Rail Story 11 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー11

 見果てぬ夢(後編)

現在のJR西日本大阪環状線の横に線路を設け、キタの中心である梅田へ乗り入れようとした京阪の夢は結局あえなく破れてしまったが、夢はそれだけには終わっていなかった。

明治以後、関西にも鉄道路線がつくられていくが、大阪と京都・奈良をめぐる鉄道路線の計画が、年号が昭和に変わる前後に相次いでいる。
大正8年には京阪が高速新線として淀川の西岸に新京阪線の路線免許を得たが、大正11年になると今の近鉄の前身、大阪電気軌道(以下大軌)が天満橋筋四丁目(現在の源八橋西詰交差点付近)から鶴見、住道付近を経て大軌線鷲尾(現在の近鉄奈良線石切駅付近)へ至る路線を申請した。これは大軌路線の北側が鉄道の空白地帯だというところに目をつけたものだった。
続いて大正13年には阪神電鉄が梅田-住道-四条畷間の路線を申請、翌年には南海系の新会社、畿内電鉄が天王寺-京都七条間の路線を申請した。
ブームはまだ留まらず、昭和2年には現在の近鉄京都線の前身、奈良電気鉄道(以下奈良電)が大阪方面進出を図るため路線途中の小倉から分岐して大阪の玉造へ向かう新路線を申請、同じ年には東大阪電鉄なる会社が大阪森之宮から四条畷を経由して奈良へ向かう路線を申請、大阪の北東部を巡る新路線計画は全く収拾のつかない状態と化してしまったが、どうやら政財界の癒着もあったようだ…。

申請年 会社 区間 備考
大正11年 大阪電気軌道 天満橋筋四丁目-鶴見-鷲尾 鷲尾で大軌線と接続を想定
大正13年 阪神電鉄 梅田-住道-四条畷 後に却下
大正14年 畿内電鉄 天王寺-七条  
昭和2年 奈良電気鉄道 玉造-小倉  
昭和2年 東大阪電鉄 森之宮-四条畷-奈良、逢坂-宝山寺 逢坂-宝山寺間は却下
昭和2年 奈良電気鉄道 四条畷-小倉-宇治 四条畷で東大阪電鉄線乗り入れを想定

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当初この新路線ブームの中では、畿内電鉄がやや優勢だったといわれていた。

ところが新規参入の東大阪電鉄も認可が近いなどという噂が流れ始め、奈良電はここで無理をして新路線を建設するより、東大阪電鉄線に途中から乗り入れたほうが、距離も半分で済み安上がりではないかということで同社の株式の過半数を取得、宇治-小倉-四条畷間(東大阪電鉄線と四条畷で接続)の路線を追加申請、自社の計画と東大阪電鉄のどちらに認可が下りても大阪進出を果たせるように動いた。
しかし奈良電は京阪・大軌両社の出資を中心に設立された会社であり、親会社の立場を脅かすほどの勝手な行動は寝耳に水、「金を返せ」と大軌を怒らせてしまった。奈良電は慌てて借金で返済するものの、その保証人を京阪に求める始末…。

そんな中、京阪に鉄道省から別の話が舞い込んできた。

「今計画中のウチの片町線の電化だが、その資金を京阪が出して、片町線に乗り入れるという案はどうだ?そうすれば大阪-京都間の他社新規路線は却下してもよい」。

昭和7年に電化された片町線(現在のJR西日本学研都市線)だが、最初は明治28年8月22日に片町-四条畷間を浪速鉄道の手で開業したもので、生まれは私鉄だった。関西鉄道と合併した後、明治40月10月1日に国有化されている。
ただしこの時片町線は未電化。路線の両隣を行く京阪や大軌など電車が頻繁に走る路線とは大きな差があった。このままでは経済発展に遅れを取ると大正8年には鉄道省に対し沿線住民が電化を請願、これを受け鉄道省も城東線の高架化・電化の次に片町線を電化する計画を立てたものの、城東線同様、話は自然消滅してしまっていた。

京阪は自社で片町線の電化を行えば、京都-大阪間に他社の参入を阻止出来る。鉄道省側としても電化資金の捻出を避けられ、しかも電車の運転本数も京阪の乗り入れ分を加えれば容易に増やすことが出来る。この両者の思惑は一致した。
まず京阪は自社系列の信貴生駒電鉄枚方線(現在の京阪交野線)の交野と、それに隣接する片町線星田の間に連絡線を新設することにした。ただし今も昔も京阪のレールの幅は1,435mm。ところが片町線は1,067mm。これを克服するには片町線のレールの外側にもう1本レールを敷く、現在小田急が箱根登山鉄道に乗り入れているのと同じ手法を採らなければならなかった。
昭和2年12月26日、この計画は認可された。京阪は片町線の片町-木津間の3本レール化と電化の全額を負担、しかも3年以内に工事を完成させるなどの条件を呑みつつ鉄道省と合意に至っていた。

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昭和4年6月26日。この日をもって大阪の北東部を巡る私鉄新路線・計画争いに終止符が打たれる。

こんなケースは異例だが、実は鉄道の新規路線に積極的だった当時の田中内閣は、これらの申請に絡む癒着が明るみになったことや張作霖事件などで倒閣を余儀なくされ、「行き掛けの駄賃」でこの日を含む数日間で多くの申請が鉄道省により認可されてしまったのだ。

奈良電は東大阪電鉄に介入して接続する路線まで申請していたが、自社の大阪延長線も認可されたために介入の必要がなくなり、従って同社の株は不用となってしまった。結局この株は京阪が買い取ることになったが、奈良電が買値の4倍で売ったもののその金額は京阪が片町線の電化に必要な金額の1/5。もともと新規路線の参入を抑えるのが目的だった片町線電化乗り入れ計画だったため、それよりも東大阪電鉄を傘下に置くことにより安く目的を達成出来る。昭和6年に京阪の片町線乗り入れは中止となった。もともと実現性の低い、ただの対抗策だったので当たり前の結果とも言えようか。

結局、畿内電鉄・東大阪電鉄・奈良電大阪延長線は全て着工にすら至らずに終わってしまった。また阪神電鉄の四条畷延長線は昭和6年6月に却下されている。今思えば、どこまでが本気だったのかも判らない。ただし京阪は新規参入を抑えることに成功したものの、ここまで大阪市内への乗り入れに強い望みを掛けていたのに対し、片町線乗り入れ計画はちょっと意味合いが違っていた。京阪は戦時下の昭和18年10月、阪急と合併する。
戦後の昭和24年11月、京阪は新京阪線を阪急に残して独立、懸案の大阪市内乗り入れを改めて考えることになる。

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日本の戦後は朝鮮戦争の特需景気に湧き、京阪の沿線人口は爆発的に増えたが、やはりターミナルが天満橋というのは大きな悩みに変わりはなかった。それに天満橋や京橋での乗り換えは殺人的とも言われた。
天満橋で電車を降りた乗客は、そのまま吸い込まれるように大阪市電に乗り換えていたが、行き先は本町方面が多かったという。そこで京阪は天満橋-本町間の特許申請を昭和25年3月に行うが、既に大阪市が計画していた中央大通りの邪魔になると反対されてしまう。それでは…と天満橋から谷町筋を谷町四丁目へ下り、そこから当時計画中の地下鉄4号線(現在の中央線)に乗り入れて本町へ向かうことにしたが、京阪と地下鉄とは集電方式と電圧が違う(京阪は架空線600V、大阪市はサードレール式750V)ことを理由に却下されている。ただ大阪市側では戦前の政財界との癒着が、なおも京阪の心証を悪くしていたのは否めなかったのかもしれない。

しかしこれで諦める京阪ではなかった。

翌昭和26年7月に野江から分岐して城東線森ノ宮へ至る路線を計画したが、こちらは住民の反対に遭いまたも中止。さらに昭和27年11月に大和田から分岐して深江橋へ、ここで中央大通りの地下へ入り森ノ宮から先はまたもや地下鉄4号線に乗り入れるという計画を打ち出すが、もともと地下鉄4号線は深江橋からは南へ分岐して放出へ至る計画だったため、やはり大阪市と同調には至らなかった。

どうしても大阪市の「市営モンロー主義」に阻まれて問題を打破出来ない京阪だったが、この頃になると在阪私鉄各社もターミナル駅に限界を感じており、なんとかして大阪市内へ路線を延長できないかと考えていた。このような状態は東京も同様で、結局運輸省が諮問機関の都市交通審議会を設立、その手に委ねることになる。当の大阪市も交通マヒなどで市電では市内交通の限界だということは判っていた。もうモンロー主義などとは言っていられないのが実情だったようだ。京阪は淀屋橋延長案を打ち出す。

京阪は昭和34年2月に天満橋から淀屋橋までの路線免許を得た。この時点で地下鉄4号線乗り入れ計画も捨ててはいなかったが、大阪市は京阪の乗り入れを渋り続け、京阪も徐々にトーンダウンしていく。そこへ昭和37年の都市交通審議会では地下鉄4号線に近鉄も乗り入れを表明、地下鉄4号線は荒本までの延長と、ここでの京阪・近鉄の乗り入れという形になった。

昭和38年4月16日、京阪の淀屋橋延長線が完成、ようやく念願の大阪の都心部乗り入れを実現する。ただし京阪は自慢の野江-守口市間(のち天満橋-寝屋川信号場間)の長い複々線があり、電車の増発と高速化に大いに寄与していたが、後に複々線が天満橋へ延長されると、逆に淀屋橋-天満橋間が複線のままで、しかも地下線のため増設もままならないというのがネックになってしまい、ラッシュ時には天満橋始発着の列車を設定せざるを得なかった。
そのため京阪は、天満橋から分岐して中之島の西岸を玉江橋まで路線を延長する「中之島新線」を計画した。淀屋橋延長線との両輪にすれば複々線も意味を持つ。これが昭和46年の都市交通審議会で一応認められ、翌年12月に地下鉄4号線改め中央線乗り入れの申請を取り下げた。後に地下鉄中央線には、かつての京阪に代わって近鉄東大阪線が直通運転することになったが、むしろこの時期まで京阪が、まだ戦後まもなくの頃からの地下鉄乗り入れ計画を保持していたことのほうが驚きだ。

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京阪線は電圧の1,500V化で電車の増結が実現して混雑は一応落ち着きを見せたが、平成元年5月、都市交通審議会は中之島新線について「平成17年までに整備に着手することが適当」との答申を打ち出す。その後は大きな動きは無く、京阪は京都のターミナルとして長年親しまれた三条から出町柳への鴨東線延長を行った。
平成13年7月、前年に公的機関による路線建設と民間事業者による借受運営(通称は償還型上下分離方式)という新たな手法が運輸政策審議会で提案されたことを受け中之島新線は実現に向けて大きく前進、建設を受け持つ中之島高速鉄道が設立された。続く7月にこの会社は大阪市・大阪府が参入した第三セクターとなり、もちろん完成後の路線運営は京阪と決まった。戦前戦後を通じ、あれほど頑強だった大阪市がようやく京阪と和解したことになる。

長い、本当に長い道のりだった。平成15年5月28日、中之島新線は着工され京阪の創業時からの夢が実現に向けて動き出した。

中之島新線は地下の天満橋駅から分岐して土佐堀川を斜めに横断して玉江橋へ至るもので、途中新北浜、大江橋、渡辺橋の3駅を設け、終点の玉江橋では将来の「なにわ筋線」との連絡が想定されていた。また中之島西地区の再開発も視野に入れているようだ。
天満橋駅では淀屋橋延長から使われてきた1・2番線が中之島新線直通用に振り替えられ、代わって行き止まりになっていた3・4番線が淀屋橋方面へ延ばされるが、ずっと一部の天満橋発着列車のみにしか使われていなかった3・4番線終端部の「壁」はとうとう撤去され、鋭意工事は進められた結果、平成20年3月21日、天満橋駅と工事区間はレールで繋がった。

中之島新線の建設が進んでいる天満橋駅付近 天満橋駅の壁が撤去された
工事中の頃の天満橋から先 開かずの壁がとうとう開いた

平成20年10月19日、京阪の新しい歴史の扉が開いた。中之島線の開業である。なにわ橋(新北浜から改称)、大江橋、渡辺橋、中之島(玉江橋から改称)が設けられ、地下空間とは思えない大胆な意匠は、これからの鉄道をイメージするものとしてふさわしいものと言えよう。中之島では国際会議場やリーガロイヤルホテルとも直結、中之島の新たな展開が期待されている。


たった1kmあまりの路線を市電に譲ったことが、ここまで長く尾を引くとは誰も思わなかったことでしょう。ただ、面白いことに中之島駅は淀屋橋駅同様、一つのホームを前後に分けて使っています。これも伝統なのでしょうか。

ところで大軌の申請した路線はどうなったのでしょう。実は意外な形でそれは存在するのです。

次はその路線についての話です。

【予告】夢の跡(前編)

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 2000年12月臨時増刊号 <特集>京阪電気鉄道 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2003年10月号 【特集】関西大手民鉄の列車ダイヤ 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 1999年陽春号 JR大阪環状線・桜島線特集 関西鉄道研究会
関西の鉄道 1999年爽秋号 京阪電気鉄道特集 PartV 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2003年新春号 近畿日本鉄道特集 PartX 関西鉄道研究会
鉄道未成線を歩く vol.1 京阪・南海編 とれいん工房

鉄道未成線を歩く vol.2 近鉄・紀伊山地編 とれいん工房

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