伊丹駅は高架化による改良が終わり、それを見る限り特許線のような路線延長は構造上無理である。また塚口駅にしても大々的な再開発でも行わない限り無理で、しかも阪急は昭和53年3月10日に軌道線のままだった神戸線・宝塚線及びその支線を地方鉄道に改めたので、今後路線を造るとしても特許ではなく「免許」が必要なはず。なのに特許を保持するのは…。

結局は阪急と阪神のライバル関係が、そうさせているのか…。しかし経営統合が行われた今、いよいよこの歴史にだけはピリオドが打たれる日がやって来るのかもしれない。


果たして「敵同士」は「好敵手」になったのでしょうか。近年のプリペイドカードやICカードの導入で、どちらの電車でも乗れるシームレス化が進み、ライバルという事実さえ感覚的に薄れているのも事実ですが、ともかく「尼宝線」はその歴史を知っているはずです。

次は再び北陸の話題に戻ります。

【予告】 残っていた三国線

―参考文献―

鉄道ピクトリアル1998年12月臨時増刊号 <特集>阪急電鉄 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 1997年陽春号 阪神間ライバル特集 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2000年新緑号 阪急電鉄特集PartW 神戸線・宝塚線 関西鉄道研究会
JTBキャンブックス 鉄道未成線を歩く 私鉄編 JTB
鉄道未成線を歩く No.3 阪神兵庫南部篇 とれいん工房

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