レイル・ストーリー10 Episodes of Japanese Railway

 尾鉄は今

北陸本線小松駅から山あいの町、尾小屋までを結んでいた尾小屋鉄道(以下尾鉄)。昭和52年3月に廃止されたが、その存在を知る人は今も多い。レールの幅は762mmと狭い軽便鉄道で、最期まで電化されず小さなディーゼルカーがのんびり走る姿はファンのみならず、かつてこの鉄道を利用した人々にとっても郷愁を誘うものであるのは確かだ。
尾鉄は廃止後多くの文献などで紹介されているが、ここでは現在の姿を含めた視点でまとめてみよう。

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尾小屋鉄道路線図尾小屋まで鉄道が敷かれたのはここに鉱山があったからだ。尾小屋鉱山は銅山だったことは知られているが、採掘が始まったのは江戸時代の天和2年(1682年)に遡り、しかも当時は金山だった。ただし肝心の採掘量は僅かで江戸時代末期には殆ど閉山状態だったと言われている。
明治維新後、旧加賀藩の家老、横山隆平により尾小屋鉱山の採掘が再開された。今度は銅鉱脈が発見され、明治19年にはかなり有力な新鉱脈が見つかり、尾小屋鉱山は活況を呈することになる。生産量はたちまち増大していったが、問題は銅の輸送だった。
当初は人力や馬車などで事足りてはいたものの能率は上がらず、トラック輸送などは考えられなかった当時、鉄道による輸送が望まれたのは当然のことだった。大正6年6月22日に尾小屋から北陸線の小松駅に隣接する新小松までの軽便鉄道が着工され、大正8年11月26日に当時の鉱山長、正田順太郎の個人名義ながら尾小屋-五国寺(後の西大野)間が部分開業、翌年5月10日に全線開業した。また同年6月11日(4日という説もあり)には路線の権利を譲渡、合資会社横山鉱業部鉄道となった。

大正年間には5,000人もの人口を擁した尾小屋だったが、やがて昭和不況がやってきて横山鉱業の経営は悪化、鉱山は日本鉱業に身売りしてしまい、鉄道は同社系列の「尾小屋鉄道」として昭和4年7月2日再スタートした。

尾鉄は開業当初こそ蒸気機関車が全ての列車を牽いていたが、やがて旅客列車にはガソリンカーやディーゼルカーが進出、尾鉄は鉱山鉄道として、また地元住民の足として欠かせない存在となり、鉱山も一時期は日本最大の生産量を誇ったという。
ところが戦後になり道路事情が良くなったこともあって銅の輸送は昭和30年にトラック化、尾鉄の貨物列車は途中の観音下(かながそ)で取れる石材の輸送などはあったものの大幅に減少してしまう。肝心の鉱山も徐々に生産量が低下、採算悪化により日本鉱業は昭和37年に尾小屋から撤退してしまった。銅の採掘は北陸鉱業を設立して引き継いだが、精錬部門は閉鎖され、尾鉄は名古屋鉄道の系列下に置かれた。
鉱脈が枯渇していく中、鉱山の廃水を流していた梯川(かけはしがわ)流域では精錬によるカドミウム汚染も発覚、結局尾小屋鉱山は昭和46年12月30日をもって閉山した。

尾鉄は日本鉱業の撤退により尾小屋が過疎化、沿線の人口も希薄とあって乗客は大幅に減り、閉山後は運転本数が段々減っていく。一旦はボーリング場やドライブイン経営も手がけてはみたもののボーリングブームは去り、北陸自動車道の開通でドライブインのあった国道からトラックは減って、どちらも撤退の道を歩んだ。
結局尾鉄は廃止の運命を辿ることになり、昭和52年3月19日、その年の豪雪のため尾小屋-倉谷口間が不通のまま最期の日を迎えた。

遊園地前付近を行くキハ2 塩原付近を行くキハ3 尾鉄廃止記念乗車券
最終日のキハ2(遊園地前付近にて) 同じくキハ3(塩原にて) 廃止記念乗車券

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廃止後四半世紀以上経つものの、尾鉄のディーゼルカーや機関車・客車たち、それに線路跡などの遺構は奇跡的に今も残っている。

小松市の所有となった蒸気機関車のNo.5(C155)と客車のハフ1(ホハフ2)、ディーゼルカーのキハ3は尾小屋駅にそのまま残っていた。年々保存状態が悪くなっていき心配されていたが、最近駅の少し上に「ポッポ汽車展示館」が完成、綺麗に整備され蘇った。キハ3は年に数回エンジンが掛けられ、短い区間ではあるが自走も行われている。ちなみにNo.5は尾鉄での現役引退後、蒸気機関車ブームにより三重県の長島温泉で出張運転したという経歴を持っている。

現在のNo.5(C155) 現在のキハ3
現在のNo.5(C155) 現在のキハ3

尾小屋駅は駅舎こそ撤去され構内も大部分が空地となっているが、かつてのホームはそのままで一部の線路も残っている。まるで時が止まったかのような印象だ。奥にあった車庫は少し手が加えられ、中には赤門軽便鉄道保存会が所有するキハ2とホハフ7が納められているが、個人所有となったディーゼル機関車のDC122には上屋がなく、ポツンと朽ち果てた姿を晒している。

尾小屋駅跡 今も残る線路 DC122
現在の尾小屋駅跡 ホームと線路は残っている 朽ち果てたDC122

長原-観音下間に二つあったトンネルは軌道敷と共にそのまま残っているが、観音下-塩原間は最近道路に整備されている。また大杉谷口-金野町間にあった梯川橋梁は朽ちてはいるものの当時の様子を残している。

現在の梯川橋梁 かつての梯川橋梁
残っていた梯川橋梁 廃止当日の梯川橋梁

その他、西大野、沢、観音下など一部の駅はホームが残っている。
西大野-新小松間は殆ど遺構は残っておらず、新小松駅の跡地は尾鉄改め小松バスの車庫となっていたが、JR小松駅高架化による線路移転用地となった関係で、油の染み込んだ土と古い社屋、その隅から小さな列車が発着していた尾鉄新小松駅は過去のものとなった。

また同じ小松市の粟津公園内にある石川県立小松児童会館「なかよし鉄道」では、昭和59年8月1日から尾鉄のキハ1、DC121、ホハフ3、ホハフ8が運転されている。これら4両は廃止後江沼郡山中町の「山中県民の森」で保存されていたが、上屋もなく積雪の多い場所では痛みが早く、小松児童会館に移ったものである。ここでは150mと短いながらも立派な線路が敷かれ、冬季を除いて週末を中心に運転が始まった。好評によりのちに線路は廃止になった北陸鉄道金名線などのレールを用いて延長された。
このなかよし鉄道は実質的には動態保存とも言えるが、キハ1、DC121共にエンジンは換装され、キハ1はトルコン化されている。またキハ1の車体は腐食のため屋根の端が原形とは異なっている。

尾鉄廃止当日のキハ1 なかよし鉄道の路線図 なかよし鉄道「児童会館駅」と車庫
尾鉄廃止当日のキハ1 なかよし鉄道線 路線図 児童会館前「駅」と車庫

なかよし鉄道では年に数回「なつかしの尾小屋鉄道を守る会」によるイベントが行われているが、平成16年8月には関係機関の協力を得て尾小屋に保管されているキハ2が運ばれ、久しぶりの自走が実現したという。キハ2は現在再び尾小屋の車庫で静かに眠りについているが、またの機会に期待したいところだ。

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現在のなかよし鉄道は児童会館前-なかよしの森間473mだが、児童会館前の「駅舎」にはちゃんと路線図が掲げられており、それにはJR北陸本線の粟津駅との間に「JR線徒歩のりかえ」と書かれている。これはこの鉄道が単なる遊具ではなく、れっきとした鉄道だ…という誇りの表れであり、同時に尾鉄は今でも生きているという証と言えるだろう。また廃止時に在籍したディーゼルカーたちが現在も全て残っていることは、尾鉄が如何に人々に愛されていたかという事実に他ならない。

そして尾鉄は、記憶の中に走り続ける。

今も残る小さな鉄橋
今も倉谷口-長原間に残る小さな鉄橋

モータリゼーション以降、地方の私鉄は多くが姿を消しましたが、以前紹介した北陸鉄道金名線跡では、最近になり動きがありました。それは鉄道が復活したのではなく、別のものが形を変えたのでした。

次はその動きについての話です。そして最終話となります。

【予告】蘇る橋

―参考文献―

鉄道ファン 1973年10月号 尾小屋鉄道近況 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2001年5月臨時増刊号 【特集】北陸地方のローカル私鉄
JTBキャンブックス 私鉄廃線25年 36社51線600kmの現役時代と廃線跡を訪ねて JTB

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