レイル・ストーリー10 Episodes of Japanese Railway

 新大阪駅の謎

昭和39年10月1日、「夢の新幹線」と謡われた東海道新幹線が開業した。大阪のターミナル駅である新大阪駅は大阪駅併設とならなかったが、これは戦前の弾丸列車計画を生かしたためだった。しかし新大阪駅に最初に名乗りを挙げたのは国鉄(現在のJR)ではなく地下鉄だった。

●  ●  ●

地下鉄1号線(現在の御堂筋線)梅田-新大阪間が開業したのは昭和39年9月24日のことで、何と新幹線よりも7日早かったのだ。

この区間は中津までは地下を走ってくるが、その先は600m近くの坂を一気に上って高架線となり、途中で新淀川を渡る。ただしこの橋は既に昭和10年に地下鉄と道路の併用橋として既に着工されており、昭和14年に戦争の影響で工事は中断されたが一部は出来上がっていた。現在の橋は当時の計画構造とは変わってはいるが、既に出来ていた橋台や橋脚などを補強・嵩上げして現在も使用しているという。

そして地下鉄1号線新大阪駅建設が決まったのは実に戦時中の話で、昭和18年1月21日の事だった。新幹線の先駆ともいうべき、あの「弾丸列車計画」の駅が今の新大阪駅の近く(東淀川駅付近)に作られることになったのを受けたものだったが、現在の地下鉄御堂筋線新大阪駅の建設が決まったのがこんな早い時期だったとは驚きだ。

地下鉄の新大阪駅は新幹線ホームの西寄りの一つ下の階に直交する形で作られたが、当時用地買収が進まず現在の駅の南半分での暫定開業だった。それもホームの長さが足りず、西中島南方寄りに仮設の板張りホームを繋げていた。最新の技術を誇る新幹線の真下に、まさかの板張りホームとは情けない話だが、駅の北半分が予定通り出来上がるのは昭和45年2月24日の新大阪-江坂間の開業時、つまり大阪万博直前まで待たなければならなかった。
ただし、新たな大阪の「顔」としての新大阪駅の誕生とあって、戦前に地下鉄各駅から撤去されていたエスカレーターが、この駅から復活したという。今は線路の両脇に新御堂筋が走っているが、1号線の新大阪開業時にはまだ出来てもおらず、車窓は全く違っていた。

地下鉄御堂筋線新大阪駅の西中島南方寄り
地下鉄御堂筋線新大阪駅は、西中島南方寄りに板張りで延びていた

完全な形ではなかったものの地下鉄駅が開業し、7日後にはめでたく新幹線を迎え本格開業した新大阪駅ではあったが、ずっと後に妙な事態を巻き起こすことになる…。

●  ●  ●

昭和62年4月1日、国鉄は民営化によりJR各社に分割されたが、東海道新幹線は全線が一括してJR東海に所属することになった。いっぽう山陽新幹線と関西のJR在来線はもちろんJR西日本。新大阪駅はどうなるのかと思ったら、新幹線の駅部分はJR東海、他の在来線部分はJR西日本と、駅まで分割されることになった。

そうなるとJRの新大阪駅が二つ存在することになる。結果的に駅長も二人存在することになり、JR西日本の駅長室は3階にある国鉄時代からの部屋が引き継き使用されているが、JR東海の駅長室を探すとちゃんと3階新幹線中央コンコースの乗換口の隣に設けられている。これは元の中央案内所を改装したものだ。このような「ダブル駅長」は新大阪駅だけでなく、京都駅やJR東日本のエリア内の東京駅などでも同様である。

新大阪駅新幹線ホームの駅名標はJR東海仕様 新大阪駅JR西日本の駅長室 新大阪駅JR東海の駅長室
新幹線ホームはJR東海仕様の駅名標 JR西日本の駅長室は国鉄時代から こちらはJR東海の駅長室

しかしこれ以外にも面白いのが新大阪駅の切符売り場だ。
3階中央コンコースには「中央きっぷうりば」(みどりの窓口)があるが、この中も手前側がJR東海、奥がJR西日本と窓口まで分かれている。切符を発売出来るテリトリーも分けられているのか、JR東海は東海道新幹線と自社エリアとJR東日本・北海道、JR西日本は山陽新幹線と自社エリアとJR九州・四国とされている。本来両社ともJR全社の切符を発売出来るのだが、この窓口は両社が混在しているため、くっきり線引きされている。

中央きっぷうりばとJR東海窓口 こちらはJR西日本窓口
中央きっぷうりばとJR東海の窓口(オレンジ) 奥にはJR西日本の窓口(ブルー)

この「中央きっぷうりば」は、国鉄時代は当然一つだった。分割民営化が招いた皮肉な結果と言えよう。またJR東海の旅行代理店「JR東海ツアーズ」が3階(元の中央精算所)に、JR西日本の旅行代理店「Tis」が2階に、これまた別々に存在する。

こうして新大阪駅は現在のスタイルとなっているが、この駅への進出を果たせなかった会社があった。それは阪急だった。

●  ●  ●

阪急は昭和30年代以降の大幅な乗客の伸びに頭を悩ませていた。特に神戸線・宝塚線・京都線が集まる大阪キタの中心、梅田への一極集中は混雑に拍車を掛けていた。そこで新幹線がやってくる新大阪駅に進出すれば、梅田駅の混雑を緩和出来て大阪方面へ向かう乗客を分散出来ること、阪急沿線からの新幹線接続という新たな機能を見出せること、また神戸線と京都線をスルーで接続して直通運転も可能になることから、昭和36年に淡路-新大阪-十三間と新大阪-神崎川間の「新大阪連絡線」の路線免許を取得した。

ところがこの新路線は一部用地の取得などが行われただけで、全く実現には至っていない。

当時阪急は梅田駅の移転拡張を優先して行っていた。また京都線・千里線と地下鉄堺筋線との直通運転も目前に迫り、万博輸送のため北大阪急行(北急)にも参画したこともあって、とても新路線の建設など出来る状況ではなかったのだろう。
万博が終わり、高度経済成長も一段落したところにやってきたのがオイルショックだった。阪急梅田駅の混雑は地下鉄堺筋線との直通運転開始も手伝って駅の改良が終わった時点でピークを越え、なにより梅田駅を中心にした阪急ブランドの展開は、逆に梅田への集中が集客の手助けになることは明らかだった。
ただし平成元年の運輸政策審議会第10号答申では、京都線の混雑緩和のために平成17年までに整備されるべき…と、この時点ではまだ建設への可能性を残していた。

平成7年1月17日に発生した阪神大震災はJR西日本の驚異的な復旧をみたが、これをきっかけに同社はアーバンネットワークを構築、新車の大量投入と地上設備の良さを生かし新快速をスピードアップして増発また増発、すっかり関西都市圏輸送のイニシアチブを獲得した。それに近年の少子化や不景気も手伝って、今や阪急の乗客は減少傾向に…。新大阪連絡線は建設の意義がすっかり薄れてしまった。

結局阪急は平成14年12月、国土交通省に対し新大阪連絡線の淡路-新大阪間と新大阪-神崎川間の事業廃止を申請、翌平成15年3月1日をもって正式に廃止が決まった。
これで京都線と神戸線の新たな連絡は出来なくなったが、昭和26年に行われた京都線と神戸線・宝塚線の特急の直通運転はさしたる効果もないまま1年足らずで姿を消しており、阪急線内での需要はもともと少なかったようだ。今ではJR西日本の新快速に到底太刀打ち出来るものではないと考えるのが妥当だろう。
なお新大阪-十三間については廃止を申請せず、今も建設に含みを持たせてはいるものの、これとてどうなるかは判らない。

●  ●  ●

阪急「新大阪連絡線」だが、その名残は新大阪駅周辺に見ることが出来る。

東海道新幹線の京都方には高架線の一部の構造が違っており、その下は空地となっているところがある。これは淡路から線路が延びてくるはずだった場所だ。また新大阪駅の在来線ホーム(新幹線の北側)には、阪急の高架線を支えるためにつくられた橋脚が今も残っている。
阪急新大阪駅は新幹線と同レベルの3階が予定されていた。駅は新幹線と並んで出来るはずだったが、ここも空地のままだ。
さらに西側は地下鉄御堂筋線の上を行くことになっていたが、地下鉄の新大阪駅は阪急の高架線が載ることを想定してつくられており、駅の屋根には阪急の駅の断面がそのまま(ホーム部分が一段高い)となっているのを今も伺うことが出来る。

淡路から線路が延びてくるはずだった ホントはこの上に阪急の線路が 阪急新大阪駅は空地のまま 地下鉄御堂筋線には幻のホームが
新幹線高架との立体交差 在来線ホームに残る橋脚 阪急新大阪駅「予定地」 地下鉄との交差部分

もし、阪急「新大阪連絡線」が東海道新幹線開業と同時に開業出来ていたとしたら、今のJR西日本と阪急など私鉄各線の勢力地図は大きく変わっていたかもしれない。それ以上に万博に間に合っていたなら、阪急が断ったという新大阪から会場までの路線が完成して、逆に地下鉄御堂筋線の江坂延長や北急との直通運転は実現しなかったのかも…。


多くのビジネスマンが行きかう新大阪駅は、交通の要所として今や欠かせない大きな存在ですが、その影にはこのような「謎」が今でも存在するのです。いや、まだまだ謎が隠れているのかもしれませんよ。

大阪からの話題はひとまず終えて、次はボクの地元、北陸からの話題に移ります。

【予告】尾鉄は今

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 2004年3月臨時増刊号 【特集】大阪市交通局 鉄道図書刊行会
RM LIBRALY 56 万博前夜の大阪市営地下鉄 -御堂筋線の鋼製車たち- ネコ・パブリッシング
関西の鉄道 2001初冬号 大阪市交通局 PartV 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2003初夏号 大阪市交通局 PartW 関西鉄道研究会
大阪の地下鉄 創業時から現在までの全車両・全路線を詳細解説 産調出版

このサイトからの文章・写真等内容の無断転載は固くお断りいたします

トップに戻る