ながらくお待たせいたしました
レイル・ストーリー4、只今発車いたします

 

●伝統の急行「銀河」品川駅を発車する急行「銀河」

東京と大阪を結ぶ夜行寝台急行列車「銀河」。この列車ほど長い歴史を誇るものはない。

急行「銀河」の歴史は昭和の始め頃にまで遡る。当時東京-大阪間には4往復の夜行列車が走っていたが、中でも1等・2等専用の第17、18列車(その頃は3等級制だった)が急行「銀河」の前身といわれている。
ただし戦前は超特急「燕」、特急「富士」「桜」「鴎」の4往復だけに愛称が与えられ、急行列車などは名前が付いていなかった時代。

1等・2等専用の第17、18列車は急行列車の中でも超エリート的存在だった。政財界人や著名人が愛用したことで別名「名士列車」とも言われたという。やがて太平洋戦争が始まり戦局も悪化、特急・急行列車は次々と姿を消した。この列車も例外ではなかった。

やがて終戦。戦後の混乱も少し癒えてきた昭和24年9月、東京-大阪間には戦前の超特急「燕」改め特急「平和」(1年後には「つばめ」と改称)の運転開始を目玉としたダイヤ改正が行われ、同時に夜行急行列車が3往復設定された。

その夜行列車のうち、第15、16列車だけは破格の扱いを受けた。列車番号こそ変わったが戦前の名士列車の伝統を受け継ぎ、急行でありながら「銀河」という愛称が付けられたのだ。しかも1等・2等専用。さらに列車の最後尾には特急と同じ行灯式のマークが取りつけられた。当時他の全国の急行列車はまだ愛称などは無く、しかも3等車ばかりが当たり前だった。

しかし戦後の混乱期ではそんな列車を走らせる余裕はなかったはず。急行「銀河」は、1等はガラガラ、2等も少し乗客が乗っているという程度。そんな特権階級専用みたいな列車は長続き出来るはずもなく、たったの9日間で「名士列車」の看板を降ろし、3等車を連結した。マークは品川の車庫にある倉庫にお蔵入りしたとか。

「もはや戦後ではない」という言葉が流行りはじめた昭和30年代に入ると、戦争で消滅した3等寝台が新車で復活、東海道筋の夜行急行列車もどんどん増えて「銀河」には「彗星」「明星」などの仲間(あるいはライバル)を含め最大7往復にまで成長した。続いて電車による夜行列車も出現し、それまでの客車夜行列車は寝台車中心となっていった。

昭和39年10月1日、東海道新幹線が開業。東海道筋の夜行急行列車は4往復に削減された。それ以後、新幹線への乗客の移行には歯止めが掛からず、翌昭和40年10月には2往復に減ってしまった。しかも「銀河」は寝台車が外されてしまい座席車ばかりに成り下がった。かつての「名士列車」の栄光はどこへやら…。

ところが日本は高度経済成長期の真っ只中。いわゆるモーレツ社員(死語)からの寝台車復活の声に応え、「銀河」は昭和42年10月、夜行寝台急行に返り咲いた。全国に特急列車が大増発された翌昭和43年10月のダイヤ改正では、もう1往復のライバル的存在だった「彗星」が「銀河」に統合され、その名前は大阪から九州への夜行寝台特急に抜擢された。それからは「銀河1号」「銀河2号」の2往復体制がしばらく続く。

「彗星」改め「銀河1号」は新幹線が岡山まで延びた昭和47年3月のダイヤ改正で、紀勢本線直通の急行「紀伊」と連結することになり、編成は半分になってしまった。「銀河」とのライバル関係はここに終止符を打つがそれもつかの間、新幹線が博多まで延びた昭和50年3月のダイヤ改正で連結相手の急行「紀伊」ともども特急に変身、山陰線直通の特急「いなば」となった。東海道筋の夜行急行列車はとうとう「銀河」1往復だけになってしまった。

それから1年も経たない昭和51年2月、「銀河」に再び栄光が蘇った。それまで特急寝台列車に使用していた客車(20系)が急行に転用されることになり、そのトップをきったのが「銀河」だったのだ。
列車の最後尾のテールマークは、特急時代と違ってただ「急行」と書かれたものだったが、後に特急と同様イラスト入り専用マークに変わった。そのマークこそ、かつて「銀河」が戦後颯爽とデビューした時に、9日間だけ掲げられた幻のマークをリメイクしたものなのだ。

急行「銀河」のマーク
急行「銀河」のテールマーク現在の急行「銀河」

やはり名士列車の伝統を受け継ぐ急行「銀河」。他の急行列車に先駆けて特急と変わらない姿に生まれ変わった。

昭和60年3月には客車が14系に、続く昭和61年11月にはそれまで三段ベッドだったB寝台がニ段となった24系25型になって現在に至っている(のち14系のB寝台も二段に改造された)。どちらも特急用の客車だ。全く遜色は感じられない。

現在、特急を含めて夜行列車の人気は低下ぎみであることは否めない。東京発着、大阪発着の夜行列車はここ数年でかなりの数を減らした。その中で「銀河」は急行として東海道の孤塁を保ったが、編成はだいぶ短くなってしまった。

長い歴史を持つ急行「銀河」。かつて名士列車として君臨し、戦後は特急同等の急行として異例の再デビューを飾り、のち仲間と踵を接して東海道の星の座を得た。ちょっと危ない時期もあったけれど、再び特急と変わらない扱いをされるという伝統は変わらず、急行列車のエリートとして煌き続けた。
しかし…とうとう「銀河」にも最後の日がやってきた。平成20年3月15日のダイヤ改正で「銀河」は廃止が決定、かつての栄光は伝説となって遠い宇宙へと飛び去っていった。

―参考文献―

鉄道ジャーナル1974年7月号 名列車誌上リバイバルF 寝台急行<銀河> 鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル1976年5月号 20系ブルートレイン<銀河>の旅 鉄道ジャーナル社


ご乗車ありがとうございました。レイル・ストーリー4はこれにて終点です。

1年間のお休みを頂いて、ようやくまとめることが出来ました。前作のリリース以後、どうも話題に事欠いていたのですが、改めて考えて見ると名古屋地区には取り上げないままにしていた話題があったり、他の地区にも「あっそうだった」というものがまだまだあったではないですか。こうなると自然と足が向くもので…(笑)。

旅をしました。限られた時間の中での移動は、妻や友人に驚かれたり呆れられる程(笑)のものがありましたが、ボク自身は改めて旅を楽しむことが出来ました。また新たに見えてきたものもありました。そちらの話は「旅日記」のほうでお楽しみ下さい。

そんな旅を通じて思った事。ちょっとシリアスなんですが、今後の交通機関としての鉄道の在り方は、決して楽観的ではないようです。

確かに大都市では電車は移動の足として当然のような存在ですが、かたや地方都市ではすでにクルマ社会。JRも私鉄も利用客は年々減る一方です。その違いの大きさを改めて思い知らされました。すでに数字上にはもちろん現れているのですが、周囲が余りに楽観的・客観的すぎて、真剣味が感じられません。鉄道を支えているのは住民です。その住民がクルマを含めた交通機関のタイプと利用方法を、環境も含めて再認識する時期がとっくに来ているはず…と思うのです。その中で鉄道の在り方が変わりつつあるなという実感だけは伝わって来ました。

ただし、それらについては懐古主義、理想主義、利権主義はもうたくさんです。

新幹線問題があります。金沢周辺では北陸新幹線の工事が既に八割方終わっています。ただしその新幹線が長野から金沢へとレールが繋がるのはいったい何時になるのでしょう。皆さん、想像がつきますか?この異常な現実。残念なのはそんな巨大なコンクリート構造物をつくるのに誰もNOと言えなかった事です。新幹線を真っ向から否定する訳ではないのですが、東海道新幹線の成功と高度経済成長、それがまだ地方の政財界に記憶と理想として渦巻いている証明なのです。現実を無視した行動には疑問を感じます。

JR、私鉄、バス路線、そしてクルマ。これらがバラバラになっているのが地方都市の現実です。それらは大都市では有機的に結合しているのです。地方都市でも、もっと真剣に、有機的に結合させるべき時期です。

鉄道を政治などの道具には利用せずに、本当の意味での「環境にやさしい」交通機関として利用する…そう願いたいものです。

おや、すっかり長くなってしまいました。

まだまだたくさんの、数え切れないほどの話題があると思います。近くで、遠くで、また話題を拾っていきたいと思っています。そして再びこの場で逢うことを誓って、ペンを置くことにします。

ありがとうございました。


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