レイル・ストーリー4 タイトル
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レイル・ストーリー4、只今発車いたします


 ●『お堀の電車』の話

路線延長では近鉄に次いで日本で第2位の規模を誇る私鉄は、もちろん名古屋鉄道(以下名鉄)だ。
その中心は「パノラマスーパー」が走る名古屋本線だが、岐阜市内線という路面電車もあればレールバスが走るローカル線もあるなど、近鉄と同様に極めて多彩な構成。

その中で、自社のどの路線とも接続していない路線がある。名古屋の中心の栄と、陶器で有名な尾張瀬戸を結んでいる名鉄瀬戸線だ。

瀬戸線が開通したのは名古屋地区の私鉄でも早い部類。まだ名鉄ではなく「瀬戸自動鉄道」という社名でスタートした。尾西鉄道(今の名鉄尾西線)に続いて明治37年に着工され、翌38年4月2日には矢田-瀬戸間が、続く明治39年3月1日には大曽根-矢田間が開通した。今なら大曽根で今のJR中央本線と接続…と思うところだが、実は中央本線は既に開通していたものの、こちらの大曽根駅が開業したのは明治44年で、5年程後の事だった。

「自動鉄道」なんてヘンなネーミングの由来は、動力は電気ではなく蒸気だったからだ。もっとも当時電化されていない私鉄は各地に存在したが、ディーゼルエンジンなど内燃機関はまだ実用化されておらず蒸気機関車がポピュラーだった。しかし瀬戸自動鉄道が採用したのは客車に蒸気機関を内蔵した「蒸気動車」だった。

しかも採用したのが「セルポレー式」という小型で竪型のボイラーを動力源とした小さな四輪単車で、構造上石炭や水の補給が車外からしか行えないという弱点があり、乗務員は停車中に急いで次の駅までの石炭をくべて水を足さなければならなかったが、たった20名程度の定員に運転士と助手、それに車掌の3名の乗務員ではたちまち運行コストが嵩んでしまった。
簡便なように思えたセルポレー式蒸気動車だったがおまけに故障続きとあって到底実用化には向いておらず、社名を明治39年12月「瀬戸電気鉄道」に変更の上、明治40年3月には電車に変わったという。

同じ頃鉄道省も蒸気動車を製造したが、こちらは客車と蒸気機関車をくっつけたような形で、現在犬山にある「博物館明治村」には名鉄の路線では最古の歴史がある尾西線が電化される前に運行していた鉄道省から払い下げの蒸気動車を保存・展示されていて、その姿を見ることが出来る。

後に瀬戸電気鉄道は大曽根から先、名古屋市内への路線延長を行う。明治44年5月には大曽根-土居下間、続く10月に土居下-堀川間が開通して、全線が出来あがった。その後この路線は『瀬戸電』の名で親しまれることになる。

さて最後に開通した土居下-堀川間だが、この区間は実に珍しいものだった。明治以後埋め立てられた名古屋城の外堀に線路を敷いたのである。そのため瀬戸電は『お堀の電車』という名でも親しまれることになった。

昭和14年9月、瀬戸電気鉄道は名鉄に合併、名鉄瀬戸線として再スタートした。名古屋の市街地の中で、お堀の緑を眺めながらゆっくりと走っていたが、戦後はモータリゼーションの影響を受け、古い元愛知電気鉄道(名鉄名古屋本線神宮前-豊橋間の前身)や、元知多鉄道(名鉄知多線の前身)のお古の電車をパノラマカーと同じ真っ赤に厚化粧した「特急」が走り出したりもしたが…

いかんせん瀬戸線の名古屋市内のターミナルである堀川は市の中心地からは少し離れていて不便。とうとう乗客も減りだし、一時は瀬戸線廃止が検討されたという。

そこに朗報がもたらされた。名古屋の市街地へ向かうクルマが増えすぎて渋滞が激しくなり、瀬戸線の乗客がまた増え始め、名鉄はそれを受け瀬戸線を名古屋の中心地、栄へ地下線で乗り入れる計画を発表したのだ。昭和51年3月には工事に着手、かわりに土居下-堀川間が惜しまれつつ廃止された。工事は名古屋のシンボル、テレビ塔の真横を掘るという難関もあったが無事に竣工、昭和53年8月20日には新装なった栄町駅から尾張瀬戸へ電車が走り出した。一時的に終点となった土居下駅は廃止されたが、戦中に廃止された東大手駅が地下で復活してこちらに変わった。

同時に瀬戸線は普通電車に新車が導入されたが「停車駅が多いので効果がない」という理由で冷房は付けてもらえなかった。特急改め急行には名古屋本線から電車をコンバートしたが、こちらのほうは車体こそどうにか新しいものの足回りはお古、だけど冷房は付いていた(この急行用の電車はデビュー当時薄い紫色に塗られ話題になったという曰くつき)。しかし普通電車のほうは冷房なしというのが不評で、名鉄はあわてて冷房を取りつけ、逆に全車冷房化は名鉄の他の路線よりも早かった(笑)。

今や名鉄瀬戸線は名古屋市東北郊への路線として、無くてはならないものとして定着した。
そして名古屋城の外堀をのんびり走っていたという事実も薄らいで同時に「お堀の電車」という愛称も過去のものとなってしまったが、その遺構は今でも見ることが出来る。

お堀の線路跡

元土居下駅があった辺り

お堀へのアプローチ部分跡

東大手駅には薬局が

お堀の線路跡

旧土居下駅付近
(今は道路になっている)

お堀へのアプローチ跡
(歩道がその跡)

東大手駅の上
(名鉄の薬局がある)

かつてこの区間には大津町、本町、堀川という駅があった。土居下と大津町の間には半径60mという路面電車並み急カーブも存在した。また本町通りをくぐる部分にはガントレットポイントという複雑なレールもあった。

大津町駅跡

堀川駅跡は今や駐車場

堀川駅舎跡は公園に

大津町駅跡

堀川駅跡

堀川駅舎跡は公園に

瀬戸線の終点は堀川だった訳だが、実は今も昔も名古屋に堀川という地名は存在しない。ただ駅跡地の通りを挟んだところを流れる川が「堀川」というだけの話で、駅から先は更にその川の水運を利用出来るかも…という目論みがあったという。
そしてお堀の線路跡は、名古屋という大都市の中にもかかわらず、現在はバードウオッチングの名所としても親しまれている。


名鉄瀬戸線は、かつての「瀬戸電」だった頃の面影は、もはやありません。さて、名鉄名古屋本線といえばパノラマスーパーの特急が走っていますが、実は始発駅には謎が存在します。

次はその始発駅に関する話題です。

【予告】豊橋駅の謎

―参考文献―

新版 まるごと名鉄ぶらり沿線の旅 七賢出版
鉄道ジャーナル 1978年11月号 日本の鉄道J名古屋

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