関東私鉄ストーリー

お待たせいたしました。ご乗車ありがとうございます。

こんどは関東の方々にも満足頂きましょう。さぁ出発進行!!


 ●スカイライナーの謎

東京都内から成田空港へのアクセスといえば、JRのN'EXかリムジンバス、そして京成スカイライナーが代表格と言えるだろう。

その京成電鉄だが、「京成」という位だから東京と成田を結ぶのがもともとの使命。空港が出来る前の京成は、通勤輸送の他はもちろん成田山新勝寺への参詣客輸送も主だった。このため善男善女を乗せるべく、戦後まもない昭和25年から京成上野-京成成田間に走り出した特急「開運号」が、スカイライナーの前身とも言えるだろう。とりあえず戦前製の電車を改装して走らせたがこれが好評で、昭和28年には当時大流行した正面2枚窓を持つ「湘南型」を取り入れた新車1600形がデビューした。

この1600形は足回りこそ戦前製の電車と大差なかったものの、デパート風の扉や私鉄初のリクライニングシートの設置、壁を利用したショーウインドーなどアイデアにあふれた、当時の最先端を行くものであったという。

それ以上に画期的だったのは、当時始まったばかりのテレビ放送を電車内で放映しようという案が持ちあがった事だ。これには日本テレビが協力し、輸入もののテレビを取りつけることに成功した。これも電車としては初の快挙だった。

しかしこの1600形は何故か3両編成1本だけしか新製されなかったので、特急「開運号」として華々しくデビューしたまでは良かったが、たちまち輸送量の増加に対応出来なくなってしまった。しかも1本だけでは午前、午後共に上野-成田間を2往復ずつが限度。逆にこの運転本数の少なさが仇となって、昭和42年には後輩に道を譲る結果となってしまった。またせっかくのテレビ取りつけだったが、今では信じられない話だが当時日中はテレビ放送を休止していて、初の電車テレビは用をなさなかったという話も残っているようだ。

昭和42年にデビューした三代目開運号だが、前年に成田空港建設が決定していたため本格的特急電車としては設計されず、暫定特急車として新製されたために外観は通勤電車そのものだったが、車内はロングシートではなく向かい合わせシートが並び、トイレもついているという変わりダネだった。また将来京成がその地の利を生かして今のスカイライナーを走らせることもこの頃内定していたという。

そして昭和47年2月、京成は新空港線(成田-成田空港、現在の東成田)を建設、同時に先代スカイライナーのAE車(Airport Express)が完成した。

だけどご存知のとおり、成田空港が開港したのはそれから6年も後の昭和53年のことだった。せっかく用意したAE車はデビューできずに宗吾車庫で昼寝の毎日。三代目開運号もそのまま活躍せざるを得なかった。これに業を煮やした(?)京成は、昭和48年の暮れにとうとうAE車で年末年始の臨時特急を走らせ、年が明けた後はまだ空港が開港していないのに「スカイライナー」としてデビューさせた。はっきり言って特急電車のヤケクソデビューは、後にも先にもこれが全国唯一だ。

のちようやく晴れて成田空港が開港し、先代スカイライナーは正式デビューを果たすが、今度は過激派の攻撃に遭い5回も時限発火装置を仕掛けられて被災するなど、明るい話題がなかった。いざ成田空港が開港すると、今度はT-CATからのリムジンバスが大好評となってしまう。上野から出ているスカイライナーは空港駅からバス連絡ということもありなぜか人気がなく、ようやく利用者が増えてきたのは昭和60年代に入ってからの事で、空洞のまま放置されていた幻の成田新幹線の駅が京成とJRの成田空港駅に有効利用されて直接ターミナルビルまで行けるようになってからだった。

平成の世になる頃から、やっと人気が出てきた先代スカイライナーは早くもバトンタッチを迫られる。京成はさらなるイメージアップとサービス向上を図るため、ニュースカイライナーをデビューさせたのだった。AE車はようやく活躍の場を得たというのに引退を余儀なくされ、足回りを通勤電車に譲った。

このニュースカイライナーにも謎が存在する。それは一見のっぺりしたように感じる正面に、よく見ると扉がついているのだ。それは何のためかというと、実はこの電車は成田空港と羽田空港を直結する特急としても計画されていたのである。
正面の扉は非常口。地下鉄の都営浅草線を走るには保安上これが必要だった(車両火災が起きた時、電車の前後に乗客を誘導するため)。そして京急空港線の羽田空港延伸によって羽田と成田を結ぶ特急が実現するはずだったのだが…
結局京成、東京都、京急、公団、北総の5社による話し合いがつかず、計画は宙に浮いてしまった。それに両空港を京急・都・京成を介して乗り継ぐ客が思ったより少なく、実現の見通しすら無いのが実情だろう。

そしてもう一つの謎。これは先代スカイライナーAE車も同じだが、実はどちらも既に京急-都営浅草線-京成という路線は経験済みなのだ。というのも、これらの電車が造られたのは金沢文庫にある「東急車輛製造」という電車メーカーで、線路は駅構内で京急に直接つながっている。新車として京成へ搬入する際には京成の電車を金沢文庫まで迎えに呼び、前後をガードされて夜な夜な京急-都営浅草線-京成のルートを走って宗吾車庫へ向かったのだという。

ということで、ニュースカイライナーの正面非常口は今のところ地下鉄直通という機能では生かされていない。いつの日か成田空港と羽田空港を直結する特急としてデビュー出来るのだろうか…でも晴れてその日が来ても、正面非常口が「本来」の役目を果たさないよう…。


おまけの話。京成上野駅から日暮里までは地下区間だ。昭和8年の暮れに開通したが、上野公園にある御料池の下を通るというので御前会議にまでかかったといういわく付きの路線。しかも終戦間際に国に接収されて、日暮里から線路を繋げて国電の防空壕兼車庫として使われたり、高価な客車を疎開させるために蒸気機関車が地下区間に乗り入れていたという話で、事実この区間は煤だらけのままだ。今では1駅区間だけど、かつてこの間には2つの駅が存在した。一つは「寛永寺坂駅」で、これは日暮里の近くで地下区間の端あたりにあった。昭和22年に廃止されている。

もう一つは「博物館動物園駅」で、これは近年まで存在したので知っている人もいるだろう。開通当初は美術館口と動物園口が設けられ、特に美術館口は大理石造り風の凝ったデザインだったことで有名。駅構内の壁には動物の絵が描かれた。しかし利用者が極端に少なく駅は荒廃の一途を辿り、戦後は朝7時から夕方6時までのパートタイマー駅になってしまい、現在は休止されたままである。

それが…この2つの駅は今でも電車から確認出来るのである。というのも駅の照明は点いたままになっており、電車はこの間カーブが多いのでゆっくりと走るからだ。特に博物館動物園駅は動物の絵は黄色に塗り潰され、駅の柱には駅名がレトロな字体で書かれたままになっていて、薄暗く誰もいないその空間は、まるで幽霊でも出て来そうな感じがして、恐怖を感じたのはボク独りではあるまい。


スカイライナーは、なぜかあまりいい話に恵まれていないようです。かって名乗った「開運号」の栄光を思い出して、一花咲かせてあげたいものです。地上にある上野公園の桜のように。

次は、臨海副都心のアクセスについての話です。

【予告】ゆりかもめの謎

【参考文献】

鉄道ジャーナル 1974年10月号 特集・日本の心臓 東京の鉄道<第1部>
鉄道ファン 1990年10月号 特集:東武・京成特急ものがたり

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