関西私鉄ストーリー

本日も御乗車、ありがとうございます。

このページでは地下鉄銀座線ストーリーに引き続き、私鉄王国関西のことを紹介致します。

 

●阪急京都線の謎 目指していたものは…

この話の前に、近鉄のことを話しておく必要がある。

近鉄の前身は今の奈良線を開業させた「大阪電気軌道」(以下大軌)。この会社は後に伊勢進出を試みるが、他社(大和鉄道。今の近鉄田原本線)が先に免許を取得、これを買収して「参宮急行電鉄」(以下参急)を設立、昭和6年3月17日、大阪上本町−宇治山田間が全通する。名車2200系による特急「神風」(時代を感じるネーミング!)が疾走した。

大軌はさらに名古屋進出を計画、桑名−大神宮前を結んでいた伊勢電鉄を買収する。伊勢電鉄はその名のとおり伊勢進出を果たしたものの名古屋進出はならず、メインバンクの四日市銀行の取りつけ騒ぎに巻き込まれて経営難に陥っていた。
ここで大軌は社名を一旦関西急行鉄道とするが名古屋進出を実現。その後陸上交通事業調整法により南海鉄道を合併することになり、「近畿日本鉄道」となる。ただし不本意な合併をさせられた南海は戦後すぐに独立する。

こうして近鉄はその後も小さな吸収合併を経て、日本一の大私鉄になる。「近鉄特急」といえば一つのブランドとなり、ビスタカー、アーバンライナー、伊勢志摩ライナー等のヒット作を生み出したのは有名な話。

大軌が名古屋を目指した頃、関西には同様に名古屋進出を計画していた会社があった。

それは京阪電鉄だった。

京阪は傍系の「名古屋電気鉄道」を設立、それにより名古屋への路線を建設するものとしたが、これは大軌が別会社の参急を設立して伊勢を目指したのと同じ手法だった。

この鉄道は京阪の高速新線、新京阪がまだ大阪−京都間を開通させる前の頃、当時の京阪の役員、大阪、名古屋の有力者が設立したもの。計画ではまず新京阪の支線を西向日町(今の西向日)から分岐、山科を経て大津の馬場までつくり、 そこから先は名古屋急行電鉄の手により草津、八日市、永源寺、菰野を経て鈴鹿越えをし、そのまま名古屋の熱田までを結ぶという、実に雄大な計画であった。路線免許は昭和4年6月29日に下りた。

しかし…いざ着工という時になり日本にも世界恐慌の影響が及んできた。その結果名古屋急行電鉄の実現はおろか着工さえも怪しくなってきた。数回にわたる工事施工期限延長願を提出したものの、とうとう昭和10年7月8日、工事施工期限延長願は却下され、同時に路線免許を失効してしまい、1本のレールを敷くことなく、名古屋急行電鉄は幻に終わったのである。

こうして京阪の名古屋進出は失敗に終わる。幾度の苦難を乗り越え、成功を収めた近鉄とは全く対照的である。

この名古屋進出の足跡は、京都線西向日駅に見ることが出来る。この駅は名古屋への分岐点として大きなものになる予定であったという。
現在は駅の両側に駐輪場などがあるが、同じ規模の駅と比べて大きなスペースが確保されているのは見て明らか。また名車の誉高い新京阪デイ100型(P-6とも言われる。のち阪急100系)の一部が、耐寒・防音構造であったのもこの計画があったためと伝えられており、大軌の名車2200系同様に大きなスケールでの運転が実現していたのかもしれない。


今この計画が実現していたら…阪急梅田駅1号線からは河原町行き特急と名古屋行き特急が運転されていたのでしょうか。はたまた京阪あるいは新京阪が天神橋筋六丁目から名古屋行き特急が…。とにかく、大阪−名古屋間の鉄道輸送は大きく変わっていたことだけは確かです。

次は本当にこんな話あったの?!という逸話です。

【予告】国有鉄道との深〜い関係

【参考文献】

関西の鉄道 1987新春号 近鉄特集PartU 関西鉄道研究会
関西の鉄道
1989新春号 阪急電鉄特集PartU 関西鉄道研究会

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