レイル・ストーリー10 Episodes of Japanese Railway

 消えた工場(後編)

大阪を南北に貫く大動脈は御堂筋線だが、東西を貫き、現在は近鉄東大阪線との直通運転で奈良県にまで及ぶ中央線もまた、大きな存在である。

現在の地下鉄中央線こと地下鉄4号線(以下4号線)が計画されたのは1号線(現在の御堂筋線)と同じ大正15年3月29日のことだった。路線は大阪港から長堀通へ進み平野に向かうもので、ちょうど途中から今の長堀鶴見緑地線の形で市内を貫通する形になっていたが、戦後の昭和23年6月18日には再び計画が練り直され東側の終点を放出に変更、大阪を東西に貫く地下鉄は2路線必要ということで5号線(現在の千日前線)を追加、ほぼ現在の形となる。
その5路線には既に営業を行っていた1号線や3号線(現在の四つ橋線)の一部区間も含まれていたが、4号線は昭和34年2月23日に路線特許を取得、さっそく建設が進められることになった。

ちなみに大阪市の場合、最初から地下鉄建設は道路建設と同時に行われる都市計画として進められたため、関連省庁も増えてしまった結果、法規的には路線は地方鉄道ではなく道路敷内を走る鉄道、つまり軌道という扱いになっている。そのため路線は免許ではなく「特許」となっている。

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地下鉄4号線は、まず大阪港-弁天町間から着工された。この区間は当初他の路線と同じく地下式とする予定だったが、大阪港の臨海地帯であり、台風などひとたび水害が起こった場合大きな被害が予想されることと、もともと地盤沈下も見られたとあって地下鉄にありながら道路建設と同時に高架線で建設されることになったのである。
だがこの区間の着工は、大阪市電の初の部分廃止に繋がった。昭和35年7月31日、港車庫前-大阪港-天保山桟橋-三条通4丁目間が廃止となり、ここを通る市電の4つの系統は港車庫前折り返しとなった。以降市電は地下鉄建設と引き換えに路線を縮小していくことになる。

4号線は大阪港-弁天町間のうち朝潮橋駅の手前まではみなと通上の市電を撤去した跡に建設されたが、ここでやや北に折れて弁天町までは新設される中央大通りの上を走ることになった。ちなみに戦前の計画ではみなと通をそのまま東へ進む予定だった。
弁天町では高架線で建設中の国鉄(現JR西日本)大阪環状線と立体交差するため、地下鉄弁天町駅はさらに上の地上13.7mという高い場所につくられた。ちなみに交差部分の橋脚は共用となっている。
また弁天町では同じく交差する国道43号線にも将来高架道路を建設する予定があったため、この部分にも道路用の基礎が地下鉄建設時に同時に建設されていた。その道路は後に実現し、現在の阪神高速17号西大阪線となっている。

昭和36年12月11日、4号線大阪港-弁天町間は開業した。これに備え新車6000形が搬入されたがこの区間は全線高架とあって「目立つように」と、それまで戦後の地下鉄はベージュとオレンジの塗装だったものが、オレンジとグレーを基調に白の帯を締めるという大胆なものとなった。ただし当時は輸送量は僅かでたった1両での運転だったため、こうして地下鉄をアピールする必要があったのかも…。
また当時全線20円の均一料金制を採っていた大阪市だったが、この区間は短いため他の路線と同額はとても頂けない…と、15円の特例措置だったとか。

電車の搬入は当時日本に2台しかなかった50tレッカー車を用い、電車を吊って高架線へ降ろすという大掛かりなものだったが、現在中央線の上を走る阪神高速16号大阪港線はまだ建設すらされておらず、その下の中央大通りもまだ建設途中、作業は関係者とやじ馬の約200人が見守る中で行われた。無事に電車が高架線に降ろされると、拍手が沸き起こったと言われている。

地下鉄中央線の上は阪神高速
地下鉄中央線の上を跨ぐ阪神高速大阪港線

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この4号線最初の区間に必要な工場は、朝潮橋駅の隣につくられた港検車場だった。この工場は路線同様に高架式となり、しかも市電の港車庫と同居する格好となったが、面白いことに当初工場内で必要な電気は市電港車庫から拝借したもので、本来大阪の地下鉄(堺筋線以外)は直流750Vだが、工場内だけ600Vの市電の電気を送っていたという。若干電圧が足りないようだが、これで凌いでいたらしい。

続いて4号線は弁天町-本町間が昭和39年10月31日に開業した。本来この区間も特許では全線高架で建設される予定だったが、都心部はやはり地下式とすることになり、阿波座駅の手前で地下に潜る形に変わった。
ところがこの区間の建設途中で阪神高速16号大阪港線の建設が決定、地下に変更された阿波座駅の上には道路を載せることは出来なくなり、駅そのものを16m東にずらすはめになった。また本町駅は予定地の立ち退きが遅れるため、暫定的に少し手前に仮設駅をつくることになった。

この開業と前後するが、昭和38年の都市交通審議会第7号答申で地下鉄4号線は東側の終点を石切とすることになり、続いて昭和41年には当初計画にあった深江橋-放出間を削除、さらには昭和46年の都市交通審議会第13号答申で石切から生駒へ延長することが決まった。つまり現在の近鉄東大阪線との直通運転は、こんな早い時期に約束されていたのだ。

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地下鉄港検車場は、昭和44年4月16日に野田阪神-桜川間で開業した5号線(現在の千日前線)の電車の保守も受け持つことになり、港検車区と改称した。しかしこの年の12月6日に4号線改め中央線は本町-谷町四丁目間の開通をもって大阪港-深江橋間が繋がり、森之宮車両工場が本格オープンして役目を終えることになった。ちなみにこの工場も港検車区同様もとは市電の「路面車両工場」で、市電路線の縮小と共に敷地を少しずつ地下鉄に譲っていたものだった。
ただし港検車区は森之宮車両工場の塗装部門として存続することになり昭和52年5月まで機能していたが、森之宮車両工場に塗装場が出来て廃止された。

現在港検査区跡は、大阪市の住宅と市バスの朝潮橋ターミナルとなっている。当時を偲ぶものは殆ど残っていないが、唯一中央線の高架には、朝潮橋駅の大阪港寄りに検車場への引込み線が分岐していた跡が残っている。

朝潮橋駅に進入する中央線24系 港検車区への分岐部跡 現在は高層住宅とバスターミナル
朝潮橋駅の大阪港方 分岐部の跡 現在は高層住宅とバスターミナルに

「高速車両工場」は地下鉄の戦後を支えた存在だったが、この港検車場(区)は地下鉄の高度経済成長期を支えた存在だったと言えよう。どちらも現在は姿を見られないが、この二つの工場が大阪の地下鉄を語る上で欠かせないものであることは事実である。


地下鉄中央線は西側からと東側から路線が建設されて結ばれたものですが、何故そのような形になったのか…というのは、ちゃんと理由があるのです。でもそれはちょっと複雑な経緯があったようです。

次はその経緯についての話です。

【予告】本町駅の謎

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 2004年3月臨時増刊号 【特集】大阪市交通局 鉄道図書刊行会
RM LIBRALY 56 万博前夜の大阪市営地下鉄 -御堂筋線の鋼製車たち- ネコ・パブリッシング
関西の鉄道 2001初冬号 大阪市交通局 PartV 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2003初夏号 大阪市交通局 PartW 関西鉄道研究会
大阪の地下鉄 創業時から現在までの全車両・全路線を詳細解説 産調出版

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