地下鉄

銀座線ストーリー 番外編

丸の内線・都営浅草線・そしてモノレールの謎

本日も御乗車ありがとうございます。
ここは、もう少し違う裏側を紹介するページです。

 
 
●丸の内線の謎

営団地下鉄(現:東京メトロ)の「戦後」は、丸の内線の着工に始まったと言っても過言ではないと思う。昭和26年4月、まず池袋−御茶の水間からスタートした。この時なぜこんな区間を…と思うのが本音だが、実は御茶の水から先のルートが確定していなかったからだという。

しかも工事中、埋まっていたものが次々と出てきたらしい。貝塚、ナウマン象の骨、旧海軍司令部の地下壕に始まり、茗荷谷では頭と胴の離れた人骨が一度に20数体見つかったという。これは江戸時代に隠れキリシタンを閉じ込めた牢があって、処刑された人達だろうと言われている。

ここから先は神田で今のJR線、銀座線と連絡する予定だったという。また銀座は通らずに直接日比谷へ向かう事が考えられていた。これらの案はまず神田付近の密集地に新たに地下鉄を通す技術が当時なく、後に現在の淡路町経由に落ち着いた。銀座経由となったのは日比谷のビル街の基礎の下を地下鉄が掘り進むのには、これも当時無理があったため(現在では基礎を切り離して荷重を受ける工法が可能)。そして中央通りの下を走る銀座線よりも、少し離れた外堀通りを進んだために、今の銀座駅は「西銀座」という別の駅名でスタートしている。
その後昭和39年に日比谷線が開業した時に西銀座駅は銀座線も含めた3線が接続する総合駅として再スタートし、駅名は「銀座」に統一された。

この名残が首都高速KK線の高架下の「西銀座デパート」。丸の内線はあっさりと西銀座というネーミングを放棄したが、逆に地名としては定着してしまったようだ。

こうして徐々に路線を延ばした丸の内線ではあるが、池袋駅はJR線の下にホームを作らなければならなかったため、仮のホームで一旦開業している。今の駅より200m新大塚寄りにあったという。また新宿駅も西口の開業は後になってからで、東口だけで暫定オープンした。

さて今でこそ丸の内線は池袋−荻窪・方南町間であるが、じつは新宿から先は「荻窪線」という別の路線を名乗っていた。しかし実際は今と同じく丸の内線が直通している。この状態は意外にも昭和47年3月いっぱいまで続いた。今でも丸の内線に新宿止まりがあるのはその名残なのだろうか。

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  ●都営浅草線の謎

都営浅草線は長らく都営1号線と名乗っていたのを知る人は多いだろう。それが新宿線の開業を機会に浅草線と改称。同時に6号線は三田線となった。この何号線というのは運輸大臣の諮問機関「都市交通審議会」で決められたもので、その中から営団の建設路線と東京都の建設路線を振り分けているから。

でもなぜ建設順じゃないんだろう。実は基本的に品川からJR山手線外回りと接する順番だそうだ。

品川-泉岳寺間は都営浅草線じゃなくて京浜急行線である。これは東京地下鉄道が今の京浜急行と「密約」を結んだ時の免許を、そのまま生かしたからだ。しかし東京都の都市計画路線1号線の一部という特例となっている。最近になり京浜急行線からの「快特泉岳寺行き」なども走るようになったのがその証拠。

しかも都営浅草線は複数路線からの直通運転ではダントツ。元祖「どの会社の電車が来るのか判らない」とでも言えようか。最初は東京都、京成の相互乗り入れに始まり、のち全通して京浜急行が加わる。この頃はお互い乗り入れ区間が決まっていたが、夏や年始の直通運転に端を発して、そのうち北総開発鉄道や住宅都市整備公団(今の都市基盤整備公団)などが加わり、ますます混沌としてきた。こんな感じでゴチャゴチャなのが都営浅草線の楽しいところ。

いよいよ悲願の羽田空港乗り入れが実現して、羽田と成田が一本のレールで繋がった。現在では直通電車が多数運転され便利になったのは事実。

この話は京成の努力なしには実現しなかった。実は京成のレール幅は浅草線直通までは1,372mmで、京急、都の1,435mmとは異なっていた。さあ、どうする。京成はレール幅を広げる策を採った。

京成は全線を82の工区に分け、終電後に工事を行うことにした。予行演習として傍系会社の新京成線の工事を実施、10日で完了した。その後準備工事を経て昭和34年10月9日、千葉−幕張間から工事開始となり、電車の運行も全部を普通電車とする体制としたが運休はせずに、12月2日、日暮里−上野間をもって全線のレール幅が広がった。

似たような例は西の近鉄でもあった。名阪特急「アーバンライナー」が走る名古屋線はもともと近鉄ではなく、伊勢電鉄という別の私鉄(戦前に関西急行電鉄という名で近鉄に吸収合併されている)だった。これはレールの幅がJRと同じ1,067mm。現在の近鉄を築いた大阪電気軌道・参宮急行電鉄(現:大阪線・山田線等)は1,435mm。そこで名古屋線のレール幅を広げて大阪と名古屋を直通する計画が昭和30年代半ばに計画されていた。
今は架け替えられてしまったが、名古屋線木曽川・長良川・揖斐川鉄橋は国鉄関西本線の払い下げだった。逆に戦時中はこれらの橋が爆撃で被害を受けた際、当時未電化だった関西本線に急遽架線を張り、関西急行電鉄(現:近鉄)が乗り入れたという記録もあるという。

そこに伊勢湾台風の来襲で線路の多くが水没してしまったため、これを機会に当時の社長の鶴の一声で、予定を早め復旧工事と同時進行で一気にレール幅を変えてしまったのである。これで大阪と名古屋は繋がり、新幹線開通まで名阪間の輸送は近鉄特急ビスタカーがリードする結果となった。

でもそれまで近鉄名古屋線と名鉄が直接繋がっていたのを知る人は少ない。名鉄はレール幅1,067mm。近鉄名古屋駅と名鉄名古屋駅の間には、かつて地下の連絡線があって団体輸送に限り直通運転が行われていた。これは一時的にではあるが、伊勢神宮と熱田神宮、そして豊川稲荷がレールで繋がっていたという事実でもある。

おっと。話がそれた。

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  ●そしてモノレールの謎

モノレールといえば代表的なのが東京モノレール。だけど最近は大阪や北九州にもモノレールが都市交通に進出しているので一概には言えない存在だ。それでモノレールの謎ってあるの?という感じがするが…。

昭和50年代以降の航空大衆化により施設面での問題が続出した羽田空港は、昭和59年から東京湾を埋め立てて今の場所への移転する一大プロジェクトが行われた。羽田空港沖合展開である。この時モノレールは新ターミナルまで延長され。京浜急行も空港地下へ乗り入れた。さて、それまで終点だったモノレールの羽田駅はどうなったのだろうか。

旧ターミナルへは今と同じく地下で乗り入れていたが、整備場駅の先は単線となって地下に潜っていたのに気づいた人はいると思う。そして今の天空橋駅は前の羽田駅とは別のものである。

実はこの部分(整備場〜羽田)の土地は空港の所有者である運輸省(現:国土交通省)から借用していたものであって、当然元に戻すことが義務づけられていた。本来ならトンネルも駅も全て壊されているはずだ。だがホントはそうではない。
まず整備場駅から地下に潜っていた部分だけは、それまでのレールや橋脚は撤去された(ちょうど航空保安大学校の前あたり)。ただしそこから先の川をくぐって旧羽田駅の手前まではかつてのB滑走路の真下を通っていて、この部分はもともと上を通る飛行機の荷重に十分耐えられるような設計となっていた。そこで壊すのは大変だろうということで前後にコンクリートの壁を設けて、空洞のまま残すことになった。だから
トンネルは永久にそのままとなってしまった。

旧羽田駅はトンネル部のように滑走路の下ではなかったから、強化設計とはなっていなかった。現B滑走路はこの旧羽田駅の上を通ることが決定しているために、原状に復旧するよう運輸省との話がついたらしい。旧駐車場に鎮座していた、あの大鳥居も引越しを余儀なくされた。

現B滑走路は無事に共用開始されたが、駅の躯体が取り壊されたのかどうかは…もしかすると旧羽田駅は1人としてこない乗客を、今でも土の中で待ちつづけているのかもしれない。


ながらくの御乗車、お疲れさまでした。地下鉄銀座線ストーリーは番外編を含めて、これにて終了いたします。

本当に、本当にありがとうございました。

【参考文献】

鉄道ジャーナル 1974年11月号 特集「日本の心臓 東京の鉄道 第二部」 (株)鉄道ジャーナル社
鉄道ファン 1991年9月号 特集「営団地下鉄50年/6000系電車20年」 (株)交友社
鉄道ファン 1998年8月号 京急-東京都-京成 三社直通の30年 (株)交友社
鉄道ピクトリアル 1981年12月号増刊 近畿日本鉄道特集 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 1994年7月号 東京モノレール羽田新線開業後日談 鉄道図書刊行会
車両発達史シリーズ2 近畿日本鉄道 特急車 関西鉄道研究会


【協力】

帝都高速度交通営団(現:東京メトロ) 地下鉄博物館 地下鉄互助会(現:メトロ文化財団)

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