レイル・ストーリー10 Episodes of Japanese Railway

 四つ橋線の謎

大正15年3月29日、大阪市は都市計画法に基づき地下鉄4路線を計画した。全ての路線は昭和2年6月4日に特許を得て、順次着工の運びとなった。しかし開業は路線の番号どおりではなく、1号線(現在の御堂筋線)の次は3号線(現在の四つ橋線)だった。

もっとも2号線である谷町線は3号線よりも先に着工されていた。この時の計画は現在の谷町線関目高殿-天王寺間に該当するが、天神橋筋六丁目-東梅田間は中崎町経由ではなく、中津を経由するかつての阪神北大阪線の直下を走ることになっていた。
1号線と2号線はお互い梅田で連絡する想定で、1号線梅田駅の横には同じドーム天井の谷町線梅田駅建設が進められていた。しかしこちらは工事途中で二度事故が起こり、工事は中断のまま戦後を迎える。のち2号線の本格着工が決まった時には路線は中崎町から都島通をストレートに進むことになり、1号線梅田駅の南に東梅田駅を設ける変更が行われた。工事途中の2号線梅田駅は、後に御堂筋線梅田駅の拡張に転用されるまで「幻のトンネル」の異名をもつ空間として知られる存在になった。

一方3号線は計画当初、大国町-玉出間のたった3.7kmの短い路線だったが、戦前の着工時すでに人口が密集しており、さらに臨海部の工業地帯の発展も予想されるため、急ぎ建設が進められることになった。

3号線最初の区間、大国町-花園町が開業したのは昭和17年5月10日のことだった。路線の建設が決まっていた関係で、昭和13年4月21日の1号線難波-天王寺間の開業で既に営業していた大国町駅は、同一ホーム乗り換えを考慮した構造で、これは現在も生かされているのはご存知のとおり。しかも駅の南側での1・3号線の立体交差や鉄道省関西本線(現在のJR西日本大和路線)との交差部分など一部は既に出来ていた。
ただしそれ以降の3号線の工事は、既に日本は戦時国家と化していたこともあり鋼材の使用は制限され、駅部分を除くトンネルは無筋アーチ構造とするなど厳しい一面があったようだ。

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戦後の昭和31年6月1日、3号線の延長区間、花園町-岸里間が開業した。この区間のうち花園町から440mの区間は戦前に着工されていたが、戦争末期の工事とあってさらにセメントまでもが入手困難となり、トンネルは花崗岩を代用するという苦肉の策での建設だった。しかも線路の上を行く国道26号線が当時軍事上重要な道路であり、崩壊しては一大事と1号線天王寺-昭和町間を掘った土で埋め戻されていたという、曰くつきの区間だ。
戦後の工事再開にあたっては、コンクリートは現場練りではなくレディミクストコンクリート、通称生コンを使用するなどの工業化が見られている。なお阪神淡路大震災の後、これら無筋コンクリートや花崗岩代用の区間は改修が行われた。

ただし、岸里という駅名は当初予定されていたものではなかった。というのも、駅の場所は皿池町にあり駅名は「皿池」となるはずであったが、開業直前になって地元からの要望で今の「岸里」になった。確かに「血の池」を連想させるものがあるのは否めない…。
後に地下鉄の駅名は市電路線の継承と設置場所のプライドなどが重なって、1号線の西中島南方に始まる複合駅名を生むことになるが、この岸里だけは別格だったようだ。

昭和33年5月31日、続いて岸里-玉出間が開業。玉出駅には伝統の中階が復活するなど、「もはや戦後ではない」という世相を反映したものとなったが、工事途中で大雨に遭い、一旦水没してしまったという苦難を経ている区間でもある。
これで3号線は戦前の計画で予定していた玉出まで完成したが、計画では1号線と直通運転が行われるはずだった。1号線南方-我孫子間の運転を基本に、中津-天王寺と中津-玉出間を交互に、加えて大国町-玉出間を区間運転することになっていた。

ところがこの年の都市交通審議会の答申で3号線は大国町以北へ延長、1号線の混雑緩和を図るバイパス路線として緊急に整備されることになり、一転して北へ伸びることになった。工事は昭和38年5月12日に始まったが、もともと計画になかった路線のため、大国町駅の北側に1号線との立体交差を設け、四つ橋筋を北上するルートに決まったものの、結局3号線は一度も1号線と直通運転することはなかった。ただしこの延長が現在の「四つ橋線」の名の由来となったのは皮肉な話だ。

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3号線大国町-西梅田間は何本もの川を潜る必要に泣かされたが、工事は意外にも早く進み、昭和40年10月1日に開業している。市内中心部を貫通するのにたった2年余りというのは驚異的である。
しかしこの区間は今も線路や駅の数・場所は全く変わらないが、今とは違う駅が二つ存在した。

一つめは「信濃橋」駅。詳しくは前話で紹介したので割愛するが、現在御堂筋線・中央線との乗換駅である本町駅は、開業当初は別の駅名だった…というより、本来は信濃橋のほうが正しいのかもしれない。
もう一つは「難波元町」駅。これは現在の難波駅だ。3号線の大国町以北延長が決まったとき、1号線や南海の難波駅への乗り換えを便利にするにはなるべく既設の両駅に近づけたほうが良いと、大国町の先は現在のように四つ橋筋の下をストレートに伸ばすのではなく、現在のなんばパークス(当時は大阪球場)と南海難波駅の横から千日前通に交わる新川下水跡を進む予定だった。しかしこの場所は阪神高速1号環状線のルートとなることが決まり、結局3号線難波元町駅は1号線難波駅とは別の独立した駅として開業した。

ただし、この難波元町駅は難波…というよりむしろ湊町に位置しており、国鉄関西本線湊町駅(現在のJR西日本大和路線JR難波駅)との乗換駅という位置づけだった。のち千日前線桜川-谷町九丁目間が開業した昭和45年3月11日、千日前線・御堂筋線難波駅と構内連絡することになり「難波」に統一されている。
しかも難波元町という駅名も当初の予定ではなかったのか、事実3号線大国町-西梅田間の開業に備えて製造された電車には、正面の行先表示に「西なんば」が含まれていた。この駅は「西難波」となるはずだったのかも…。そして万博を前に、3号線は他の路線同様四つ橋線に名を改めた。

余談だが、御堂筋線には「なんば」「あびこ」「なかもず」という3つの平仮名の駅があるが、正式には漢字表記なのだそうだ。確かに難読駅名でありイメージ的にもそのほうが柔らかいと思われるが、谷町線の野江内代(のえうちんだい)や千日前線の南巽(みなみたつみ)などは今でも難読かつ漢字のままである。ともかく「西なんば」は、その仲間入りすら果たせなかった。

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ところが危うく改名を逃れた駅もある。平成8年12月11日に長堀鶴見緑地線京橋-心斎橋間が開業、心斎橋駅は御堂筋線との接続が成ったものの、少し離れた四つ橋線四ツ橋駅とも構内で連絡した。
そうなると本町駅同様、同じ「心斎橋」で統一されるのが筋というものだが、四つ橋線の名の由来である四ツ橋駅が既に開業30年以上を経て市民に浸透しており、今更存在を失うというのもどうかという話で名前が残されることになった。もっとも本町駅同様、駅同士はかなり離れているため連絡通路には動く歩道が設けられた。同じ大阪でも阪急梅田駅のムービングウォークが日本初だったのに対し、地下鉄に採用されるのがこんなに遅れるとは誰も思わなかっただろう。もっと早くに採用されていれば、本町駅のあの長い通路も苦にならなかったかも…。御堂筋線最初の開業時にはエスカレーターまであったのに。

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続いて四つ橋線は南へと延びる。昭和47年11月9日に玉出-住之江公園間が開業したが、実はこの区間は戦後の昭和23年6月の路線改訂で既に延長が決まっていた。ルートは玉出まで国道26号線の下だったが、その先は西寄りの新なにわ筋へと移り、住之江公園駅へ達している。駅には隣接して有名な競艇場があるが、コースからの漏水があるということで、駅はその対策が施されているという。
これで四つ橋線は現在の開業区間である西梅田-住之江公園間が出来上がったが、驚くことに実はまだ全線開業してはいないのである。

その昭和23年の計画では、四つ橋線は住之江公園よりさらに先、堺市の大浜まで伸びるものとされた。玉出から南の区間は市電阪堺線の代替として計画されたものだが、この市電阪堺線は現在の阪堺電気軌道の阪堺線とは全く別の路線で、しかも元は私鉄路線、市電となってからは三宝線とも呼ばれていた。
路線は昭和2年10月1日、芦原橋-三宝車庫前間が阪堺電鉄により開業、部分開業を続けて昭和10年6月1日には浜寺まで全通をみた。当時の浜寺付近は海水浴場で夏場は大いに賑わったが、のち大阪港から続く工業地帯が急速に発展を遂げて地下鉄3号線が玉出まで建設されるきっかけともなっている。
結局戦時中の昭和19年4月1日に陸上交通調整法も手伝って阪堺電鉄は大阪市に買収されてしまう。同時に「贅沢は敵」で利用客が減少した湊ノ浜-浜寺間が廃止されたが、直後には空襲を受けてしまい、末端の大浜北町-湊ノ浜間が不通になった。戦後の昭和22年7月に出島まで復旧し、以後昭和43年9月30日の芦原橋-出島間廃止まで新なにわ筋を市電が走り続けていた。津守にある立体交差は、かつての市電阪堺線の名残だ。

元大阪市電2600形の広島電鉄900形
今も広島で走っている元大阪市電2600形

四つ橋線は市電阪堺線の北加賀屋から南の部分を継承する形となり現在は住之江公園まで開業に至っているが、将来堺市が高速鉄道を計画した場合に備え大浜三丁目までの路線特許を現在も保有している。その暁には住之江公園から新なにわ筋を南下、かつての市電三宝車庫(現在は昭和アルミニウムの工場)を過ぎて再び国道26号線に合流、大浜三丁目へ至ることになっている。

現在御堂筋線は堺市の中百舌鳥まで延びている。もしかして四つ橋線も同様に大和川を越えて堺市へ延びることになるのだろうか。それともOTS線のように第三セクターの手によるのだろうか…。


今は地下鉄の駅で携帯電話が使えるよう整備されていますが、大阪では四つ橋線西梅田駅が最初でした。そして四つ橋線はなお多くの話題を抱えたまま走り続けます。

次は大阪の地下鉄が守った先進装備の話です。

【予告】垣根の曲がり角

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 2004年3月臨時増刊号 【特集】大阪市交通局 鉄道図書刊行会
RM LIBRALY 56 万博前夜の大阪市営地下鉄 -御堂筋線の鋼製車たち- ネコ・パブリッシング
関西の鉄道 2001初冬号 大阪市交通局 PartV 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2003初夏号 大阪市交通局 PartW 関西鉄道研究会
大阪の地下鉄 創業時から現在までの全車両・全路線を詳細解説 産調出版

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