日本にやってきたオリエント急行


1988年9月7日9時35分、史上最長距離を走る列車がパリ・リヨン駅を発車した。その列車の行先は東京。18,000kmもの距離を走って東洋の端まで行ってしまおうという本当のオリエント急行である。

駅のソラリーボードには”PARIS-TOKYO ORIENT EXPRESS”と表示され、復元成った230G型蒸気機関車に牽かれたワゴン・リの青きプリマドンナ達はひたすら東を目指した…


  ★オリエント急行の廃止と復活

1977年、トーマス・クック時刻表にはこんな記述があった。

From May 22,1977,it is no longer able to travel without change of train from Paris to Istanbul

これは94年間のオリエント急行の歴史に幕を閉じるものとして世界各国に伝えられた。その列車とは「ダイレクト・オリエント」という、パリとイスタンブールを結ぶ本来の意義は持つものの、かつての栄光はすでになくただの直通列車にしか過ぎなかった。それどころかこの列車はイスタンブール行きではなくベオグラード止まり。そこから先はミュンヘンからの「タウエルン・オリエント急行」と連結しアテネへ行く「アテネ急行」とイスタンブール行きの「マルマラ急行」に分割される。名を変えた列車は座席車3両と寝台車1両でイスタンブールを目指していた。しかも寝台車の連結は火曜、木曜の週2回だけという凋落したものだった。

この直通列車の廃止が、オリエント急行の廃止として伝えられた。

しかし…「オリエント急行」という言葉の持つ豪華な列車の旅に憧れを抱く旅行ファンは多く、その5年後ベニス・シンプロン・オリエント急行とノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行が復活。ただしこれらはどちらも観光用のチャーター列車で、本来のオリエント急行ではないコトを断っておく。

  ★オリエント急行って…

オリエント急行といえば…豪華絢爛な列車というイメージが強いはず。確かに戦前はヨーロッパ各国を結ぶ列車の旅はそりゃ豪華なものだったらしい。

アメリカでプルマン寝台車に感銘を受けたベルギー生まれのジョルジュ・ナゲルマケールスはヨーロッパにもそのようなサービスをというコトで国際寝台車会社(ワゴン・リ社)を設立する。豪華な料理、スチュワードは至れり尽せり、フカフカのベッドなどのサービスは直ぐに各国の王侯貴族に受け入れられ、19世紀終わり頃にはパリとコンスタンチノープルを結ぶ国際列車が走り出す。これがORIENT EXPRESSと命名されたのが始まり。

20世紀に入り、車両は木造から鋼鉄製になり安全性も向上しスピードアップも実現。本数、経路も増え、アール・ヌーボーを取り入れたデザインのオリエント急行は隆盛を極める。「全ての寝台車はコンスタンチノープルへ」が合言葉だった。この頃が今「オリエント急行」が持つイメージなのだろう。

しかしオリエント急行は戦争と共に衰退し始める。戦後は一般車を混結するようになりすっかり大衆化。しかも航空機の台頭によってわざわざ長距離の移動を列車で(3日間)…という必要もなくなり、凋落の一途を辿るようになってしまった。ワゴン・リ社はヨーロッパ主要都市を一泊で結ぶ国際夜行列車に自社の寝台車を連結してもらい、他の車両よりもグレードアップしてますよというサービスに終始するようになり、古い寝台車や食堂車はオークションに放出していた。とうとう1971年6月にはワゴン・リ社は寝台車経営から脱退(サービス部門は継続)、代わってヨーロッパ各国による「寝台車プール」という機構が作られるが、あまりに赤字のひどいダイレクト・オリエントの寝台車は真っ先に槍玉に挙げられ、列車ごと廃止されてしまったのである。

それで、ダイレクト・オリエントの廃止でオリエント急行は終わってしまったのか…というと、実はそれを名乗る列車は健在。実はパリ東駅とブカレストを結ぶ列車が「オリエント急行」を名乗っている。

  ★VSOEとNOE

ダイレクト・オリエントの廃止は、逆にかつての栄光を復活させようという機運に変わった。アメリカの海運会社、シーコンテナーズの会長シャーウッド氏は古いワゴン・リをオークションでことごとく落札し、ロンドン/ドーバー/ブローニュの間はかつてのフレッシュドールの復活というスタイル、ブローニュから先はワゴン・リだけどあまり長旅も…ということでシンプロントンネル経由でベニスまでの一夜の旅にした名づけてベニス・シンプロン・オリエント急行(略してVSOE)を走らせる。

同じ頃、スイスの小さな旅行会社、イントラフルークを率いるグラッド氏も同様に古いワゴン・リを集めていた。そしてかつてのオリエント急行の再来を期するべく、パリ(最初はチューリヒ)−イスタンブール間に不定期ながらもかつてのスタイルで復活させた。これはノスタルジー・オリエント急行(略してNOE。のちイスタンブールを名称に加え、NIOE)という。

VSOEのほうは「華やかりし頃を再現」しすぎた感があり、車体に書かれた文字は金属製のピカピカ。今使われている鋼製寝台車は現役当時から黄色のペイント文字だったので、ちょっと行きすぎ。車内の装飾もちと過剰らしい。

これに比べNOEの方は現役当時をガンコに守っており各車晩年のまま使用されていて好感が持てる。

  ★いよいよ来日実現??

オリエント急行を日本で走らせて見たい!という計画は1982年7月、フジテレビがVSOEとNOEを取材し、放送した特番「夢のオリエント急行 ロンドン〜イスタンブール華麗なる3,500kmの旅」というのが発端。この番組のパーティーの時に製作したフジテレビの沼田篤良氏と、来賓の当時国鉄の山之内秀一郎氏が知り合ったのがきっかけだったようだ。その後両氏は交流を続けるがその2年後、とうとう沼田氏が抱いてきた「開局30周年記念事業としてオリエント急行を日本で走らせてみたい」という希望を山之内氏に伝え、国鉄はJRに変わりつつあったものの前向きな検討が始まった。

日本まで走らせるオリエント急行は当初VSOEとの交渉が行われたが、契約成立直前に事情が変わり、急遽NIOEとの契約となって実現の運びとなった。通過国との折衝、3種類のレールの幅の克服、なにより日本国内に本当にオリエント急行が来るという驚きと戸惑いはあったが、詳しくは「来日秘話」にて。

そして全ての問題は解決し、オリエント急行は日本へ向けて走ることがめでたく決まった。

パリを発車した東京行きオリエント急行は途中各国鉄道の好意で、フランスでは230G型、東ドイツでは名機01重連、ポーランドではPt47とTy51の重連、ソビエトではP36型、中国では前進型と代表的蒸気機関車にエスコートされた。ただ、願わくば旧満鉄のパシナ(中国国鉄での型式はSL751)に牽かせてやりたかった。

レールの幅はヨーロッパと中国は1,435mmだけどソビエトは1,524mmと異なるため国境のブレストでソビエト国内用の台車に履き替え、シベリアを走破して再びザバイカルスクでヨーロッパ・中国用に戻し、とうとう20日間の旅を終え香港に到着した。

旅はまだ終わらなかった。オリエント急行の終着は東京。ワゴン・リの青きプリマドンナ達は船に乗せられ、山口県下松の日立笠戸工場で日本国内用に改修された。慎重な試運転は無事成功し、再び広島から今度は日本の線路を走って、10月18日午前10時30分定刻、東京駅に到着。東方への長い旅は終わりを告げたと同時に「オリエント急行」は本当にオリエントを極めた。

その後青きプリマドンナ達は日本一周を始めとした日本国内ツアーに出る。クリスマスの最終ツアーではJRのD51が復活して花を添え、翌1989年1月中旬再び下松で旅仕度を整え、帰途についた。


これらワゴン・リの寝台車は現役当時、その深い青の車体から「青きプリマドンナ」と呼ばれていたのです。アール・ヌーボーを取り入れた車内もあいまって、その姿は荘厳華麗だったと言われています。

次はその客車に注目してみましょう。

【予告】青きプリマドンナ達

−参考文献−

とれいん 1988年12月号 オリエント急行 日本を走る プレス・アイゼンバーン
とれいん 1889年2月号 さらばオリエント急行 プレス・アイゼンバーン
とれいん 1989年11月号 オリエント急行来日1周年 NIOEは今 プレス・アイゼンバーン
鉄道ジャーナル 1977年5月号 栄光と伝説の名列車 オリエント急行(前) 鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル 1977年6月号 栄光と伝説の名列車 オリエント急行(後) 鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル 1989年2月号 オリエント急行の国内運転実現まで 鉄道ジャーナル社
鉄道ファン 1988年12月号 "オリエント急行"がパリを発車するまで 交友社
鉄道ファン 1989年1月号 特別企画 オリエント急行日本一周 交友社
夢のオリエント急行 教育社
これがオリエント急行だ フジテレビ出版
佐々木直樹写真集 NOSTALGIE ISTANBUL ORIENT EXPRESS IN JAPAN BeeBooks
オリエント エキスプレス 聖ペテルスブルグからの旅 保育社

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