Rail Story 12 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー12

 奈良電の足跡 (後編)

昭和3年11月3日、桃山御陵前-西大寺間を開業した奈良電気鉄道(以下略して奈良電)は、当初の計画どおり西大寺から先は大軌(現在の近鉄)に乗り入れて奈良へ達したものの、京都側は京阪のドタキャンで京都市内への乗り入れは叶わなくなっていた。
そのため自社での路線建設が必要になったが、ラッキーなことに鉄道省奈良線の移転に伴う廃線跡の払い下げを受けることができて、思いがけず工事は進展するかのように思われた。

当初奈良電は京都駅を現在の八条口ではなく、烏丸口とすることを考えていた。つまり東海道本線と交差して京都駅の北側、現在の京都中央郵便局の辺りへと線路を延ばすつもりだったという。
早速この件について京都市との話し合いが持たれたが、市の要求は「九条通り(現在の東寺駅付近)から先は地下線で建設せよ」だった。今でも同じだが地下線の建設費用は高架線の倍は掛かる。しかも工期は迫っておりとても地下線の建設は無理、せめて高架線ではダメでしょうか…と再度京都市と協議、市は渋々高架線での建設を了承したといわれている。

しかし奈良電の路線工事が本格化してから開業まで残された時間は1年もなく、この高架線での京都駅進出も無理…。奈良電はとうとう鉄道省に泣きついた。省から得られた返事は「そんなに開業を急ぐのなら烏丸口ではなく八条口に仮設の駅を設けたらどうか」だった。将来的に烏丸口へ進出することを前提に奈良電京都駅は地平に仮設でつくられることになったが、その後も奈良電が烏丸口へ移ることはなかったものの、路線免許はずっと保持していたという。
ずっと後の東海道新幹線の建設に伴って、奈良電京都駅は新幹線の高架橋と同一構造となり、昭和38年9月1日、新幹線よりも1年余り早く開業を迎えたが、これが奈良電京都駅としてはようやく出来上がった本設の駅だった。

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さて省の伏見貨物線との共用が予定されていた約1kmの区間は、省が路線廃止したことにより全額奈良電負担での高架線建設を余儀なくされた。昭和3年9月2日に省の貨物線が廃止、直後の9月3日午前0時に工事は始まったという。
とにかく工期がないことから昼夜連続の突貫工事を敢行、2ヶ月後の11月12日には完成するという驚異的なスケジュールだった。その他の区間は平坦な区間であり、もともと奈良鉄道は将来を見越して複線の敷地を確保していたこともあって工事はスムーズに進み、桃山御陵前-京都間は先行開業に遅れることたったの2週間足らずの11月15日に開業、京都と大軌奈良の間に電車が走り出した。

この高架線も澱川鉄橋などと同様に現在もそのまま使われているが、伏見駅の近くにはその線路がかつて奈良鉄道が建設した区間だという証が残っている。

琵琶湖疏水を越える橋 奈良鉄道が建設した橋台
琵琶湖疏水を越す鉄橋部分 レンガ積みの橋台がある

丹波橋-伏見間には琵琶湖疏水が流れているが、奈良鉄道が架けた橋は撤去され、その上に奈良電の橋が改めて架けられて高架線と繋がっている。よく見ると橋の下にはかつてのレンガ積みの橋台が残っており、この区間の歴史を今も伝えている。

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こうして路線の全面開業に漕ぎ着けた奈良電だったが、昭和天皇の即位式典が終わると当初の予想通り乗客は少なくなってしまった。やはり路線を大阪へと延ばさないと集客は望めない。こんな時、先に申請していた小倉から大阪への路線延長は思いがけず免許されて、早速建設に向けて奈良電では準備が始まる。ところがもう片方の天秤に載っていた東大阪電鉄にも免許が下りてしまい、こちらは京阪が買い取ることに…。
奈良電は増資により新路線建設を進めようとしたが、途端に昭和4年12月、アメリカのウオール街で起こった「ブラックマンデー」に端を発する世界恐慌が日本にも及び、奈良電もこのあおりを受けてしまう。

何度も経営改善を試み赤字の削減に努めたものの、とうとう「倒産」の二文字がちらつきはじめた。奈良電は親会社の京阪に泣きつき、合併を申し入れてしまった…。

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ところが京阪からの回答は「NO!」。合併どころか「勝手にしろ」とまで言われる始末。やっぱり大阪延長線計画で怒らせてしまったのだろうか。それとも東大阪電鉄を買い取ってもらったのがいけなかったか…。やむなく奈良電は会社再建をしなければならなくなったが、その策はその大阪延長線を別会社設立で建設することだった。
もっとも京阪はこの頃新京阪電鉄(現在の阪急京都線)の開業や大阪市内乗り入れ計画などで多額の借金を抱えており、奈良電の救済などとても叶わない状況だったのは間違いないのだが…。

ブラックマンデーの影響が大きく残る昭和5年、奈良電は一応京阪に伺いを立ててみたものの、その返事は「特に異議はない」ということだったが実質的には三くだり半を言い渡されたようなものだった。落胆を隠せなかった奈良電だったがそれでも出資者がポツポツ現われ、大阪延長線は「京阪急行電鉄」として設立の動きを見せる。
昭和7年に入りあと少しで予定した額が集まるという時に四日市銀行の取り付け騒ぎが発覚、その中に大口出資者の「東海の飛将軍」こと熊沢一衛が絡んでいた。結局会社設立期限の6月11日には間に合わず、計画は流れてしまった。
奈良電は既存路線だけでの会社再建を余儀なくされてしまう。

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昭和12年に起こった支那事変は日本を戦争国家へと変えていくきっかけになってしまったが、国内は軍需産業を中心に景気回復をみせ、続いて昭和15年の紀元2600年は既に行われていた大軌橿原線(現在の近鉄橿原線)との直通運転で橿原神宮への参拝客も急増、奈良電はようやく少ないながらも配当を出せる程に蘇った。
その後も奈良電は戦勝を祈願する乗客が絶えなかったが、電車たちは保守技術の低下や物資不足で動かなくなる仲間が続出、輸送力がすっかり低下した中で終戦を迎える。親会社の京阪は新京阪線を阪急に残して新生し、これを機会に昭和20年12月、当初の約束だった京阪への乗り入れが始まり、京阪も奈良電へ乗り入れた。それは堀内駅(現在の近鉄丹波橋駅)を休止して京阪の丹波橋駅に乗り入れる線路をつくるという大掛かりなものだったが、おそらく戦時中から工事は行われていたのだろう。

戦後は軍需産業こそなくなったものの、沿線へと買出しに向かう乗客は絶えず奈良電は盛況を迎えてはいた。しかし戦後も落ち着きを見せると再び乗客は減少…。奈良電は新たに製造したデハボ1200形により昭和29年10月23日から京都-奈良間に10往復の特急を走らせた。表定速度73.9km/hは当時かなりの高速運転だったが、起死回生には至らなかった。

現在とは違い沿線人口はまだ比較的希薄、戦後の観光ブームで沿線にバスも進出したことも奈良電には逆風だったが、奈良電自身も他の関西私鉄のような宅地開発を行っておらず、自力で営業基盤を固められなかったのは痛手だったようだ。

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昭和30年代半ばには、とうとう奈良電はギブアップの様相を呈する。もっとも親会社の京阪と大軌改め近鉄はほぼ同数の奈良電の株式を保有していたが、この頃には近鉄が一歩リード、奈良電再建策は関西電力の斡旋の下、近鉄が京阪の保有してきた奈良電の株式を買い取ることで「近鉄との合併」という結果を見る。昭和38年10月1日、奈良電は近鉄京都線として生まれ変わった。この合併の直前に新幹線駅の下に完成していた奈良電京都駅は近鉄の「京都駅」と改称したが、それはたった1ヶ月間のはかない運命だった。またここまで奈良電が京都駅烏丸口乗り入れを夢見て保有を続けてきた路線免許はその年の11月に失効した。

翌年には東海道新幹線が開業、近鉄は京都から先を自社ネットワークへ導くべく特急の運転拡大を図る。京都線もこの対象となったが奈良電からの引継車デハボ1200形などが抜擢され、改造を受けて京都-橿原神宮前間特急にデビューした。
この特急は好評で12月には京都-奈良間にも増発されることになったが、京都線は奈良線などを含めて電圧が低く(600V)、また線路規格もやや低く大型車が走れなかったこと、京都線の特急需要が未確定だったこと、近い将来の規格拡大が予定されていたことから本格的な特急車導入は見送られていたという経緯もあったようだ。

昭和43年12月9日には丹波橋で相互乗り入れしてきた近鉄京都線と京阪は、近鉄が一足先に電圧を上げるために元通り袂を分かつことになり、堀内駅が近鉄丹波橋駅として復活している。

昭和44年9月21日の電圧アップ(1,500V化)後も電気回路を改造されて特急車に残った奈良電引継ぎ車(680系、683系)だったが、その後近鉄が製造した新車が増えると改造車ゆえの格差が目立つようになり、一般車に格下げされてしまう。
680系は冷房つきだったこともあり車内は特急装備のまま車体の塗装を一般車と同じマルーンに変え、観光路線の志摩線普通電車に転身、冬には雪の降る京都から一転して温暖な伊勢志摩で余生を送っていたが昭和62年8月31日に引退した。その花道は鳥羽発名古屋行き臨時急行だった。
683系はもともと予備特急車で簡易な改造しかされておらず冷房も搭載していなかったが、京都線に籍を残してはいた。昭和51年3月29日に引退したもののうち1両は大阪線に移籍、もと大阪線特急車の2250系と連結され、大阪と伊勢の間を魚の行商のオバチャンを乗せて走る「鮮魚列車」専用車となった。
この1両が引退したのは平成元年3月31日のことだったが、同時に最後の「奈良電」が姿を消した時でもあった。

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平成5年7月からは竹田-東寺間の高架化がスタート、踏切の解消により国道1号線など幹線道路がひしめく洛南で生じていた道路の渋滞が解決に向かった。順次工事は進み、平成11年11月27日に工事は完成して奈良鉄道から奈良電、そして近鉄へと引き継がれたこの区間の地平線も、過去のものとなった。

でも近鉄京都線が、かつて奈良電だったという事実だけは永遠に残るだろう。


不思議なことに、かつて奈良電が大阪進出を企てて取得した小倉-玉造間の路線免許は、近鉄との合併後も引き継がれ昭和43年頃になって失効したそうです。近鉄も何か考えるところがあったのでしょうかねえ…。

次は一足遅れだったことがずっと尾を引いたという路線の話です。

【予告】 四つ橋線の謎 2 (前編)

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 2000年12月臨時増刊号 【特集】京阪電気鉄道 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 2003年新春号 近畿日本鉄道特集 PartX 京都線 懐かしの奈良電 関西鉄道研究会
JTBキャンブックス 近鉄特急(上) JTB
鉄道未成線を歩く vol.1 京阪・南海編 とれいん工房

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