関東私鉄ストーリー

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 ●「あさぎり」の謎

小田急とJR東海の共同運行となっている特急「あさぎり」は、小田急新宿とJR東海の沼津までの間を毎日4往復走っている。今でこそ共同運行となっているが、1991年3月までは小田急からの乗り入れだけが行われていて、しかも御殿場どまりだった。

「あさぎり」の乗り入れ先は御殿場線。その御殿場線はかつて東海道本線という日本を代表する幹線だった時期がある。明治維新後、鉄道が文明開花とともに作られるが、関東と関西を結ぶメインルートは中仙道沿いと言う事が閣議(当時は廟議といった)決定されていた。それで山岳ルートで橋を架け、山を掘り線路を延ばそうとしたが所詮技術力がなかった当時のこと、計画はあっさりと変更され東海道ルートがメインルートとなった。しかし中仙道ルート同様、天下の険である箱根を超えるのは並大抵なことではなく、とりあえず富士山の北側を経由して西を目指すルートとなり、明治22年2月1日には国府津-沼津間が開通、追って7月1日には東海道本線の全通をみている。その御殿場経由ルートは連続する坂のために、マレー式という特別な機関車も必要とした。その機関車は神田の交通博物館に今でも保存展示されている。

この御殿場経由ルートは全通時こそ単線だったが直ぐに輸送量が不足し、のち複線化される。そして人の行き来も増え、急行列車が運転されるようになるが、当時一流レストランであった食堂車は、あまりの重さに勾配区間は連結しなかったという事実もあったようだ。

こうして華々しい活躍ぶりを見せた御殿場ルートだったが、昭和9年12月1日、熱海経由で山を貫く「丹那トンネル」が開通して、そちらが東海道本線になって今に続いている。一方御殿場ルートはただのローカル線に格下げされ「御殿場線」を名乗ることになった。さらには戦争末期には折角複線化されていたのが「不用不急の路線」ということで上り線が撤収されて、単線に戻ってしまった。

戦後の復興も進み、富士山・箱根一帯はリゾートとして再び賑わいを見せるようになった。小田急は箱根側からだけでなく富士山の北麓、御殿場からの観光ルートを確保すべく、昭和30年10月1日より御殿場線に乗り入れる事になった。

でも御殿場線が電化され、電車が走ったのはもっと後のこと。小田急はどうやって御殿場直通を果たしたのかというと、ディーゼルエンジンで走る専用車を作ったのだ。開業当初から電車ばかりの小田急には実績がないため、足回りは基本的に国鉄に準じるものとしたが、問題は御殿場線の勾配。小田急と御殿場線の接続点の松田から御殿場まではずっと25パーミルの勾配が続く坂道。当時のディーゼルエンジンでは、1基では到底この坂を登ることは出来なかったため2基搭載することになったが、その設計にはかなりの苦労があったらしい。ただし車体は小田急オリジナルだった。

また小田急にとって初めてのディーゼルカー運行とあって乗務員の養成が問題となった。結局自社では無理であったため、国鉄の千葉にあった専門の養成所で教習を受けることになった。のちに小田急では経堂の車庫に養成所を開設したが、今度は東武妻沼線(現在廃止)がディーゼルカーを導入した時に、同様に小田急で東武の乗務員養成を行ったという。

乗り入れに関しては国鉄側の意向もあり、小田急ディーゼルカーは御殿場線内を準急としてデビューする事になったが、小田急線内は松田までノンストップで時間を惜しんで走る事になったので、特急扱いとする「特別準急」というヘンな肩書きがついてしまった(ただし小田急の社内ではこれを略した「特準」がニックネームになったという)。こうして小田急からの準急「銀嶺」「芙蓉」2往復が新宿-御殿場間にデビューした。

小田急から国鉄御殿場線との境界、松田には両社を直接スルーで繋ぐ連絡線がつくられた。また一般的には他社乗り入れ列車は境界となる駅で乗務員が交代するのが通例だが、この小田急からの直通列車は松田で交代することなく、小田急の乗務員がそのまま御殿場まで乗務するという異例の運転となった。

この直通準急列車は好評で、のち4往復に増強されているが、この本数は今も変わらない。通常は1両だったが、多客時は2〜3両で小田急線を疾走し、御殿場線の山道を駆け上っていたディーゼルカーだった。しかし松田-御殿場間の連続勾配には泣かされたという。試運転の時こそ所定の性能を発揮出来たものの、実際満席の乗客が乗るとそのぶん手荷物も多く、夏場などはオーバーヒートとの闘いだったといわれる。また冬場も富士山から吹き降ろす寒風が新宿への帰りを待つディーゼルカーをすっかり冷やしてしまい、なかなかエンジンがかからず苦労したという。

この頃から全国で私鉄がディーゼルカーを新製して国鉄に乗り入れるケースが増えてくる。名鉄は「たかやま」(のちの「北アルプス」)で高山線直通を再開、富士急行も国鉄急行「アルプス」に併結するディーゼルカーをつくり新宿乗り入れを実現した。南海電鉄も同様に紀勢線乗り入れ用ディーゼルカーを追加、九州では島原鉄道が博多・小倉・長崎などへと足を伸ばしていく。

昭和43年7月、御殿場線は電化され活躍を続けてきた小田急ディーゼルカーは引退することになった。御殿場線直通の任は、NSE車にロマンスカー主役の座を譲り、乗り入れ用に改造されたSE車改めSSE車が引き継ぎ、列車名は「あさぎり」に統一された。小田急ディーゼルカーは関東鉄道に売却されて、第二の活躍をすることになった。

SSE車「あさぎり」は初めディーゼルカー時代と同じく「特別準急」だったが、名鉄「北アルプス」同様に国鉄の列車制度改正により直ぐに急行となり、小田急線内では「連絡急行」となっている。
「あさぎり」の好評ぶりには変わりはなく、多客時はSSE車を2本連結した10両編成で運転することもあった。

実はSSE車「あさぎり」がデビューした頃、既に乗り入れ先を御殿場から沼津へ延ばす話はあったという。しかし国鉄との協議は遅々として進まず、SSE車の年齢を考えた小田急は、とりあえず後輩のLSE車を御殿場線乗り入れ可能な性能を持たせて新製したものの、こちらは「あさぎり」として運転されることはなかった。

昭和60年頃になってようやく沼津延長問題は本格化を見せ始めた。この間黙々とSSE車は小田急新宿と御殿場を結んでいた。国鉄はJRに生まれ変わり、御殿場線はJR東海に所属することになった。
この頃から「あさぎり」沼津延長という長年の懸案は、ようやく進展を見せる。その結果「あさぎり」の沼津延長が決まり、電車は両社共同開発のものを走らせるという事になった。これは表向きにはそうなっているかもしれないが、実際には老朽化著しいSSE車の置き換えは早急に実現しなければならなかったし、JR東海も「あさぎり」に参画して小田急に乗り入れれば、新幹線以外での東京都内乗り入れが出来る…という思惑があったのだろうか。

平成3年3月16日、三代目「あさぎり」がデビューする。今度は小田急・JR東海両社が電車を新製し、列車は特急に格上げされた。ここでようやくSSE車は任を解かれ、実に23年近く続いた御殿場通いに終止符を打つ。同時にディーゼルカー時代からの伝統である、小田急の乗務員が御殿場までそのまま乗務する点も終わりを告げた。

今の特急「あさぎり」は小田急RSE車と、JR東海はたった1編成しかない371系で仲良く2往復ずつを担当している(JR東海の371系が検査で使えない時は、小田急RSE車が代走する)。両方の電車ともに2階建て車があって、その2階席は小田急初の2クラス制となるスーパーシートがお目見え、JR車はグリーン車となった。

富士急行の新宿乗り入れは中央線のディーゼル急行の電車化と共に終わり、逆に国鉄の電車が富士急行に乗り入れる形に変わって現在に至っている。島原鉄道のほうは併結する列車が電車特急になってしまったこともあり、乗り入れは中止されている。南海も同様だった。名鉄「北アルプス」は平成13年9月30日をもって廃止になったのは記憶に新しいところ。

しかし小田急「あさぎり」の御殿場線乗り入れは現在も続いており、伝統の4往復体制もそのままである。


鉄道会社同士の直通運転は、今では長距離の優等列車はすっかり減り、逆に大都市圏での通勤電車直通運転が華盛りです。都営浅草線を介したそれは、4社による直通に発展している位です。

次回は意外な繋がり…という「謎」の話です。

【予告】地下鉄「つながりグランブリ」の謎

【参考文献】

鉄道ファン 1996年6月号 特集:小田急ロマンスカー (株)交友社
鉄道ファン 1991年6月号 特集:御殿場線ウォッチング (株)交友社
鉄道ピクトリアル 1999年12月臨時増刊号 <特集>小田急電鉄 鉄道図書刊行会

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