地下鉄 銀座線ストーリー

本日は御乗車ありがとうございます。
ここはお馴染み地下鉄銀座線の事を、ちょっと裏側まで紹介するページです。

 

 ●上野広小路・三越前の謎

千代田線に「赤坂」という駅がある。駅名板にはその下に(TBS前)と書いてある。括弧書きならまだしも、銀座線の上野広小路駅はその下に括弧なしで「上野松坂屋前」と表示がある。いやそれ以上に大胆なのは「三越前」だ。百貨店名がそのまんま駅名になっているではないか。 どうしてこういう事になってしまったのだろう…。

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東京地下鉄道が上野−万世橋間の建設を始めた時は、もともと上野広小路という駅は計画になかったのが話の始まり。路線の工事が進み、少しずつ地下鉄が形になってきた頃、松坂屋側から「百貨店と直結する駅を造って欲しい」と要望があった。これを受けて東京地下鉄道は設計を変更、上野広小路駅を追加した。

その際、東京地下鉄道と松坂屋は、松坂屋が駅の床、壁、通路、コンコースの建設費を負担する代わりに、駅構内の広告は他の百貨店のものは一切出さないという協定を交わしている。また当時は地下鉄の急行電車運転計画があり、上野駅とたったの500mしか離れていない上野広小路は、もし通過駅になったら松坂屋は大きなダメージを受けることは必至であるせいか、急行電車の停車駅とすることはもちろん、駅の廃止や移転もしないという旨、協定書に書かれていた。

「本停留場ハ之ヲ廃止若シクハ移動セザルハ勿論将来急行電車運転ノ事アルモ通過駅トナサザル事。」(協定書第1項)


こうして松坂屋の願いどおり、上野広小路駅が開業した。駅の壁や床は店内と同じ物を使ってあり、営団地下鉄の駅ではスペシャルバージョンとなる念の入れ様だ。ちなみに銀座線の急行電車は現在までに運転されたという記録は残っていない。

さて、この駅が出来るずっと前、まだ上野−浅草間の工事中の大正15年、三越本店は「地下鉄が三越前に達した時は、直接三越に出入り出来るよう駅を作ってもらいたい。費用は三越が支弁する」との請願書を東京地下鉄道に提出している。その後昭和6年、地下鉄の進捗と共に三越と東京地下鉄道は「駅名を 三越前とする。広告スペースは無償提供とする。」という条件で契約を交わし、三越の全額負担で翌昭和7年、三越前駅がオープンした。
 

駅の壁タイルには三越を象徴する3本の赤い線が入れられていて、これも駅としてはスペシャルバージョンである。

駅の清掃は三越が担当しており、さらに特別な床ワックスまで使っていたのだとか。

上野−浅草間の開業後の新橋方面への延長期は開業当初の勢いも衰えて、東京地下鉄道にとって資金難の時代であったはず。当時世の中も不景気で、そのような時に二つの駅の建設費用をバックアップしてもらえなかったら、現在の銀座線は存在しなかったかもしれない。


ここで問題は、何故今でも駅名や駅の中が改修を重ねてはいるものの当時のままなのか、と言う事だ。

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この前の話「地下鉄ストアの謎」で書いたが、ここでもその中の話同様、東京地下鉄道の時代にテナントと契約した内容については、営団地下鉄で半世紀以上経過し、さらに東京メトロとなった現在もそのまま有効となっている。
銀座線の混雑緩和を目的として作られた半蔵門線も同じく三越前を名乗っている。そのため契約解消をしない限り永遠にこの二つの駅は「上野広小路
上野松坂屋前それと「三越前」のまま、デパートの一部として機能し続けるのである。


 
銀座線が「私鉄」だった時代の名残がこの話と前回の話なのです。契約が今でも有効というのは、地下鉄博物館の営団OB氏から聞いて、改めて銀座線の歴史の深さを知った次第です。

次回は悲運の駅についての話です。

【予告】 万世橋の謎

【参考文献】

鉄道ジャーナル 1974年10月号 特集「日本の心臓 東京の鉄道 第一部」 (株)鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル 1974年11月号 特集「日本の心臓 東京の鉄道 第二部」 (株)鉄道ジャーナル社
鉄道ファン 1986年11月号 特集「日本の地下鉄1986」 (株)交友社
鉄道ファン 1991年9月号 特集「営団地下鉄50年/6000系電車20年」 (株)交友社
鉄道ファン 1994年1月号 特集「全国地下鉄事情」 (株)交友社
鉄道ファン 1998年6月号 特集「地下鉄ネットワーク」 (株)交友社
私鉄電車のアルバム 1A (株)交友社
ぴあMAP 東京・横浜 '98〜'99 ぴあ(株)

【協力】

帝都高速度交通営団(現:東京メトロ) 地下鉄博物館 地下鉄互助会(現:メトロ文化財団)

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