Rail Story 11 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー11

 長かった夢

「京都」といえば一般的に平安京以来の、いわゆる碁盤の目状の道路が有名である。従って明治期以降の公共交通機関もそれに沿った形でつくられていったのは、いわば当然なのだろう。京都には日本最初の路面電車だった「京電」こと京都電気鉄道が走り出したが、のちに京都市も路面電車事業に参入、こちらは平安京以来の狭かった道路の拡張と同時に建設が行われていった。

その後京都には郊外電車が相次いで開業する。
明治43年3月25日、四条大宮-嵐山間に嵐山電気軌道が開業した。この時の略称「嵐電」は現在も通用しているのはご存知のとおり。
続いて嵐電から1ヵ月も経たない明治43年4月15日に京阪が大阪天満橋から五条までを開業、市内中心部は琵琶湖疎水沿いに北上した。
三条通には京津電気鉄道(現在の京阪京津線)が、明治45年8月15日に三条大橋(現在の三条京阪)と札の辻間を開業する。どの路線も碁盤の目状に東西あるいは南北方向に走ったのは、いわば歴史にのっとった形だ。

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開業当初の京津電気鉄道は意外なことに現在の京福電鉄の前身、京都電燈の系列下だった。ところが京阪は路線開業と前後して琵琶湖周辺の観光資源に着目、京津電気鉄道を持つ京都電燈との関係を急速に深めていく。
その後両社は現在の石山坂本線の前身、大津電気軌道を共同出資の形で設立し路線の建設を進めていくことになるが、この時点では京阪は五条止まりで京津電気軌道線には接続出来ていなかった。このままでは大阪から琵琶湖方面への客をスムーズに誘導出来ないのを懸念した京阪は、三条までの路線延長を考えた。

しかし五条-三条間の路線特許を既に持っていたのは京都市で、将来の市電路線のためだった。

大正4年10月27日、京阪が五条-三条間を延長開業し、以降は三条が京阪本線の京都側ターミナルの座を得るが、実はこの区間は京阪が別に特許を得たのではなく、自社路線と琵琶湖をぜひ繋きたいという強い思いを京都市に説得、その末に路線を借り入れたものだ。ただし借り入れに当たり京阪が京都市に支払った金額は相当高額だったといわれている。
言い換えればそれだけの金額を遣っても京阪にとって琵琶湖進出は魅力的だったということになるが、かつて京阪が開業する前、ほんの一部の区間を大阪市に譲ったばっかりに、市内乗り入れを果たせなかった失敗に対する反省を匂わせるものがある。でもどうやらこのあたりに戦前の京阪が、いくつもの事業に手を出して破滅寸前にまで追いやられる発端があったのかも…。

のちに京津電気鉄道は大津電気軌道共々京阪と合併する。京阪のネットワークは琵琶湖へと拡がったものの…。

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いっぽう洛北では大正14年9月27日に京都電燈が出町柳-八瀬間を叡山電鉄の名で開業、こちらは「叡電」の名で嵐電同様、今も京都市民に親しまれている。途中の宝ヶ池からは鞍馬電気鉄道が昭和4年10月20日に鞍馬まで開業しているが、鞍馬電気鉄道も京都電燈と京阪の共同出資で生まれた会社だった。
ところがこの頃には京阪は新京阪線の建設に代表される巨額な出費に頭を悩ませ始める。昭和3年11月1日、新京阪線は西院仮駅まで開業、続いて昭和6年3月31日には大宮まで延長に至ったが、その途中で鞍馬電気鉄道にこれ以上の関与は出来ないと言う結論に至り、所有していた同社株を全て京都電燈に譲渡して洛北からは撤退してしまう。

叡電の開業時からの悩みは起点が出町柳という京都の町外れだったことで、当然集客には問題があったようだ。既に京都電気鉄道が出町まで開業しており京都市内からの路線は繋がっていたものの、京都電気鉄道が京都市に買収されると、大正13年9月30日をもって京都市電河原町線の今出川寺町-河原町丸太町間開業と引き換えに京都電気鉄道出町線は廃止、なんと叡電は開業直前にアクセスを失ってしまった。

もっとも京都市電は第二期線の建設も同じ頃に進めており、昭和3年1月13日の東大路線の延長で元田中(市電の電停は叡電前)での接続が成ったものの叡電は既に開業していた。
続いて昭和6年9月18日には今出川線も出町柳で一応接続したが、本来この区間の市電は出町橋、河合橋を渡り出町柳駅の真ん前を通って百万遍へ至る予定だったのが、肝心の道路が予定外の直線で出来てしまい、市電も新ルートを通ることになったため、接続は叡電出町柳駅とは少し離れた加茂大橋電停となってしまった。

そのため叡電は、市電による京都市内の接続もさることながら、京津電気鉄道同様に京阪との接続による大阪からの集客も視野に入れる必要があると考え、急ぎ京阪との接続のため出町柳-三条間の路線を申請した。免許が得られたのは叡電の開業直前の大正14年8月29日のことだった。

しかし…出町柳-三条間といえば、現在の京阪鴨東線ではないか。

実は京阪鴨東線は、元々はこのように叡電が計画した路線なのである。実際に翌大正15年3月12日には施工認可も得られたものの、出町柳から南下すれば当然丸太町通りで京都市電丸太町線との平面交差が生じることになり、これには京都市が難色を示した。結局その部分を除いて用地買収などを始めたものの、当時は不況続きで思うように進展せず、やがて戦争が始まって路線建設は事実上不可能になる始末。
結局京都電燈は戦時下の政策により電力部門を分離、叡電は大正7月4月2日に合併していた嵐電や、福井地区の路線と共に京福電気鉄道(以下京福)となった。この間に施工期限は…どうやら切れていたようだ。

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戦後まもなくの昭和23年10月、京都市は京阪と京福に対し鴨東線建設の要請を行う。市側からの要請は今までとは逆のパターンであるが、これは当時京都市が宝ヶ池周辺の公園整備や叡電改め京福叡山線の沿線開発に期待をかけていたためといわれており、事実京都市は市電の叡山線乗り入れを行ったことがある。これを受けた京福は京阪と協定を結び、共同出資の新会社を設立して路線を建設する方針を打ち出す。路線免許はちゃんと京福に引き継がれていたのだった。

鴨川沿いの風景ところがこの計画は京都市民からの思わぬ反発を買うことになる。鴨川沿いに新たに電車を走らせるのは景観上好ましくないとクレームがついてしまったのだ。これを受け昭和28年7月に京都市は京福・京阪に対し「鴨東線を地上に建設しても、後に自力で地下化出来るように」という意見書を出した。

もともと市側からの要請だというのに、戦前からの市電との平面交差問題が解決しない上に将来の地下化まで示唆されては、両社共にたまったものではない。おまけに京阪は大阪市内への進出が淀屋橋延長線の進展で現実化しつつあり、とても京都市内の新路線などには着手出来る状態ではなく、いっぽうの京福はといえば、それだけの工事を出来るほどの会社規模ではなかった。当然計画は宙に浮いてしまう格好に…。

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ここで話は戦前に遡る。昭和9年に京都を襲った室戸台風では、鴨川が氾濫して多くの橋が流出したという。続いて翌昭和10年にも大雨が京都を襲い鴨川は再び氾濫、急ぎ鴨川の治水が必要とされた。そのため鴨川と琵琶湖疏水の間を走る京阪の線路が邪魔となり地下化が計画されたが、こちらも鴨東線同様、戦時下になると全く進展しなかった。
ただしこれはずっと京都市・京阪の懸案だったことは確かだ。昭和43年の都市交通審議会では京都市内の地下鉄整備が答申されたが、これには京阪の東福寺-三条間の地下化も含まれ、30年越しの計画が再び動き出すことになった。

続いて大阪万博後の昭和46年12月、都市交通審議会は鴨東線の建設を京阪線の地下化と合わせて行うことを答申、計画は大きく前進を見せる。翌昭和47年6月には京阪60%、京福40%出資の「鴨川電気鉄道」が設立された。
ここまで出町柳-三条間の免許は京福がずっと保持していたが、これは昭和49年2月20日に一旦失効の形をとり、5日後の2月25日に鴨川電気鉄道が免許を受けた。

ただしこの時点までは、出町柳-三条間で京阪と京福は相互乗り入れを行う予定になっていたが、当時京阪は7両編成の電車をもってしても輸送力が足りず、8両編成化に向けて電圧アップなどの準備をしていたというのに、京福叡山線は1両か2両で輸送力は十分で、これらが混在するというのは当初から問題があった。結局鴨東線には京阪の電車がそのまま直通することになって、京福は乗り入れを断念せざるを得なかった。
これを受け出町柳では両社の「乗り入れ」ではなく「乗り換え」を前提に計画が一部変更されている。

いよいよ工事は本格化、京阪線の地下化が先行して昭和54年に着工され、続いて昭和59年に鴨東線も着工された。

昭和62年5月24日、京阪線東福寺-三条間の地下化が完成、長年ターミナルとして親しまれた京阪線の三条駅は地上からは消えてしまったが、この時点では京津線が地上に残り、便宜上駅は「京津三条」と呼ばれることになった。
そして平成元年10月15日には鴨東線が開業、大阪からの電車が華々しく乗り入れたが、この年の4月1日をもって鴨川電気鉄道は京阪と合併している。つまり鴨東線は名実共に京阪のものとなり、ずっと半世紀以上も三条への乗り入れを夢見ていた京福は、路線免許を温存しながらもあえなくその権利を放棄するという、思ってもみなかった結果を招いてしまった。

京阪の線路跡は川端通りに 現在の京阪三条駅
京阪の地下化で線路は川端通りに 現在の京阪電鉄三条駅

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しかし鴨東線の開業は、叡電にとって正に起死回生の出来事だったのは間違いない。

洛北に欠かせない足だったはずの叡電は、高度経済成長期以後、バス路線の発達などもあり乗客は減る一方だった。これに昭和51年3月31日の市電今出川線の廃止に続いて昭和53年9月30日の市電全面廃止で東大路線も姿を消し、出町柳へのアクセスは市バスだけとなってしまったことが拍車をかけ、乗客数は全盛期だった昭和30年代の半分にまで低下していた。
一時は経費が運賃収入の倍にもなり、路線の廃止が真剣に検討されたと聞くが、京福は昭和61年4月に叡山線と鞍馬線を京福全額出資の叡山電鉄として分離独立させ、ワンマン化などの合理化策も積極的に導入してどうにか維持、京阪鴨東線の開業を迎えた。ただし当時京福は京阪のグループ会社となっており、叡山電鉄も再び京阪の系列下となる。

京阪と京福が並ぶ現在の出町柳駅
京阪と京福が並んでいる出町柳駅

出町柳での「乗り換え」は必要なものの、駅は地下道でも結ばれて利便性は高く、これで叡電の乗客は再び増加して全盛期に近い勢いを取り戻した。叡電は蘇ったのだ。鴨東線への乗り入れは成らなかったが、現状を見る限り自然な形に収まった…と言えるのかもしれない。
叡山線終点にあった八瀬遊園がクローズした今、叡電を取り巻く環境は決して良いとは言えないのが実状だが、近年は観光電車「きらら」などの導入など固定客以外の需要の掘り起こしにも積極的で、このまま洛北を静かに走り続けて欲しいと願うばかりである。

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思えば京阪は開業時から大阪市のドタキャンに始まり、以降新京阪の設立、他社への介入、鉄道省との癒着、和歌山地区への投資など紆余曲折の末に阪急と合併、これらの反省から戦後に新京阪線を阪急に残し会社そのものを新生して現在に至っている。その歴史の中で京都からは琵琶湖方面へ進出したものの、一旦は進出した洛北方面を諦めざるを得なかった。
しかし京阪が洛北から撤退していなかったら、戦前には鴨東線は開通して叡電との接続が出来ていたかもしれず、それにより京都市内の交通は大きく変わっていたかもしれなかった。


関西の私鉄にはまだまだ話題が多く存在するようですが、中でも京阪にまつわる話が、こんなに事実までもを左右する結果になったとは正に意外と言わざるを得ません。ただ、それが現在の姿に落ち着いたのも、もっともな話なのでしょう。

さて、今では長編成の電車が行きかう鉄道路線でも、かつてはのんびりしたものがあったようです。

次は関東に話を移します。

【予告】幻の路面電車 2 (前編)

―参考文献―

鉄道ジャーナル 2001年8月号 ローカル私鉄 光と風と大地と 叡山電鉄 鉄道ジャーナル社
鉄道ピクトリアル 2000年12月臨時増刊号 <特集>京阪電気鉄道 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 1995年初冬号 京都市交通特集 関西鉄道研究会
関西の鉄道 1999年爽秋号 京阪電気鉄道特集 PartV 関西鉄道研究会
鉄道未成線を歩く vol.1 京阪・南海編 とれいん工房

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