レイル・ストーリー

大変ながらくお待たせいたしました。

気分も新たに発車いたします。ご乗車ありがとうございます。


 ●京急線の謎

昔から常識的な謎として、京急の北品川駅は、品川駅よりも南にあるはずなのに「北品川」。これは品川駅が実は品川区ではなく港区にあり、ホントの品川はもっと南だから…というのは比較的有名な話だ。

さて、京急線は北品川を出ると平和島まで高架線を走るが、この高架線が出来る前は国道15号線沿いの地平を走っていた。高架化を機会にある二つの駅を統合しようとしたが、大問題が発生してしまった。

北品川の次、今は「新馬場」を名乗るこの駅は、もともと北馬場という駅と、南馬場という二つの駅だった。駅の統合にあたっては、地元住民の了解もとりつけた。そこまでは良かったのだが…

その問題とは…駅名だ。北馬場か南馬場か。お互いに一歩も譲らない。

そこでしかたなく、正式な駅名が決まるまでの間、「北馬場・南馬場」という実に奇妙な駅名を名乗ることになった。北と南が同居するなんて前代未聞。

数年後、この駅の名前は改めて今の「新馬場」とすることで、あっさり決着したという…

京急鶴見の一つ先には「花月園前」という駅があるが、駅の前には肝心の花月園なるものは存在しない。
その花月園というのは大正3年5月31日に鉄道省(現在のJR)鶴見駅の西に出来た遊園地のことで、前身は明治27年に出来た「花月花壇」である。花月花壇は明治38年頃には一旦閉園したが、後に「東洋第一大遊園地」を合言葉に、パリのフォンテンブロー遊園地を範として再オープンしたものなのである。

京急の前身の京浜電鉄は花月園と協定を結び、開園とほぼ同時に花月園前駅を新設、同園利用客のために割引キップも発売したが、その後訪れた不況の影響を受け入園者は激減、昭和8年2月、京浜電鉄に身売りしてしまう。その後も戦時色が濃くなってアトラクションが減っていき、とうとう昭和14年11月には閉園に追い込まれてしまった。

こうして「花月園」は過去のものとなってしまったが、駅名はそのまま残った。現在「花月園競輪」がかつての名残と言えようか。

JR山手線の駅で「恵比寿」は、かつて恵比寿ビールの大きな工場があったことに由来するのは有名な話だが、京急線にはかつて同じような駅が生麦-京急新子安間に存在した。

それは「キリン」駅。昭和7年7月25日に開業した駅で、開業当初は「キリンビール前」と名乗っていた。戦況がかなり悪化した昭和19年10月20日にこの駅は「キリン」と改名しているが、当時は「贅沢は敵だ」が盛んに言われていた頃。ビールなんて、このような時にそんな贅沢な名前はないだろうということだった。
だがこの駅はその直後に休止になり、戦後になった昭和24年6月30日、正式に廃止されている。もしもこの駅が今でも残っていたなら「次はキリンです」なんて車内アナウンスがあるとは思うが、それではまるで動物園の中を走っているようなものだろうか(笑)。

また同じ理由で今の大師線鈴木町駅は「味ノ素前」から改名したが、こちらは現在の駅名に変わってそのまま存在している。

横浜から海老名に向かう相模鉄道線には「平沼橋」という駅がある。だが、京急線にも同じような名前の駅があったという。今では横浜の次は戸部だが、その間に幻の京急平沼駅は存在した!!

この囲いの中は…

駅らしき跡が!!

電車が来ると、このとおり

京急線の平沼駅が開業したのは昭和6年12月26日のこと。しかし横浜駅との距離が近すぎることを理由に昭和18年7月1日をもって休止となり、翌昭和19年11月20日には正式に廃止されてしまった。
その後、駅は終戦間近の昭和20年5月29日には米軍の空襲を受け、駅舎を焼失してしまった。だが戦後もそのまま戦争の爪痕を記録するかのように横浜の街に存在しているではないか。

平沼駅は近年まで駅の上屋の鉄骨が残されていたが、ホームは高架橋と一体のためそのまま残っている。そのホームは写真(電車から判断して約50m位か?)でお判りのように戦前の編成が短かった頃に作られたものなので、短すぎてもう復活さえ無理というのも事実。こうして都会の中の、廃墟のようなコンクリートの塊が、今もひっそりと「ここは駅だったんだ!」と主張しているが、これはかつてこの一帯を開拓し、平沼町の街づくりに貢献した平沼家の意向を反映しているという話である。


「新線」の謎で触れた京王線でも、新線に役目を移した元の初台駅はそのまま残っていて、ホーム跡には何やら資材が山積みとなっているのが確認出来ます。

次はのんびりムード溢れる電車の話題です。

【予告】流電旅情

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 1998年7月臨時増刊号 <特集> 京浜急行電鉄

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