レイル・ストーリー2 明大前の謎


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レイル・ストーリー続編です。ごゆっくりどうぞ。


 ●明大前の謎

京王線と井の頭線が交わるところ、それは明大前である。今でこそ両者は京王電鉄だが、近年まで京王帝都電鉄を名乗っていた事を知る人は多いと思う。その名の由来は今の京王線が京王電軌、井の頭線が帝都電鉄という別の会社だった事にある。

これは戦前に施行された、あの「陸上交通調整法」の名のもとに通称「大東急」に統合されたことによるものだ。大東急のベースとなったのは今の東横線である東横電鉄だったが、今の京王、小田急、京急までもが戦時中は東急となっていた(この辺のゴタゴタはこちらを)。戦後各社は元通りに袂を別つが、その中で京王電軌と帝都電鉄は戦後合併した形で東急から独立した。

渋谷と吉祥寺を結ぶ井の頭線の前身帝都電鉄は、そのまた前身があって渋谷急行電鉄という会社だった。これに山手急行電鉄という会社が合併して出来たものであることは、あまり知られていない。山手急行電鉄というのは、洲崎-大井町間に路線免許を持っていた会社だった。合併後、一時的に東京郊外電鉄と名乗ったらしいが、すぐに帝都電鉄と改称したと言われている。

帝都電鉄渋谷線こと今の京王井の頭線は、昭和8年8月1日渋谷-井の頭公園間で開業、のちに吉祥寺まで全通している。帝都電鉄は戦中から戦後にかけて東急の影響が大きかったようだが、開業当初はむしろ小田急の資本参加による影響が強かった。今でも下北沢駅は井の頭線と小田急線が駅構内で直接繋がっていることを見れば、それを窺い知ることは出来る。

しかしもとの山手急行電鉄が免許だけ取得していた路線はどうなったのだろう。今でもそんな路線はない。ただ、帝都渋谷線開業時には既に西松原(今の明大前)から中野までの路線を「山手線」と称した計画路線はあったらしい。当時電車内の路線案内図には予定線として点線で書かれていたという。その山手線は西松原から南へ向かう路線も計画されたらしいが、結局1mの線路も敷かれなかった。

井の頭線は、戦争による被害が大きかったと伝えられている。永福町の車庫は爆撃を受け、車庫共々電車を焼失してしまい、動かせる電車が僅かになって困っていた時に東急から応援の電車を融通してもらって急場を凌ぐことが出来た。これに限っては合併による影響は良い方向だったのかもしれない。東急は戦後碑文谷に工場をつくり、戦災を受けてしまった電車の再生を行い大東急時代の各社に納入した。この結果各社似たような電車が走ることになり、そのサイズは今でも営団地下鉄日比谷線に受け継がれていて、逆に今では日比谷線用の電車を大型化出来ない事実まで生んでいる。

玉川上水橋

幻に終わった帝都電鉄の「山手線」だが、たった一つだけその面影を偲ぶものが存在している。

明大前駅の北側、明治大学キャンパスの近くの甲州街道ぞいに玉川上水橋という歩道橋があるが、その橋の下は井の頭線が走っている。線路は確かに複線なのだが、よく見るとさらに複線を走らせるスペースがある。これは西松原(明大前)から中野を目指した帝都「山手線」用のスペースだったのだ。

しかし…その帝都山手線が実現したところでどうなっていただろうか。明大前から吉祥寺と中野へ別の路線があったとして、殆ど平行路線となっていたのではなかろうか。そうなれば社内でお客の取り合いのような格好にもなっていたかもしれないし、帝都山手線だけが生き残って京王電鉄は今と全く違う路線となっていたかもしれない。或いは両者ともなくなってしまう結果になっていたのか…


JRの山手線は今やなくてはならない存在ですが、もう一つの山手線が、計画だけはあったようです。もっとも二つの「山手線」があったところで、混乱してしまうと思うのですが…

次は、飛ぶ鳥も落とす勢いで成長している路線の話です。

【予告】空港線の謎

―参考文献―

鉄道ファン 1984年7月号 帝都線の電車 (株)交友社

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