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 ●石坂線の謎

石場駅の京阪700系

京阪電鉄と言えば特急「テレビカー」を思い浮かべがちだが、大津周辺の琵琶湖の周りをのんびり走っている京阪石坂線にもまた、味わい深いものがある。もっとも石坂線とは石山坂本線というのが本名だが、ふつうは略してこう呼ばれることが多いようだ。

石坂線はもともと京阪ではなく、明治40年に大津(今の浜大津)-膳所(ぜぜと読む。今の膳所本町)間を開業した大津電気軌道が前身だ。のち昭和2年には石山寺-坂本間全線が開業したが、その2年後には京阪に合併、既に京阪に合併していた今の大津線(前身は京津電気軌道)と共に京津線と総称されるようになった。

その石坂線最初の開業区間の工事は、そう難しいものではなかった。というのは、浜大津-馬場(今の京阪膳所)間の線路は、鉄道省の線路を借用してつくられたもので、レールの幅が違う(鉄道省は1,067mmだが石坂線は1,435mm)ので外側にもう1本レールを敷くという、今でいう箱根登山鉄道と小田急の関係に似た形を取っていたのである。

話は明治維新、国が全国に鉄道を創り始めた頃に遡る。明治政府は諸外国との交流のためには、何より港のある街と大都市を結ぶべきだという時のイギリス行使の上申を受け、敦賀港が中国大陸やヨーロッパへの玄関口であるとし、明治4年には早くも京都-敦賀間の鉄道路線の測量を開始した。それにはまず浜大津から長浜までは琵琶湖の水運を利用して、長浜から先の敦賀までの鉄道建設(今の北陸本線の一部)を急ぐべしという話になった。既に建設が進んでいた大阪-神戸間と、大阪-京都、京都-大津間と繋がったレール(今の東海道本線の一部)は膳所から浜大津へ延び、ここから長浜へは船で連絡、そして鉄道で敦賀へという形が出来あがった。

その後明治政府が日本の基幹ルートとして計画した中仙道ルートは東海道ルートに変わり、東海道本線はやがて全通する。敦賀へ向かう路線は米原で接続され、北陸へと伸びて行った。ただ、それでも膳所-浜大津間のレールは貨物線として残され、今の石坂線が乗り入れることも決まった。この貨物線は、浜大津から先を昭和6年1月1日に琵琶湖の西側を近江今津まで開業した江若鉄道(今の湖西線の前身)と繋がった。江若鉄道へは昭和10年頃からは大阪からの直通列車が運転されるようになったという。

膳所-浜大津間の国鉄貨物線は戦後もずっと京阪石坂線と同居していた。ただし、この区間は本来国鉄のものだったため、国鉄の貨物列車が運転される時間だけは京阪石坂線は運転を中止して、列車の通過をひたすら待つというものだったらしい。京阪の電車を待たせて、蒸気機関車の牽く貨物列車がゆっくりと走っていたのだ。また浜大津までの江若鉄道もこの区間に乗り入れ、膳所で東海道本線との直接乗り換えを実施した。レールの幅の違いもなんのその、こうして国鉄の貨物列車、京阪石坂線の電車、江若鉄道のディーゼルカーの3者が走る賑やかな区間になったのである。

今、京阪石坂線にはそんな頃を偲ぶよすがもないが、僅かにその証拠が残っていた。

年代ものの石組

これも古い橋台

国鉄の境界標が残ったまま

明治以来の石組

古い橋台

敷地境界標は国鉄時代のまま

しかし、江若鉄道はモータリゼーションの影響を受け年々赤字続き。国鉄は湖西線建設を打ち出すが、平行ルートの江若鉄道の存在が問題となった。計画された湖西線は新幹線なみの全線立体交差の電化複線。いっぽうの江若は非電化単線で踏切も多い。規格が全く違った。運輸省の行政指導などもあって結局江若は国鉄に身売りし、一部敷地が湖西線に転用された程度で全く姿形を変えてしまった。湖西線の京都側は山科が基点となり、浜大津は経由しなくなった。国鉄貨物線膳所-浜大津間は何時の間にかなくなっていたようだ。

京阪石坂線浜大津-京阪膳所間はこうして今では京阪の電車だけが走る路線になった。


かつて京阪では大阪(天満橋)から浜大津へ直通する「びわこ号」というのが運転されていました。地上時代の三条駅では本線と大津線が繋がっていて、直通運転を行っていたのです。その電車は引退後もひらかたパークに保存展示されていましたが、数年前にオーバーホールされて、今では京阪の手で大事に保管されています。

次は、あの路線がそんな大それた事を…という話です。

【予告】田原本線の謎

―参考文献―

とれいん 1989年11月号 東海道中私鉄伝 プレスアイゼンバーン
鉄道ジャーナル 1975年5月号 北陸本線の生い立ち・湖西線ものがたり (株)鉄道ジャーナル社

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