レイル・ストーリー2 横浜地下鉄の謎


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レイル・ストーリー続編です。ごゆっくりどうぞ。


 ●横浜地下鉄の謎

横浜市1000系

日本を代表する港町、横浜。この街に地下鉄が出来たのは昭和47年12月だった。大都市の地下鉄としてはスタートが遅いほうだった。

横浜の地下鉄構想そのものは戦後まもなくの昭和23年に打ち出されたが、実際に計画が動き出したのはずっと後で昭和39年11月のことだった。その計画によると昭和42年に着工、44年開業とされていたが、都市交通審議会の答申が得られたのは昭和41年6月で、その中の1号線上大岡-関内間と、3号線山下町-横浜駅間が緊急性を要するものとして昭和43年に着工されることが決まった。

予定は未定とはよく言ったもので、地下鉄建設は始めから暗礁に乗り上げる。今の地下鉄は根岸線関内駅と直角に交わって一旦海側を通り横浜駅へ向かっているが、もともとは関内で平行になり、根岸線の山側からそのまま横浜駅を目指す予定であった。それが首都高速1号横羽線の延長が決まったおかげでルートを再考しなければならなくなったのだ。この調整は昭和44年5月に決着したが、工事施工認可にも時間が掛かり、結局起工は予定していた昭和43年4月から半年遅れてしまった。しかも地下鉄開業を見越して既に完成していた地下鉄桜木町駅は、この変更でさらに深い場所に駅を作ることになったため、ただのコンクリートの塊となったという話だ。

桜木町駅改札口

ただ、今の地下鉄桜木町駅のつくりを見る限りそんな事は判らないが、改札口に太い柱がどかんとあったりするのは、この階がもともと駅のホームになる予定だったのでは…という気がしないでもない。

工事は吉野町付近の軟弱地盤にも泣かされたという。さらに工事中の昭和45年7月の集中豪雨で折角掘った弘明寺-吉野町間に約50万トンもの水が流れ込んで、排水に手間取ったばかりか、水に漬かってしまった建設機械の修理のために完成が半年遅れてしまった。続く9月には台風がやってきて、下水管から溢れた汚水が流れ込んでさらに1ケ月遅れとなった。

難工事を乗り越え、ようやく開業が見えてきた横浜地下鉄ではあったが…

長いです

これ以上に問題となったのは「駅名」。伊勢佐木長者町という長い名前の駅があるが、もともと駅の所在地は長者町。しかし隣接する伊勢佐木町から当然のようにクレームがついた。この問題はとうとう横浜市議会にまで持ち込まれて継続審議となり、約1年もめまくった結果今の「伊勢佐木長者町」という名前に落ちついたという。こうして上大岡-伊勢佐木長者町間の5km余りの区間が昭和47年12月16日、ようやく開業に漕ぎつけた。

続いて地下鉄1号線は関内に伸びたが、そこが終点となって本牧から延びてくるはずだった3号線に「接続する」予定だった。この予定も変わってしまって、3号線が関内から横浜駅まで完成した時点で1号線との直通運転に変更された。つまり今の形になった訳である。地下鉄はその後新横浜へ、戸塚へ、あざみ野へと伸びて行くが、本当は関内を境に戸塚側が1号線、あざみ野側が3号線で、別々の路線なのである。3号線の関内から山下町を通って本牧へ向かう予定は…どうなったのだろう??

さて現在工事中のみなとみらい線。もともと2号線だったこの路線も予定から大幅に変わってしまった。本来は屏風ヶ浦を基点として吉野町で1号線と接続、京急線よりも山側を通って横浜駅へ。終点は神奈川新町という計画で、京急のバイパス路線という位置付けだったのだ。

そして最近開通したのが3号線戸塚-湘南台間だ。これによりあざみ野からの直通運転が始まったが1号線と3号線の総延長は40.4kmになり、一つの路線として運転している地下鉄の長さでは日本最長の路線となった。開業前後のゴタゴタを経て、ようやく日本一という栄冠を手にした横浜地下鉄に拍手を送ろうではないか!!


横浜地下鉄は、日本で最後にサードレール集電方式で開業した地下鉄です。というのも他ではJR線や私鉄線との直通運転が多くなって、サードレール方式を採用出来なくなったというのが主な理由ですが…

次は、前シリーズ同様に関西方面へまいります。お間違えのないよう願います(笑)。

【予告】丹波橋の謎

―参考文献―

鉄道ファン 1973年4月号 横浜地下鉄が開業 (株)交友社
鉄道ファン 1998年6月号 特集:地下鉄ネットワーク (株)交友社

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