Rail Story 12 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー12

 阪急電車の謎 4

阪急電車だけでなく関西の鉄道路線は優等列車の高速運転で有名だ。しかし関西大手私鉄の多くは確かに鉄道ではあるものの「軌道」というカテゴリーからスタートしているのは事実。これは都市内の交通の延長線上としての都市間交通への参入という見方から、本来「路面電車」となるはずのものだ。

ところが都市間を結ぼうとして本来の「鉄道」で路線を建設しても、あの「鉄道国有化」が適用されてしまえば、それまでの苦労は水の泡となってしまう。それならば別の見方で…と編み出されたのが軌道法の適用だった。
ただし路面電車のスタイルのままで都市間を高速で結ぶことなど出来ないのは明らか。結局「線路が道路のどこかに接していれば良い」という拡大解釈が得られ、各社は申し訳程度の路面区間を設けて、他は専用軌道という堂々たる線路が建設されていくことになる。

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阪急の前身、箕有電車も軌道法によりスタートした路線の一つ。明治43年3月10日、現在の宝塚線・箕面線の開業時には梅田-新淀川(現在は廃止)間は一部路面区間だったものの、電車には当時の路面電車にはつきもののステップはなく、当初からホームでの乗降となっていた。ところがこの先、能勢街道沿いのルート選択が災いしたか路線はカーブの連続、続いて開業に至った神戸線では高速運転を考慮しての直線コースとなったが、この神戸線も同じく軌道線としてスタートしている。

ところが神戸線にはもともと明治38年4月12日に出入橋-三宮間を開業していたライバル、阪神電鉄があった。電車の機動性を生かし12分間隔での運転は「待たずに乗れる」というキャッチフレーズだったが、当初90分掛かっていた阪神間は66分に短縮する。大正9年7月16日、阪神との係争の末に阪急が参入、梅田-上筒井間を60分で結んだが、たった5日後には50分に短縮、ここから阪急・阪神・のちに鉄道省も交えた争いがスタートする。
阪急神戸線には昭和5年4月1日から特急の運転が開始され、以後特急と普通の組み合わせで速達性と緩急接続を図るダイヤ設定がなされるようになったが、実に四分の三世紀以上経った現在まで連綿と受け継がれているのは驚きだ。

この後阪神は神戸市内の地下化、かたや阪急は神戸の中心である三宮への高架乗り入れなどを行い、鉄道省も東海道本線・山陽本線の電化を進めていく。

いきなり高速化を迎えた神戸線に対し、宝塚線は相変わらずののんびりムード。神戸線特急がスピードアップした昭和7年10月1日にようやく宝塚線に急行が設定されたが、宝塚線はもともと線路の規格が低かったため、電車は小型車しか入れずスピードも遅いという格差が戦後に至るまで続くことになるが…。

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終戦後、国私鉄を問わず乗客数は大幅に伸びて輸送力の向上に迫られることになるが、阪急では昭和26年7月から宝塚線の規格向上工事を進めていた。ただし完成までは時間を要するため、電車は昭和23年デビューの550形、昭和28年デビューの610形までは神戸線の電車を全長15mクラスにダウンサイジングしたタイプでつくられていた。当時宝塚線は最大4両編成で走っていたものの、なにしろまだ混乱期とあって列車によっては手動扉の木造車を挟んだものもあったという。
改修工事はかなり大掛かりなものとなり、猪名川を渡る橋などは橋桁をさらに鉄骨で補強している。昭和27年3月16日、宝塚線梅田-池田間と箕面線全線で神戸線から移籍した大型車が走り出し、続く同年10月1日からは宝塚線全線に拡大された。
ところがようやく工事は終わったものの、神戸線からの電車の移籍は思うに任せず、相変わらず小型車が幅を利かせて(?)いたという。そんな中、昭和31年2月2日に大事件が発生してしまった。

それは「庄内事件」である。

この日の朝、梅田を目指して走っていた電車が宝塚線服部駅の南で故障が発生して止まってしまい、約1,000人の乗客は乗務員の誘導で寒風の中を次の庄内駅まで約1.5kmをまで歩かされるはめになってしまった。ここで梅田から回送の電車が迎えに来て、歩いてきた乗客を乗せて行く手筈になっていたが、手違いがあったのかいつまで経っても電車は来ず、しかも後続の梅田行き列車は全て満員でとても乗れる状態ではなく、乗客の怒りはとうとう爆発した。

「カラの電車を迎えに来させるまでここを動かへん!」

乗客は全員線路へ降り、その時駅に止まっていた梅田行き、宝塚行きの電車をたちまち取り囲んでしまい、宝塚線は運転不能となってしまった。
この騒ぎで大阪府警から約200人の警官が出動、阪急側も専務を派遣して乗客への説得に努めようやく収拾したというが、同じ阪急でも神戸線と宝塚線で、電車の大きさやスピードの格差がそのまま乗客のストレスにまでなっていたことは否めないようだ。

事件の後、阪急は宝塚線電車の増結と大型車の導入を進め、昭和33年に導入した1100系からは神戸線と同一サイズになった。しかしなおも宝塚線にはカーブが多く残り、スピードも出せないままだったのには変わりがなかった。以降阪急にデビューする電車は一見同じようでも神戸線用はパワーが大きくハイギアード、宝塚線用はパワーは低めでローギアードというスタイルが続いていくが、実際には神戸線用の電車も宝塚線を走っていた。昭和46年に至り、生まれの違う京都線も含めた全線共通設計の5100系がデビュー、ようやく電車の格差は解消した。

もっとも宝塚線の大型化はずっと以前の昭和9年に阪急社内で検討されたことがあったという。しかしこの時点ではまだ宝塚線の輸送量は大型車を投入する程でもなかったようで、残念ながら見送られている。ただ、この時事情が許せば大型化が行われ、事件が起こらなくて済んだには間違いない。

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昭和48年11月、梅田駅の移転拡張工事が完成し現在の阪急スタイルは確立したように見えたが、実はまだ創業時からの伝統が残っていた。

すっかり規格が向上し大型の電車が当たり前のように走っていた宝塚線、それに神戸線だったが、どちらもこの時点で軌道法の適用を受けたままだったのだ。つまり路面電車と同じカテゴリーだった…ということになる。
しかしとうとう運輸省がこの事態に黙っていられなくなったようで、同様に軌道法のままだった阪神電鉄、京阪電鉄を含めて「いい加減地方鉄道法適用に変更しなさい」とお叱りを受けたらしく、昭和53年3月10日、阪急宝塚線・神戸線は地方鉄道法によるものになった。これでようやくランクアップして「鉄道」の仲間入りをしたと言えようか。ともかく脱皮までにちょうど68年もの時間を要するとは…。

しかし脱皮したはずの軌道線当時の名残は、なおも阪急に残っていた。

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神戸線のちょうど中間地点にある西宮北口駅は今津線乗換駅でもあるが、その今津線はかつて神戸線と平面交差していたというのは有名な話だ。電車が通ったときの、あの独特かつ豪快な爆音はファンを惹きつけた。もしこの場所に道路が同居していたら、そのまま路面電車と交差点という、ごく当たり前の組み合わせだっただろう。
しかしこの平面交差は阪急にとっては悩みの種。朝のラッシュ時には1時間に神戸線54本、今津線18本もの列車が平面交差を行き交い、運行ダイヤや保安上の限界に達していた。しかも輸送力向上にためにはさらに増結が必要で、ホームを延ばすためには今津線の線路を分断しなければ不可能となった。

しかし今津線は西宮北口を境に輸送量に差があったのは確かで、逆に分断は合理的だったようだ。しかも駅の改築によりコンコース部を橋上化すればホーム同士の連絡がスムーズになるばかりか、改札外の通路も出来るので長年線路により絶たれていた市街地同士が結ばれ、西宮市としても駅周辺を含めた再開発を進められることが後押しとなった。

昭和59年3月24日、今津線は分断される。神戸線のホームは延長されて昭和60年11月18日からは現在に至る10両編成運転が実現した。駅の工事はなおも進められ昭和62年12月13日、めでたく全面完成を迎えてダイヤ改正も行われた。

ただし現在の西宮北口駅を見ると今津線の宝塚方面行きは神戸線の北側に、今津方面行きは南側にそのまま残っており、かつての平面交差時代を思い出させてくれる。また今津線(北線)と神戸線は連絡線で繋がっており、ここを利用して朝夕ラッシュ時に神戸線・今津線経由の梅田-宝塚間準急が走っているが、なにしろ連絡線にはホームがないので神戸線特急が停車する西宮北口駅を準急は通過、しかも本来の宝塚線急行よりも所要時間は短いという珍事が今も続いている。

今津線3100系電車 今津線6000系電車(ワンマン対応車) 連絡線をゆっくり進む電車
今津線(北線)の電車は6両編成 今津線(南線)の電車はワンマン3両 西宮北口駅の連絡線を行く電車

そして、昔はミミズ電車と言われた宝塚線も、現在はすっかり市街化されて逆に多くの踏切は交通の妨げになってしまった。昭和43年9月に池田駅に始まった宝塚線における高架化事業の中で、最後まで軌道線時代の名残があった。

平成12年3月20日、宝塚線三国駅の高架化が完成した。路線は駅の北側で神崎川を越えているが、高架化以前の鉄橋は川に対しほぼ直角につくられたため、その直前に半径100mの急カーブが存在した。しかし地方鉄道法の規定では最小半径は160m。当然これをクリアしていなかったが、特別認可ということで運輸省(当時)は目をつぶったようだ。
ただしそんな急カーブでは電車も当然徐行を強いられる。自転車なみの30km/hというノロノロ運転が続いていたが、高架化と並行して大阪市による土地区画整理が行われ、カーブは緩和されて宝塚線最大のネックが解消した。続いて豊中市内の高架化も完成し、平成12年6月4日、宝塚線のダイヤが行われた。この時阪急念願の宝塚線スピードアップが(最高速度90km/hから100km/hへ向上)実現、特急の運転を終日に拡大した(現在日中の特急は急行となっている)。宝塚線はようやく名実共に軌道線から脱皮した。

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創業時からごく最近に至るまで、多くの謎と話題に事欠かないのが阪急だ。私鉄各社の「ターミナル駅ビルと百貨店」の先駆となった阪急梅田駅ビルは長年の勤めを終え現在改築がなされているが、完成の暁にはどんなものが出来上がるのか、楽しみである。そして今後も多くの話題を提供してほしいものだ。


平成7年の阪神大震災で姿を消したものの一つに神戸三宮の阪急会館があります。あの象徴的だった建物がなくなって寂しい思いをした人も多いでしょう。でも駅構内や改札口あたりにまだ、かつての名残を見ることが出来ます。地下鉄直通運転の噂も聞かれますが、市内の高架線から続く光景も含めて、ずっと続いてほしいものです。

次はひとまず阪急の話題を終え、近鉄京都線の話題に移ります。

【予告】 奈良電の足跡

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 1998年12月臨時増刊号 <特集>阪急電鉄 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2003年10月号 【特集】関西大手民鉄の列車ダイヤ 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2003年12月臨時増刊号 車両研究 1960年代の鉄道車両 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 1997陽春号 阪神間ライバル特集 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2000新緑号 阪急電鉄特集 PartW 神戸線・宝塚線 関西鉄道研究会
JTBキャンブックス 大阪・京都・神戸 私鉄駅物語 JTBパブリッシング
私鉄電車プロファイル 機芸出版社

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