関東私鉄ストーリー

お待たせいたしました。ご乗車ありがとうございます。

こんどは関東の方々にも満足頂きましょう。さぁ出発進行!!


 ●小田急ロマンスカーにまつわる話

「箱根」と言えば温泉?それとも駅伝?温泉と答えた人は、間違いなく小田急ロマンスカーを利用した事があるはず。

ロマンスカーの歴史は戦前にさかのぼる。昭和10年6月、週末午後の下り1本だけの運転だったが新宿―小田原間をノンストップ、所要時間1時間30分で結んだ定員制特急が始まり。その後新宿発時刻の変更があったようだが、戦争の影響により昭和17年3月いっぱいで戦前の小田急ロマンスカーの幕は一旦降りる。

戦後の復活は比較的早く、昭和23年10月には土曜は下り1本、日曜は下り1本上り2本の計2往復の特急が走り出したが、所要時間は1時間40分と戦前よりもスピードダウンしてしまった。それは戦後まもなくでは無理からぬ話で、この頃はまだ荒廃が残っていただろうし、電車部品の調達もままならなかっただろう。その中で週末の温泉特急復活というのは、さぞ明るいニュースだったに違いない。

さてここまでの特急は今のような特急専用車ではなく、箱根湯本直通でもなかった。そこで昭和25年夏には終戦直後ゆえ私鉄の電車新製は当時自由設計は認められておらず、「運輸省規格型」ではあるものの特急電車1910型がデビューし、特急は毎日運転を開始する。車内には近年まで続いた喫茶コーナー(日東紅茶。のち森永乳業も参加)が設けられた。また小田原から先をつないでいた箱根登山鉄道を改修して箱根湯本乗り入れが実現した。つまり現在の小田急ロマンスカーの原型はこの時出来上がったといえよう。

箱根登山鉄道への乗り入れは容易ではなかったのは余り知られていない。今ではそれどころか小田原―箱根湯本間が小田急だと思われても仕方ないくらい小田急の電車ばかりが走っている。
実は箱根登山鉄道のレールの幅は1,435mm。一方小田急は1,067mm。電圧も箱根登山鉄道は600V(現在は750V)だが小田急は1,500V。このままでは直通運転なんて出来ないはず。そこで小田原―箱根湯本間は内側にレールをもう1本増設してレールを三本としデュアルゲージ化、どちらの幅でも運転できるようにした。また電圧の問題は、小田原―箱根湯本間は小田急の電車がそのまま乗り入れ出来るよう1,500Vに電圧を上げ、箱根登山鉄道の電車を両方の電圧で運転出来るように改造して(箱根湯本―強羅間は従来どおり)うまく使いこなすことになり、現在に至っている。小田原から先に乗る機会があったら、ぜひご覧頂きたい。

このようにどんどん便利になり、戦後の復興も進んできたことから特急の増発が実現する。今度は「戦災復旧車」という名義だったが、特急専用設計1700型が登場した。この電車は「特急は停車駅が少ないから、ドアの数は少なくてよい」という小田急の思想によりドアは3両で2箇所と割り切ったものとなり(この考え方は後のSE車、NSE車が手動ドアでデビューしたことに発展した)、車内の設備もグレードアップ。

戦後の電車技術の向上はめざましく、昭和32年6月、低重心、軽量、高速化された特急専用車、SE車(Super Expressの略)が登場する。しかも車両と車両の間に台車をつけた「連接式」を本格的に採用した。この電車は当時の国鉄からの技術支援も受け、性能も当時トップクラスで優れたものとなった。川崎重工で製作された第二編成は直ぐには営業運転には就かず、小田急社長と国鉄総裁との間で取り交わされた文書に基づき、国鉄東海道本線で行われる高速度試験に臨むことになった。昭和32年9月27日に函南-沼津間で行われた試験では、このレール幅としては世界新記録の145km/hを記録、SE車は一躍タイトルホルダーとなった。小田急ロマンスカーSE車の優秀性がこの時認められた。これらの試験結果はのちの東海道本線特急「こだま」、そして東海道新幹線に受け継がれたと言っても過言ではない。

このSE車から小田急ロマンスカーは「ピポーの電車」としても親しまれていく。これは電車の接近を「気づかせる」警報という発想の転換だったが、オルゴール音を鳴らしながら走るのがロマンスカーの証でもあった。

ただしSE車のデビュー当時は冷房装置が完全に実用化されておらず、搭載が見送られてしまった。SE車に改造によって冷房が追加さたのは昭和38年のことだった。それも1両につき4席分のスペースを割いて床置き式クーラーを取りつけたのだった。

SE車は画期的なデザインで長く特急として小田急で活躍したが、そのデビュー直前にはすでに特急の輸送力は不足していて小田急現場サイドからは「SE車まで待てない」という意見があった。そこでSE車の2年前に暫定特急車の2300型がデビューしている。しかし、SE車の増備によりデビュー4年後には早くもリタイヤし、ドアを増やして準特急(のち特急増発により廃止)に、そのまた数年後にはドアをさらに増やして完全な通勤電車になってしまったというかわいそうな電車だった。

続いて昭和38年1月、前面展望がウリのNSE車(New Super Express)が華々しくデビューした。子供の頃、誰もが一度は憧れた、あの展望室のロマンスカーである。この電車は「安全」「快適」「経済」「豪華」「魅力」「高速」の6文字を英語にしたSafety、Economy、Deluxe、Attractive、Comfortable、Speedの頭文字をとった「SEDACS」(セダックス)とする予定であったが、それでは長くて親しみにくいせいか「NSE」に落ちついたという。また小田急の検修部内では「ニューS」と呼ばれていた。
重視された高速性能は設計最高速度170km/h。新宿-小田原間を60分で結ぶことに主眼が置かれ、同年11月からはそれに近い62分運転となった。ただしその後の運転本数の増加によりこれ以上の短縮はならなかった。
前面展望室というのは当時イタリア国鉄ETR300系の特急「セッテベロ」を範としたものであり、その優雅なデザインは「いつかは日本で…」という思いを抱かせるに十分であっただろう。それが昭和36年に名鉄「パノラマカー」で実現、2年おいて小田急ロマンスカーでも実現した。両者は関東と中京という土俵の違う場所で活躍することになったが、のちにその「冷房」という話題で顔合わせを果たすとは、誰も思わなかっただろう…。

★SSE車(3000系)

先輩格のSE車は昭和43年になって大きな転機を迎える。国鉄御殿場線直通の「あさぎり」に転用するために編成の組替え、前面のリメイク、床置き冷房から屋根上置き冷房への換装、足回りの強化、塗装の変更等ですっかり生まれ変わり、SSE車(Short Super Express)として再デビューする。そして平成3年3月まで、実に34年間も特急専用車として君臨した。

リタイヤ直前には1編成が静岡県は大井川鉄道に移り急行「おおいがわ」として走っていたが、これは動態保存的な要素だった。地方私鉄では輸送力が大きすぎたのと老朽化により、のちに廃車されたのは残念である。

日本の鉄道史上大きな功績のあったSSE車は、5両のうち3両は引退時そのままの姿で、残り2両はSE車に復元され、今も大切に保管されている。

★NSE車(3100系)

NSE車は小田急ロマンスカーの地位を確立した大スターである。同時にあの流麗なスタイルは引退した今も十分通用するものである。新宿駅特急ホームに停まっているNSE車を見て、あるいは色鮮やかに走り去る姿は、誰でも「乗りたい」という思いを抱いたのには間違いないだろう。

しかし昭和50年頃から、冷房の効きが悪いという欠点がクローズアップされた。

このため冷房能力をアップと車内をリニューアルする工事が行われることになった。これは自社では行わず愛知県は豊川の「日本車輛」という電車メーカーで行われることになり、そのためにNSE車は松田から国鉄線に入り、東海道を機関車に牽かれて愛知へ運ばれたのである。そこで起こった事実とは、前述の名鉄パノラマカーとの最初で最後の顔合わせだったのである。

そして実際に工場搬入のときに、小田急NSE車と名鉄パノラマカーという、直接対決はしないライバル同士の対面が実現したという。

★LSE車(7000系)

さて昭和50年代も半ばともなると、SE車やNSE車の世代交代が現実味を帯びてきた。そこで登場したのがLSE車(Luxury Super Express)で、昭和56年にデビューした。デザインはNSE車のキープコンセプトであったが、近年リニューアルされている。また走行性能はある目的があってパワーアップされている。

そのパワーアップの理由は、この頃から国鉄御殿場線直通の「あさぎり」を中心に頑張っていたSSE車の老朽化が目立ちはじめ、そろそろ取り替えを考える時期でもあったからだ。そのためこのLSE車は国鉄御殿場線という勾配の多い線路でも十分性能を発揮出来るように設計されていたのである。

しかし当時国鉄は分割民営化を控え「あさぎり」の世代交代という問題はなかなか本格化せず、結局それから10年以上もSSE車が今の「あさぎり」であるRSE車・JR東海371系の登場まで老体に鞭打って活躍を続けなくてはならなくなり、LSE車の「あさぎり」デビューは幻となってしまった。

しかし…LSE車も先輩SE車同様、国鉄に貸し出されて高速試験を行っていたのである。もっとも今回の試験は最高速度を出すものではなく、国鉄が在来線特急のスピードアップを図るため、国鉄所有の特急電車との比較研究を行う目的だった。

SE車以降の小田急の特急は伝統的に連接構造を採用していて、これは電車がカーブを走る際に線路に掛かる力(横圧という)を軽減して高速走行しやすくなる大きなメリットがある。一方国鉄はコンベンショナルな1両ごとに台車が二つ付いている構造。その両者の比較研究と当時最高120km/hだった特急を、130km/hにする性能試験も兼ねていた。
走行試験は昭和57年12月10日から12月15日まで、東海道本線大船―熱海間で行われた。この試験は土日も行われ、鉄ちゃん電車撮影の名所だった根府川鉄橋では「国鉄線上を走る小田急LSE車」という極めてレアな光景をカメラにおさめようと、多くのファンが掛けつけたらしい。

試験の結果、在来線特急は全国でスピードアップを遂げた。それには小田急LSE車の功績を無視する訳にはいかないであろう。

ロマンスカーはその後前面展望室をそのままとし、一般客席の床の高さを上げたHiSE車(High Super Express)が昭和62年12月に登場したが、これは小田急ロマンスカー史上最後の連接構造、前面展望室となった。
続いて平成2年12月「あさぎり」置き換えとしてJR東海との共同開発のRSE車(Resort Super Express)が登場。この電車から連接構造をやめてコンベンショナルなボギー方式になったが二階建て車2両が連結された。
そして平成8年3月、ながらく小田急ロマンスカーのトップスターの座に君臨したNSE車の置き換えとしてEXE(Excellent Exprsess)が登場した。この電車はロマンスカーのコンセプトを大きく変える事になったが、実は小田急線は増発が出来ないこともあり、箱根系統と江ノ島系統の特急を連結して運転して、少しでも効率を上げようという事情があったからである。日東紅茶・森永乳業の「走る喫茶室」は平成5年3月28日(日東紅茶)、平成7年3月26日(森永乳業)と続けて撤退、今は小田急レストランシステムの車内販売だけとなってしまった。

「小田急ロマンスカー」をこれほどポピュラーにしたNSE車は平成11年7月で惜しまれつつから引退した。そのNSE車をイベント用に改造したアンコールサービス的電車「ゆめ70」も翌平成12年4月26日の運転をもって引退。
SE車は日本の電車史上、特に性能面で保存価値があるが、NSE車は「箱根へ行く=展望室のある小田急ロマンスカー」の地位を確立した高速電車としての功績が大きい。こちらも1編成が保存されている。

最新型のEXEは汎用性も高く小田急ロマンスカーを代表する地位を得たが、必ずしもイメージーリーダーには成り得なかった。平成14年度からはEXEに代わってHiSE車が再び駅のポスター等に登場したのだ。というのも一般に「小田急ロマンスカー」といえば展望室というイメージが浸透してしまっており、家族連れを中心にしたアピール度では全く太刀打ち出来なかったようだ。
こうしてHiSE車はデビュー後10年以上を経て小田急ロマンスカーのトップスターの座に返り咲いたものの、新型ロマンスカー50000系VSE車が登場、引退の道を歩むことになった。


ロマンスカーにはこんなにたくさんの「まつわる話」があったのです。そして今日も箱根へ、江ノ島へ走りつづけています。それだけでなくJR沼津まで乗り入れています。

次回は引き続き小田急の事を、そのJR乗り入れについての「謎」の話です。

【予告】「あさぎり」の謎

【参考文献】

鉄道ジャーナル 1974年1月号 私鉄名車物語9 小田急SE車<3000系> (株)鉄道ジャーナル社
レイル No.1 1980summer 小田急ロマンスカー プレス・アイゼンバーン
鉄道ファン 1996年6月号 特集:小田急ロマンスカー (株)交友社
鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション2 小田急電鉄1960〜70 鉄道図書研究会
名列車列伝シリーズ8 特急はこね&パノラマ展望列車 イカロス出版

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