Rail Story 11 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー11

 消えたモノレール

私鉄路線には、沿線に遊園地などの大きな施設がある例が多い。もっとも不景気が叫ばれている昨今はやむなく閉園に追い込まれるものが後を絶たないが、子供たちにとって憧れの場所には間違いないだろう。
そんな夢のような場所へ連れて行ってくれた乗り物が、惜しまれつつ廃止されたのは記憶に新しい。

小田急向ヶ丘遊園モノレール線である。路線の廃止は長い歴史を持つ遊園地の閉鎖をもたらした。

● ● ●

小田急が新宿-小田原間を開業したのは昭和2年4月1日のことだった。この時期に開業した私鉄路線の多くが部分開業の後に全線開業に至る中、メインとなる小田原線を一気に開業したのは珍しい。ただし開業当初は沿線人口がまだ希薄で、沿線は大部分が田園風景だったという。そこで多くの私鉄の例に漏れず、沿線の観光開発や宅地開発を進めていくことになる。
小田急では多摩川に程近い丘陵地に「向ヶ丘遊園」をつくったが、開園したのは小田原線開業の前年12月のことで、他の私鉄が開業後の乗客数の伸び悩みの結果、沿線に遊園地をつくったのに対し、小田急の向ヶ丘遊園だけは開業前のオープンという珍しいケースとなった。

向ヶ丘遊園の小田急線最寄り駅は稲田登戸(現在の向ヶ丘遊園)だった。ところが駅から遊園地正門までは1.1kmあり、子供連れで徒歩での来園には少し厳しいものがあったのは確かである。そこで小田急は駅からのアクセスとしてトロッコ列車の「豆汽車」を昭和2年6月14日から走らせた。
この豆汽車は本来の鉄道ではなく、遊園地の遊戯物という扱いになっていた。というのも駅から遊園地まで豆汽車の線路を敷いた土地は、もともと遊園地の一部として小田急が保有していたもので、言い換えれば遊園地の「続き」ということになり、法規的に鉄道のカテゴリーとする必要はあえてなかったのだろう。
豆汽車は工事用のガソリン機関車が引っ張る、正にトロッコ然としたものだったが、側面には当時の人気キャラクター、のらくろの絵が描かれて人気を博していたという。しかし後に日本は戦時体制となり、やがて「贅沢は敵」という世相を迎えることになる。向ヶ丘遊園は休園となり、豆汽車は金属回収令の対象となってしまって、姿を消してしまった。

戦争が終わり、しばらくして人々の生活にも少しは余裕が生まれ、向ヶ丘遊園は昭和22年5月には再び開園の運びとなり、戦前の豆汽車も復活することになった。
昭和25年3月25日にはガソリン機関車に代わりバッテリー式の電気機関車がデビュー、スタイルも工事用の無骨なものではなく、流線型のスマートなものだった。バッテリー式となったのは当時ガソリンの入手難という事情があったためで、確かにこの頃、全国に散在した未電化の私鉄路線も同様に電化されて電車になった例が多く、この豆汽車と同様だったと言える。今度は電気機関車ということで「豆電車」と名を改めたが、遊戯物扱いということには変わりはなかった。

多くの子供たちと夢を乗せて走った豆電車だったが、やがて問題が起こった。

それは県道川崎-府中線(府中県道)のバイパス道建設が決まり、豆電車との交差が生じてしまうことだった。普通の「鉄道」なら踏切を設けることが出来たが、豆汽車は所詮遊戯物、遊園地内ならともかく一般道に踏切というのはどうか…。そこで豆電車を廃止して未来的な乗り物、空中を走るモノレールを敷設しようという計画が持ち上がった。

● ● ●

モノレールは遊戯物という訳にはいかなかったのか、地方鉄道法で申請が行われた。基本的には元の豆電車の敷地を利用することになったものの、向ヶ丘遊園駅前から稲生橋交差点までは道路の真ん中を通ることになる。本来道路敷を走るには軌道法の適用となるが、もともとこの部分の道路は遊園地の一部であり、その道路は小田急が川崎市に提供していたものだ。モノレールの敷地は「専用の敷地」という解釈がなされたようだ。
しかし、たった1.1kmの路線に多額のコストは掛けられず、小田急の取った方法は「中古車の導入」。それもアメリカの航空機メーカー、ロッキード社が試験的につくったものだった。
この試験車両は昭和37年に岐阜の川崎航空機に設けられた試験線に導入されたもので、小田急はそれを安価で譲り受けることになった。何といってもこのモノレールの特徴はゴムタイヤではなく普通の電車同様、鉄の車輪で走る独特の構造で「ロッキード式」と呼ばれた。いかにもロッキード社らしい独創的な発想だったが、日本国内はおろか世界初の採用だった。のちに姫路に同じ方式のものが出来たが、早晩に休止され結局向ヶ丘遊園線が世界唯一のものとなった。今度は正式な「電車」が走ることになったため、運転は小田急線の運転士が交代で任務にあたったという。

モノレールは豆電車廃止の原因となった県道のバイパス線が分岐する本村橋交差点を越え、そのまま向ヶ丘遊園正門の真ん前に進出した。立体交差が得意なモノレールの成せる業と言えようか。豆電車の頃の遊園地正門終点では県道と二ヶ領用水を歩道橋で渡らなければならなかった。

向ヶ丘遊園アクセスの座を受け継いだモノレールは昭和41年4月23日に運転を開始、ロマンスカーに似た塗装でたちまち人気者となった。なお廃止された豆電車だが、今度は園内で本当の遊戯物「フラワートレイン」として昭和42年4月から第二の活躍の場を得た。バッテリー機関車は昭和57年3月の蒸気機関車タイプへの交代まで走り続けた。

● ● ●

多摩丘陵を見下ろしながら、ずっと駅と遊園地の間を繋いでいたモノレールに重大なアクシデントが襲ったのは、平成12年2月の定期検査の時だった。
電車の台車枠に30cmの亀裂が入っていたのが見つかり、モノレールはそのまま運転休止となった。以降運転再開に向けて調査が行われ、11月30日に出来上がった報告書には、線路等の補修などを含めると3億8000万もの費用と2年間の工事期間を要するという、思いがけない結果が記されていた…。小田急はモノレール線の再開を断念することになり廃止届を提出、平成13年12月1日をもって豆汽車から続いた路線の歴史に終止符を打った。
向ヶ丘遊園は昭和62年度の利用客数が116万人を数えピークを迎えたが、既に東京ディズニーランドなど大型テーマパークがオープンしており人気は低下していく。モノレールが運転休止した平成12年度には55万人に減り、小田急サイドでは「閉園もやむなし」という結論に至ってしまった。向ヶ丘遊園は平成14年3月31日をもって惜しまれつつ75年の歴史を閉じた。

● ● ●

平成13年3月24・25日には向ヶ丘遊園正門駅で電車の最終公開が行われ、この電車を利用して向ヶ丘遊園を訪れていた人々が名残を惜しんだ。その後線路の撤去が始まり、平成16年9月末までに工事は終了したが、今もなお、いくつかの痕跡が当時を偲ばせている。

向ヶ丘遊園駅南口にあったモノレールの駅は駐輪場になったが、その外形は駅の存在を感じさせてくれる。かつてここにはマンサード屋根の小さな駅舎があった。駅跡から稲生橋交差点まではモノレールの柱がなくなってスッキリし、ようやくホントの道路となった。

モノレール線向ヶ丘遊園駅跡 道路は拡幅された
モノレール向ヶ丘遊園駅跡は駐輪場に 稲生橋交差点まではスッキリした

稲生橋交差点でモノレールは用水沿いに左折していたが、ここから先は一部が「五ヶ村堀緑地」として整備されている。緑地の先は一旦広くなっている場所があるが、そこはかつて豆電車の上り列車と下り列車がすれ違うためにつくられた場所の名残だ。やがて線路跡は本村橋交差点へ至る。

一部は緑地に 本村橋交差点
稲生橋交差点からしばらく続く五ヶ村堀緑地 本村橋交差点(左へ進んでいるのがバイパス線)

この県道バイパス線に踏切を設けられなかったのがモノレールがつくられた理由でもあるが、モノレール自身も巨大な鉄骨梁が渡された上を走っていた。線路跡は県道(旧道)沿いの用水脇をしばらく進み、やがて右手に向ヶ丘遊園が見えてくる。
県道(旧道)と二ヶ領用水を挟んだ遊園地正門の前まで来ると線路跡は途切れるが、そこはかつて豆電車時代の正門駅だったところだ。ここにあった歩道橋は豆電車廃止後もそのまま残り、撤去されたのは閉園後しばらく経ってからだった。

用水沿いの線路跡 かつての豆電車終点
線路跡は用水脇を進む ここで県道と用水を跨いでいた(豆電車時代の終点)

モノレールはそのまま正門横の駐車場に乗り入れていた。今では駅施設は全て取り壊されてしまい、資材置場となっている。唯一正門の隣のボーリング場だけが今も営業している。

向ヶ丘遊園正門と大階段はそのまま モノレール正門駅跡
遊園地正門と大階段 モノレール正門駅は全て撤去された

多くの人が歩いた大階段は、周りの草木は伸びたものの営業していた頃の面影を残している。ただしこの大階段は開園当初つくられておらず、ジクザグに登る砂利道だったという。
現在の正門前には仮囲いがされており、立ち入ることは出来ない。子供たちの夢を叶えてくれた数々のアトラクションは撤去され遊園地として営業することはないが、跡地の有効利用についてはなお検討が進められている。また園地自体は今も小田急の手で管理がなされており、人々を迎えた正門はその事務所として使われている。

● ● ●

向ヶ丘遊園には小田急の「鉄道資料館」があった。建物はかつて新松田駅舎として小田急創業時から使われたものが移築されていた。この駅舎と同じマンサード形の屋根は小田急の途中主要5駅と位置づけられた駅にのみ採用されたもので、大秦野(現在の秦野)、新原町田(現在の町田)、本厚木にも存在したが今は改築されている。モノレールの向ヶ丘遊園駅の駅舎もそれにちなんだものだったのだろう。
なお稲田登戸改め向ヶ丘遊園駅(昭和30年に改称)も5駅の一つで、北口はマンサード屋根の駅舎が唯一健在であり、開業当時の面影を垣間見ることが出来る。連続立体交差化・複々線化による改良が進む中、この駅だけは駅名と共にそのまま残してほしいものだ。

モノレールの先代、豆電車の機関車は引退後もそのまま園内に保管されていたが、閉園された現在はけいてつ協会により移動機械メーカーのトモエ電機工業で保管されているという。機関車は珍しい東芝製で、平成15年7月にはこれが縁となり東芝科学館で一般公開された。

● ● ●

このまま向ヶ丘遊園モノレール線は、人々の記憶から消え去ってしまうのであろうか…。実は小田急はその証を残していた。

小田急はかつてモノレールの線路を支えた柱があった場所に、刻印ともいうべきベンチマークを植え込んでいたのだ。そこに再び柱が立てられ電車が走ることはないが、小田急の歴史と共に、子供たちの歓声もその場所に残されている。

ベンチマークは語りかける
柱のあった場所に残されたベンチマーク


―参考文献―

鉄道ピクトリアル 1999年12月臨時増刊号 <特集> 小田急電鉄 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション 1 小田急電鉄 1950〜60 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション 2 小田急電鉄 1960〜70 鉄道図書刊行会

 
− あとがき −

前作「レイル・ストーリー10」をリリースしたのは今年の春のことでしたが、こんなに早くに今回のリリースが出来るとは、正直思っていませんでした。また多くのお便りも頂き、たいへん励みになりました。ありがとうございました。
今回は大阪地区と東京地区の話題だけになってしまいましたが、京阪電鉄に関する話題はなお豊富で、一度じっくりと取り上げてみたかったことは確かです。内容的には以前リリースしたものと重複する部分もありますが、ストーリーとしての構成上、もう一度書いたものもあります。ご了承下さい。
また個人的に好きな京王電鉄の話題も書くことが出来ました。実際に現地を訪れてみると、確かに「ここに線路があった」という実感はあったものの、今は多くが緑に包まれていて新宿の副都心近くに居るという雰囲気よりも、どこかしら心落ち着くものがありました。それ以外にも府中駅などは高架化されて京王電軌の面影はありません。子供の頃の記憶とは変わってしまいました。

先日、通っているスポーツクラブから見える金沢駅に行きかう特急電車を何気なく眺めながら、ここ数年、鉄道のありかたがどう変わったのか改めて考えてみました。
北陸線の特急電車の主力はすっかり681系・683系になりましたが、学校が休みになる頃にはよく「『サンダーバード』に乗って遊びに行くんだ!」という子供の声が聞かれます。またこの春小田急にデビューした新型ロマンスカーVSEこと50000系は、人々の目を再び箱根に向けることが出来たようです。子供たちの憧れ、また行楽へといざなうなど、車両が持つ魅力はやはり大きいと再発見した次第です。それはやはりいつも変わらないな…いや、変わってはいけないなと、改めて思いました。来年には引退がアナウンスされている古豪485系『雷鳥』も、かつては花形スターだったじゃありませんか。

小田急50000系 VSE
小田急ロマンスカー 50000系 VSE

同時に近年大都市圏のJR・私鉄では、電車がかなりのペースで新車に置き換わっていますが、それらの電車に求められているものが実は近似したものであり、電車そのものが共通化されて低コスト化されるのは不景気や少子化という原因もあるにせよ、同時に半導体技術の向上やハイテク化、省資源化も手伝っているのも確かです。またICカード化なども進んでいる現在、結果的にボーダーレスという結果も生んでいます。駅で切符を買うという行為も、いずれは見られなくなるのかもしれません。
こうして、変わらないもの、変わっていくものが混在しているのが今の鉄道界と言えるでしょう。しかも変わっていくスピードはますます加速しています。ただ、そんな中にあっても鉄道に関する話題は絶えることはありません。
また話題を拾って書いていこうと思っています。

長くなりました。この辺でペンを置くことにしましょう。

ご乗車ありがとうございました。

2005年盛夏
 

このサイトからの文章・写真等内容の無断転載は固くお断りいたします。

トップに戻る