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 ●田原本線の謎

日本一の規模を誇る近鉄には多彩な路線がある。特急アーバンライナーが走る大阪線や名古屋線があるかと思えば、ナローゲージの北勢線など、ホントにいろいろ。

西田原本で乗客を待つ近鉄8400系

その中で一つだけ異色の路線がある。田原本線(たわらもとせん)がそれだ。新王寺と西田原本の間10.1kmを結んでいるが、隣接する橿原線や生駒線の駅構内での接続はなされていない独立路線(電車の行き来のために線路は一応つながってはいるが…)。

しかし、今の近鉄のルーツがこの田原本線にもあると言っても過言ではない。

そもそも近鉄のルーツは今の奈良線で、大阪電気軌道(以下大軌)が前身。大正3年4月30日に上本町-奈良間を開業した。このルートには生駒山を越えるという大事業があったのだが、工事を請け負った大林組の努力もあって、当時日本で第二の長さを誇った旧生駒トンネルも貫通した。大軌の開業当初は押すな押すなの大盛況ぶりだったというが、その後客足が途絶えだし天気によって客足が変わるので「大阪天気軌道」などというあだ名までつくようになってしまった。資金繰りが厳しくなる中、メインバンクだった北浜銀行の倒産などもあって窮地に立たされるまでに至った。とうとう生駒の宝山寺に泣きついたところ、「大軌の開業でこちらは参詣客が増えて感謝している。お困りなら資金を融通しよう」という正に御仏のお慈悲で大軌は救われ、これにより会社の立て直しにも成功して八木・桜井線布施-桜井間(今の大阪線の一部)の建設に着手する。

大軌の目的はさらに伊勢方面へ路線を延ばすことだった。関西からのお伊勢参りルートの確立、それは軍国主義の中で天皇が神だった当時、他には考えられなかった。当然大軌は八木から先、伊勢神宮のある宇治山田への路線免許を申請したが、同じようなルートを申請していた会社が実はもう一つ存在した。

それは王寺-田原本間を蒸気機関車の牽く列車でのんびり運転していた大和鉄道、今の近鉄田原本線である。開業時、レールの幅は1,067mmで、これは王寺で今の関西本線(今では大和路線とも言うが)と接続するためだった。大和鉄道はその先桜井までの路線免許を持っていたが、さらに先の名張までの路線免許も申請していた。これはその先伊勢を目指す路線にもなる。結局このルートはあと2社が計画し、最終的に大軌を含め4社の併願となったが審査の結果、免許申請はなんと大和鉄道に下り、大軌の伊勢進出は怪しくなってしまった。

これを重くみた大軌は、大和鉄道を傘下に置くほうが有利と判断、株の大部分の買収に成功した。その後一応は大和鉄道により名張から先、宇治山田までの路線免許を申請させる。しかし、当時地方の小鉄道であった大和鉄道が山間部を切り開いて路線をつくることなど、建設資金などを考えると事実上無理。大軌が大和鉄道に資本参加した別会社を新たに設立し、それにより伊勢を目指すという作戦に合意した(というより大軌がウンと言わせたのかもしれないが)。もっとも既に開通していた大軌畝傍線(今の橿原線)の免許が下付された時の条件として、天理軽便鉄道(今の天理線)と共に買収せよとの内容が書かれていた事実にもよる。その会社は「参宮急行電鉄」(以下参急)といい、大和鉄道は路線の敷設権を譲渡、参急の手によって建設が始まった。

参急の路線は大軌の乗り入れを前提に同一規格でつくられた。難関の青山トンネルも無事貫通し昭和5年12月20日、山田までの開通により大阪上本町からの直通運転が始まった。それはいきなり年末年始のお伊勢参り輸送だった。電車による青山峠越えは、なによりトンネルでも煙が入らないし、最高110km/hの高速運転は快適。大好評だったといわれる。その後紀元2600年を迎え、伊勢神宮、橿原神宮を抱える大軌・参急は時代の流れにうまく乗っていく。さらに伊勢電鉄(今の名古屋線の一部)を合併して大阪-名古屋間をも結び、戦後も沿線の私鉄を合併して今の近鉄ネットワークを形成していく(戦時中は南海も近鉄に合併させられた)。

あれよあれよと言う間に買収され路線の権利をも失った大和鉄道は、一旦は田原本(今の西田原本)から先、桜井まで路線を延長した。蒸気機関車はガソリンカーに変わったがのんびりと走っていたのは変わらなかった。しかし田原本-桜井間は後に廃止され、もとの路線に逆戻り。全くついていない。戦後すぐにレールの幅は1,435mmに広げられ、戦後の石炭の入手難もあって電化が行われて、近鉄のお古の電車を借り受けて運転することになった。昭和36年までは会社としては存続していたものの、いったん信貴生駒電鉄(今の生駒線)と合併、直後の昭和39年10月1日には信貴生駒電鉄ともども近鉄に合併されてしまった。信貴生駒電鉄というのはもともと京阪の資本による会社で、実は今の京阪交野線は延長され生駒へ向かう計画だったという。これが実現していたら近鉄生駒線は京阪生駒線となっていたかもしれないし、逆に近鉄生駒線は枚方市まで走っていたのかもしれない。どちらにしても田原本線はもと大和鉄道、独立した路線として存在したのだろう。

しかし、大和鉄道の路線免許がなくては今の近鉄は存在しなかった。田原本線はそういう意味で重要な存在なのである。また宝山寺の資金援助もなくては近鉄は存在しなかったのかも…


東海道新幹線の開通前、近鉄の名阪特急は国鉄を圧倒していました。その後新幹線のスピードには勝てなかったのですが、国鉄の相次ぐ運賃・料金値上げを受けて見なおされ、アーバンライナーがデビューしたのです。

次は、伝説の列車?という話題です。

【予告】特急『くろしお』の謎

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 1981年12月号増刊 近畿日本鉄道特集 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 1995年陽春号 近畿日本鉄道特集 PartY 関西鉄道研究会
車両発達史シリーズ2 近畿日本鉄道特急車 関西鉄道研究会

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