ながらくお待たせいたしました
レイル・ストーリー4、只今発車いたします


 ●碑文谷に工場があった頃

東急東横線の電車

東急東横線の学芸大学-都立大学間にある閑静な住宅街、碑文谷。ここにかつて東急の車両工場があったことを知る人は、もう少ないかもしれない。

その工場は東急線の戦後の復興をガッチリ支えた。後には東急線だけでなく関東の私鉄、全国の私鉄へと碑文谷から電車が巣立っていった。

渋谷から東横線に乗り、高架区間の学芸大学-都立大学間を走ると進行方向左手にゴルフ練習場がある。そこがかつての工場跡だ。

第2次世界大戦も半ばを過ぎ、焦土となりつつあった日本では鉄道施設が米軍の爆撃目標とされたが、特に車庫や工場などは被害が大きかった。
東横線はそれまで元住吉の車庫・工場しかなかったが、それがやられると東横線は機能を失ってしまう。東急は碑文谷にも車庫を造る計画を立てた。それは多摩川を境に東京側(碑文谷)と横浜側(元住吉)に車庫が別々にあれば、被害は半分で済むと判断したからだった。学芸大学-都立大学間には分岐線がつくられ、その先には電車を収容する線路が建設された。

車庫は出来たもののすぐに終戦。碑文谷に出来た車庫線には昭和21年も終わりを告げる頃、線路の奥に電車の修理を主とした工場が建てられた。「東急碑文谷工場」の始まりである。

東急の復興は爆撃を受けて焼けてしまった電車の再生に始まった。屋根が落ち、ボディも焼けただれ、ひどいものは骨組だけになった電車は碑文谷へ続々と送られた。なんとかボディが使える電車は叩き直された跡を残しつつも見事に再生され、再び東急線に戻って活躍を始めた。骨組だけになったものは車体メーカーで車体を製作し、碑文谷で電気部品の取り付けを行い、これも復帰していった。

戦後の乗客の急増は電車の不足を招いた。それは同じく爆撃を受けた国鉄の電車(通称焼電)の払い下げで補うことになったが、もう原形すら判らない、幽霊のような国電が碑文谷を目指した。自社の電車と同様、こちらも見事に再生されて東急の電車として再デビューを飾り、戦後の東急線を支えた。また車体が大きく当時東急では走れなかった国電の焼電も碑文谷入りしたが、もともと規格が合わないのを無理して入れたため、いくつかの駅ではホームと接触して火花が散ったとか。その大きな電車も再生されたのち相模鉄道の電車になった。

さて国鉄の焼電や車体メーカーから送られてきた車体はどうやって東急入りしたのか。当時国鉄と東横線は菊名でレールが繋がっていた。そこを経由していたのは間違いないのだが、問題は「手続き」。通常なら「甲種鉄道輸送」という「荷物」として発送されるのだが、それは手続きに半年を要するという厄介なものでもある。そのため国鉄の焼電は「菊名への回送電車」という扱いで運転され、東急へと引き継がれた。これはボロボロながら一応国鉄に籍がある電車だから問題はなかったが、車体メーカーから送られてくる電車はそういう訳にはいかない。本来ならば…。

今では「美談」として伝わっている話。車体メーカーからの電車も「菊名への回送電車」という扱いだったのだ。
監督官庁の目をごまかすために車体メーカーを出る時にウソの国鉄型式のナンバーを書き、車体は国電の回送を装って国鉄の電車に連れられ菊名へと向かった。菊名から碑文谷入りした車体は即刻ウソのナンバーが消され、後日何事もなかったかのように東急の電車として落成したという話だ。それは「良き時代」の話だったのかもしれない。

昭和30年代に入り世の中は落ちつきを取り戻した。終戦直後に叩き直された電車は、ようやく新品の車体に交換する余裕も出てきた。自社に続いて小田急、京王へと電車を納入した後は、地方私鉄の電車の改造という仕事が増えてきた。今ではそれらの電車も引退したか路線が廃止になって運命を共にしたものが多いが、まだまだ現役で頑張っている電車がある。

江ノ電300型

江ノ電300型は複雑な経歴を持つものばかりだが、305・355というナンバーを持つ2両は京王線の古い小型車のフレームを使い、新たに碑文谷で造った車体に生まれ変わった電車だ。最近は足回りが高性能化され、冷房も取り付けられた。今でも新車に混じって活躍中だ。

同様に東急で役目を果たした電車も、地方私鉄に活路を見出した。再び整備・改造され、納入先の塗装に身を改めた電車は東横線で試運転を行い、秋田、長野をはじめ全国各地へ送られていった。中には碑文谷で倉庫として使っていたボロボロの車体まで「これを下さい」と言われ、見事に再生したものもあったとか。

その後地下鉄日比谷線への直通運転が迫り、本格的にステンレス車体を採用した電車7000系がデビューすることになった。ピカピカの新車は碑文谷に入り、最終整備が行われてデビューした。また営団の電車3000系も一旦碑文谷に受け入れられて整備され、夜な夜な東急の電車(しかも碑文谷で再生された電車)に手を引かれて日比谷線入りしたという。また東急系列の伊豆急の電車も碑文谷で整備を受け、東横線をハワイアンブルーの車体も誇らしげに試運転した。

こうして東急のみならず、日本の私鉄の戦後を支えたと言っても過言ではない碑文谷工場だったが、昭和41年9月に東横線中目黒−都立大学間の高架化工事のため、工場を閉鎖して工事の基地とすることが決まった。

昭和43年4月、工場は取り壊され、建設用の資材が運び込まれた。高架線は完成し、現在工場跡には『S・ing』(スイングと読む)というゴルフ練習場が建っている。今ではそんな工場があった事など想像もつかないが、打ちっぱなしレンジのネットが当時の工場を偲ばせる。

ゴルフ練習場「S・ing」

練習場のネット

かつてこの辺りから工場への線路が分岐していた

ゴルフ練習場「S・ing」

工場の外形を偲ばせるネット

かつてこの辺りから
工場への線路が分岐していた

碑文谷工場の機能は、現在長津田の工場が引き継いでいる。碑文谷に響いていた電車を叩き直す槌音は過去のものとなった。この時東急の戦後は終わった。現在『S・ing』と東横線に鋏まれた狭い空間には、小さな保線基地がある。それが「東急碑文谷工場」を今に語り伝える唯一の存在なのかもしれない。
そして再び碑文谷に工場が建てられることがないよう、平和な世の中が続く事を祈りたい。


東急の「戦後」は、碑文谷工場の歴史…と言っても過言ではないようです。小さな町工場のような存在が、大きな功績を上げたのですから。

次は同じく東急から、玉電こと東急玉川線の幻をもう一度追いかけてみましょう。

【予告】玉電の幻影2

―参考文献―

RM LIBRARY 6 東急碑文谷工場ものがたり NEKO PUBLISHING

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