レイル・ストーリー2 番外編

まだあった地下鉄銀座線ストーリー


 ●幻の銀座線延長計画??

地下鉄銀座線といえば浅草-渋谷間。東京地下鉄道と東京高速鉄道が前身だったのはもう言うまでもないが、後者のほうは地下鉄進出を目論んだ東横(今の東急)の作戦だった。

結局営団地下鉄(現:東京メトロ)の発足で東横改め東急の地下鉄進出は成らなかった訳だが、戦後の地下鉄建設は都市交通審議会の答申により路線が決められることになった。昭和31年8月に行われた答申では東京都の都市計画路線2号線が選定された。今の日比谷線である。東急-営団-東武という3社の乗り入れにより路線を構成としようというものだ。翌年にはめでたく3社による覚書が交わされ、早速建設に取りかかった。昭和39年8月29日、日吉を出発した東急の電車が中目黒から北千住へ直通した。

こうして東急の地下鉄進出は「営団路線への乗り入れ」という形で実現した。続いて昭和53年8月1日には都市計画路線11号線である半蔵門線への乗り入れにより、2番目の地下鉄路線直通が実現した。

しかし、半蔵門線への乗り入れは本来の予定ではなかった。確かに今の東急田園都市線は半蔵門線との直通運転だが、実は田園都市線の二子玉川-渋谷間(元の新玉川線)は銀座線との直通運転をするという幻の計画が存在したのだ!!

渋谷検車区へ引き上げる電車

昭和30年代の都市交通審議会の答申を見ると、東京都の都市計画路線3号線は浅草-渋谷間(今の銀座線)と渋谷から先の延長区間が存在した。それは渋谷検車区の線路を延長して三軒茶屋、弦巻、桜新町、瀬田を経て二子玉川園(現:二子玉川)へ向かうもので、規格は銀座線と同一という予定だった。当然電車は銀座線と直通。実際に昭和34年1月には路線免許まで取得した。それが本来新玉川線と呼ばれるはずだった。東急の二子玉川駅は当初銀座線の延長を考慮して改良が進められたといわれている。

ところが田園都市線沿線の人口が激増し、銀座線の小さな電車の6両編成が二子玉川へ直通することに疑問が投げかけられた。収容力が小さいので、とても乗客をさばけそうにないのである。都市交通審議会はこれを受け方針を変更、昭和43年12月の答申では新玉川線は新たに策定された都市計画路線11号線(つまり今の半蔵門線)と直通運転という方向に進み、東急新玉川線と銀座線との直通運転計画は幻に終わった。しかし…

話は戦前に遡る。玉電(東急田園都市線渋谷-二子玉川間の前身。もともとは玉川電気鉄道で、のち東急玉川線)が東横の軍門に下った時すでに、路面電車に近かった玉電を高規格化して銀座線新橋-渋谷間の前身、東京高速鉄道と直通させる計画があったのだ。戦後の新玉川線の銀座線直通計画は二度目となる。半蔵門線直通は三度目の正直ということになろうか。

路線を核として昭和初期に東京西郊へ事業展開を進めた玉電は、東急の前身である東横にとっては脅威だったのだ。「渋谷地区の私鉄路線の再編」を名目にした東横の策略は、この玉電をも手中に収める方向に進む。

当時玉電は関連事業も安定していて順調に収益をあげていたといわれる。しかし関西の阪急梅田駅のターミナルビルに倣って、玉電デパートをキーテナントにした複合ビルの「玉電ビル」の建設が具体化した頃から東横は慌て出した。渋谷駅の西口に玉電デパートが出来てしまっては、既に東口の東横線渋谷駅でオープンしていた東横デパート(今の東急デパート東横店東館)のライバルとなるのは明白であった。それに玉電とその関連事業も東横にとってはオイシイものでもあっただろう。東横は玉電に資本参加し、昭和13年4月1日合併。最後まで東横の軍門に下らなかった東京地下鉄道とは対照的だった。

玉電ビルの建設は東横が引き継いだ。路線の建設が進んでいた東京高速鉄道の渋谷駅は玉電ビルの3階につくられ、本来の玉電のターミナルはそれに遅れる事半年、昭和14年6月1日に玉電ビル2階に出来あがった。玉電ビルは戦後東急会館と改称、昭和29年には増改築が行われて東急デパート東横店西館となって現在に至っている。また現在東京西郊に走っている東急バスの路線は、大部分もと玉電のバス路線であるといわれている。

玉電を高規格化して東京高速鉄道の延長路線に編入し、さらには地下鉄そのものを東横のものにしようといた五島慶太の策略は、東京地下鉄道のねばりと営団地下鉄が発足したことにより一旦終止符を打つ。東横は用賀に車庫用の敷地まで用意していたといわれているが、それは無駄に終わった。もっとも戦時色の濃くなっていた当時の情勢では資金や鋼材の調達も規制されていたので、玉電ビルは計画を縮小して建設出来たものの、玉電の改修までは事実上不可能だったのだろう。

戦後、東横改め東急はもう一度(二度?)玉電を新玉川線にして銀座線への直通を計画した。なぜそこまでして東急が銀座線乗り入れにこだわったのかは判らない。確かにそれが実現すれば東京高速鉄道として果たせなかった夢が実現出来たのかもしれない。結局玉電の生まれ変わり、東急新玉川線改め田園都市線は銀座線のバイパスルート、半蔵門線に伴侶を求めたが、20m級の電車10両編成が走る今ではその選択は正解だったと思える。

また、過去の東京地下鉄道と東京高速鉄道の関係を知る限り、そのほうが平和的解決であったと思えてならない。


ご乗車ありがとうございました。またのご乗車を心よりお待ちしております。

―参考文献―

鉄道ジャーナル 1983年6月号 東京急行電鉄の都心直通運転 (株)鉄道ジャーナル社
玉電が走った街 今昔 JTBキャンブックス

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