旅日記Vol.50 遂に開館した鉄道博物館 (すみません、今回はちょっと長いです) 2007.11.13 東京・埼玉

埼玉県大宮市といえば、古くから「鉄道の街」として知られている。というのも、大宮には国鉄時代から続くJR東日本の大きな車両工場があり、現在も首都圏で走る多くの車両がここで検査を受けたり、修理を受けたりで常に大賑わいだ。その大宮の地に鉄道の殿堂をつくろうという動きはかなり前からあったのは事実で、とうとう平成19年10月14日、つまり鉄道の日…昔の言い方をすれば鉄道記念日に、かつて東京の万世橋にあった交通博物館が蘇った。

「鉄」とすれば開館後すぐにでも訪ねたいのはヤマヤマだが、開館前から既に多くのマスコミに取り上げられ混乱は避けられない。しばらく様子を見て…と思っていたらそろそろANAのマイレージの今年末期限切れが迫っていて、その後溜まった分をあわせると国内線1区間分は楽にある。だったらタダ旅行と決めたのは言うまでもない。

 ★東京へフライト

当日の金沢はどうもスッキリしない空模様だったが少しずつ好転しそうで、既に雨は上がっていた。前回『レイル・ストーリー13』取材の時は、あわや寝過ごして乗り遅れというスカタンをやらかしてしまった(笑)が、この日はちゃんと目覚めてキチンと旅支度も済み、余裕を持って出発…だったが小松空港へ向かう途中の道路の混み具合は前回以上で、ちょっとハラハラする始末。無事空港に着きセキュリティゲートを潜ると程なくボーディング開始。機は主役の座を後輩に譲りつつあるB747-481Dだ。珍しく地上で機長のアナウンスが始まった。巡航高度は29,000ftと国際線並みをリクエストしたようだ。

NH752便は定刻8:45にプッシュバック開始。エンジンが始動する。最近乗るたびにR/W24だったがこの日はR/W06からの離陸だ。南端までゆっくりとタキシングし、ローカライザー施設が見える頃にはベルト着用サインが数回点灯して離陸を知らせてくれる。ショートホールドすることなくそのままローリングテイクオフ。

左旋回して再び小松空港上空に差し掛かる頃には雲の中に。何度か変針の後、左手には白山が見えてきた。先日の寒波ですっかり雪を被っている。ベルト着用サインが消灯。いつもならしばらく飛ぶと岐阜や名古屋だと判るものだが、どこか違う景色が続くなあと思ったらどうやら浜松へ直接引っ張られたようだ。いきなり富士川や駿河湾が見えて驚いた。太平洋側は晴天で伊豆半島や伊豆大島がくっきり。やがて三浦半島が見えた頃にはディセンドを始め、そのうち再びベルト着用サインが点灯。木更津から羽田空港R/W34Lへ向けてファイナルアプローチ。

金沢と違って東京は暖かな晴天。まずは京急で品川へ向かい都内で一箇所次回作に備えて取材を済ませて大宮へ向かう。たまにはのんびりと…と思って京浜東北線に乗ったが、途中で高崎線や東北線、湘南新宿ラインとの緩急接続が出来ていないのは、関西馴れしたボクには不満といえば不満。これだけ距離があるんだから全く独立した運転形態ではなく、同一ホーム乗り換えなど配慮は出来なかったものだろうか。おかげで持ってきた文庫本の進むこと。

大宮でお昼を食べてさあ鉄道博物館へ!ここから埼玉新交通ニューシャトルで1駅だ。駅へ向かうと信じられない光景が待ち受けていた。

 ★いよいよ鉄道博物館へ

ホ・ホントに今日は火曜日?平日?もしかして祝日の間違い?って思える程駅のホームで次の電車を待つ人の列は小学生くらいの子供を連れた家族客ばっかり!確かに最近は学校を休ませてまでTDLなどへ遊びに行くという話は聞いていたが、まさかここ鉄道博物館でも同じ現象が起きているとは思っていなかった。ただしこれは衝撃の事実の一つに過ぎなかった。やがて黄色の小さい電車がやってきて、そんな人波にもまれて次の鉄道博物館(大成)駅へ。

D51 426号がお出迎え駅と鉄道博物館は直結されていて雨でもスムーズに入れるようになっている。入口にはかつて交通博物館同様にデコイチことD51の426号機の先頭部が入館者を待っている。入館を含め館内での施設利用などもSuicaのシステムが導入されていて、入口右手がSuicaでの電子チケット購入、左側がSuicaを持たない人の貸し出し用カード用ブースとなっている。ボクはSuicaなのでここで「記録」するだけ。駅と同じ改札機を通って入館。つまり紙の「チケット」は存在しないことになる。時代だなあ。それにしても見学客は9割方が家族連れ。

以前は交通博物館でも大きいなあと思ったのに、ここ鉄道博物館はとても広い。数多くの車両が屋内に納められている。

まずは記念すべき1号機関車。ズバリ「陸蒸気」である。いかにもイギリス製らしいトーマスにも通じたデザインだ。国鉄で使われた後は九州の島原鉄道に転じ長く活躍したが、その証が進行方向左側(公式側)水タンクに残されていた。このように鉄道初期に導入された蒸気機関車はのち私鉄に移籍した例が多い。連結されている客車は「マッチ箱」と呼ばれた四輪単車で、これだけが館内唯一のレプリカ。あとは連綿と日本の鉄道に足跡を残した重要な車両ばかりである。また創世記の車両として「善光号」こと1293号機関車が置かれているが、これは東北線・常磐線の始祖となった日本鉄道が工事用に輸入したもので、陸揚げしたところに程近いお寺からその名を取ったとか。
本州の鉄道がイギリスに範をとったのに対し北海道ではアメリカからの輸入が行われた。典型的アメリカンスタイルで人気がある弁慶号と開拓使号客車が展示されている。これら歴史的車両を前に「真っ黒な電車だね〜」。唖然。

1号機関車 義経号 箱根越えに活躍したマレー機関車
1号機関車 義経号 9856号マレー式機関車

その隣の9856号機関車は東海道本線がまだ御殿場経由だった頃、峠越えのために導入したマレー式というもので、ボイラーで発生した蒸気を二度使い、シリンダーと動輪を二組持つ特殊で強力なものだ。かつて交通博物館時代は1階の中央に置かれ存在感を示していたが、この鉄道博物館はそれを感じさせない大きな建築物というのが判る。

蒸気が唯一の動力だった鉄道にやがて電気やエンジンが加わる。廃止されて久しい信越本線横川-軽井沢間だが、碓氷峠というこの区間は急勾配のため「アプト式」というレールの間に歯車を設けて坂を克服していたのを知る人は多いはず。当初は蒸気機関車が導入されたがトンネルの多いこの区間では乗務員も乗客も煙に悩まされ、国鉄で最初に電化されている。輸入機関車に続いて国産第一号として誕生したのがED40型電気機関車だ。しかも大宮工場で製作されたもので、ゆかりの地での展示ということになる。また東海道本線用にイギリスから輸入されたED17型や、国電のルーツである院電(当時は鉄道院だったのでこう呼ばれた)ナデ6141、甲武鉄道(現在の中央線)デ963は松本電鉄ハニフ1として引退後も保存されていたのは知られていたが、鉄道博物館へは最後に展示が決まったという。

このナデ6141という電車を見ていたら、「シク」と小さな字で書かれているのに気づいた。そこにおよそ場違いな(失礼)20代とおぼしき女性二人連れがいて…

「「シク」って、どこの電略か知ってる?」
「知らない…」
「新宿だよ!」

こんな二人の会話が!だいいち「電略」なんて専門用語をこの若い女性が発するとは全く思えなかった。もしかしてJR職員か、そうでなければ筋金入りの「鉄子」ということになるだろう。しかもファッションもメイクもバッチリ。大変恐れ入りました!この日一番のサプライズ。

以前の横須賀線電車のような色の車両はキハ41300という気動車。戦前の生まれでローカル線などに投入された。当初はガソリンエンジンを動力としていたが、これはまだディーゼルエンジンがポピュラーではなかったからだ。出力も小さく従って車体も小柄で車内の座席なども低く作られて軽量化が図られていた。戦後は開発の進んだディーゼルエンジンに換装して活躍した。
特急「つばめ」の展望車マイテ39も展示されている。ここは戦前の欧亜連絡列車のホームという設定になっているが、実際この客車は戦後復活した特急「平和」「つばめ」まで活躍したもので、最後まで残った1両だ。戦後、仲間が車内の装飾が洋風だったのが世相に対応したのに対し、装飾が純日本風のままだったのが災いして予備車的扱いだったという。

オハ31 ダルマストーブ
オハ31型客車 歴史を語るストーブ

やや短い茶色の客車は車体が初めて鋼製となったオハ31。でもこの車両は「ストーブ列車」と言うほうがしっくりくるだろう。国鉄を引退してからは青森の津軽鉄道で活躍したもので、長い一生を終えた後もずっと保存されてきた。ただし北国の厳しい風雪に耐えてきた車体の傷みは酷く、大々的なレストアが行われて展示されたという曰くつきの車両でもある。
車内にはストーブがそのまま残され、デッキ近くには取り外された津軽鉄道時代の車体の外板や、取り替えられた雨樋なども展示されている。

津軽鉄道時代の外板など
津軽鉄道時代の外板など

もう1両の茶色の車両はモハ40型電車。ここも戦前の中央線ホームが再現されている。電車は戦後もなお各地で活躍し、北陸でも富山港線に足跡を残した。

ヒストりーゾーンの中心はC57型蒸気機関車135号が、ターンテーブルという機関車の向きを変える回転台に載っている。この機関車は国鉄で最後の蒸機旅客列車を牽いたことで有名で、引退後当時の姿のまま交通博物館で展示された。今回も展示車両の中心的役割を担っているようだ。

C57 135号機 「パック」EF58 89号機
ターンテーブルに載るC57 135号機 「パック」ことEF58 89号機

戦後の車両に目を移すと、まずはEF58型電気機関車だ。最近まで現役で活躍し「パック」の愛称で親しまれた89号機が茶色に身をまとい展示されている。この車両は戦後の特急「つばめ」なども牽引したが、昭和31年11月の東海道本線全線電化の際にそれまでの茶色から青大将ことライトグリーンに塗り替えられ、電化完成「つばめ」1番列車を牽いた記念すべき機関車である。晩年は東北線に移ったが、役目を終え廃車予定のところ正面窓のひさし(ツララ切りという)が残されていたのが決め手となり、急遽生き延びたというエピソードが残されている。

ターンテーブルの奥にはかつての新潟駅と上野駅が再現されている。新潟駅には特急『とき』で活躍したクハ161が、上野駅には特急『ひばり』『あいづ』などで活躍した485系電車のクハ481とモハ484、急行『まつしま』『ときわ』などで活躍したクモハ455が、新幹線開業前の雰囲気までも伝えている。
上越線を走った161系電車は、東海道新幹線開業までスターの存在だった「こだま型」151系電車と共に足回りを強化して181系となったものだが、「鉄」の心理から言えば展望車「パーラーカー」のクロ151があれば…と思うのは間違いないだろう。国鉄電車史上、営業車として空前絶後の豪華さを誇ったものだ。後年は普通車に大改造されて、現存していない。ちなみにクハ161には、当時の車内販売の姿がリアルに再現されている。そういえば、子供の頃母親が描いてくれた電車の絵は、いつもこだま型だった。

クハ161 車内販売でございます
特急『とき』クハ161 車内販売のお姉さんがいた

485系電車と455系電車の中は、弁当などの持ち込みが出来るため、ここで食事をとる見学者も多いようだ。ただ北陸線ではズハリ現役の電車(455系は475系だが)。クハ161も車内は485系とほぼ同じ。カーテンや座席の生地などの違いを除けば、席につくとクハ161ではまるで金沢駅で『雷鳥』に乗ったかのようで、『サンダーバード』を逃してまた『雷鳥』…という、いつもの雰囲気そのものだった(爆)。また455系は北陸線の普通電車みたいで、およそ展示物という感覚は…北陸線沿線からの見学者にはないと言っていいだろう(笑)。

クハ481 クモハ455 まるで発車前の『雷鳥』? 次は金沢です(嘘)
特急『あいづ』クハ481 急行電車クモハ455 クハ161の車内は… クモハ455の車内も…

同時期にはブルートレインこと寝台特急も花盛りだった。今は夜行列車そのものが凋落しているが、かつて「走るホテル」ともてはやされた20系客車からはナハネフ22が展示されている。車内には入れないが、窓越しにベッドが見える。子供の頃は青い流麗な車体を見ただけワクワクしたものだった。

元祖ブルートレイン20系 クモハ101
「ブルートレイン」ナハネフ22 中央線オレンジのクモハ101

また高度経済成長期以降、首都圏や関西の国鉄で活躍した101系電車はエポックメイキングな存在だった。ボクの子供の頃の絵本には「オレンジ色の国鉄電車。下には都電が走ります」とあったのを母親が読んでくれたものだ。後継の103系電車は、だいぶ趣を変えたとはいえこれもまだ現役。101系電車だって譲渡先の秩父鉄道ではまだ活躍を続けていて、鉄道博物館の開館を記念してかつてのオレンジ色(中央線)やカナリアイエロー(山手線→中央緩行・総武線)、それにスカイブルー(京浜東北線)に車体の色を戻したという。
この電車の横では制御器のしくみを、実際のマスターコントローラーやブレーキ操作で体験できるコーナーがあり、ノッチを入れると制御器が作動しホントにモーターのついた車輪が回る。ブレーキをかけるとちゃんと停まる。速度計も圧力計も台車も全て本物。OB職員さんが指導しているが、順番をついているのは子供ばかり。子供は体験ではなく興じるだけで、それを親がビデオ片手に「良かったね〜○○ちゃん」。

今ではすっかりトラックに主役を奪われた貨物輸送も、かつては鉄道が主役だった。全国で活躍したDD13ディーゼル機関車をはじめ、高速貨物列車の主役EF66型電気機関車やコンテナ貨車コキ50000、冷蔵貨車レムフ10000もまた見逃せない。特にこのコーナーでは下関でフグを積みこんでいる光景が再現されていて、木製のケースや氷、フグもリアルである。EF66電気機関車は、そのスタイリングに鉄は色めきたったのは事実。ブルートレインの先頭にと誰もが思ったが、後にホントに牽くとは誰が想像しただろうか。しかもなお現役。また今も東北線などで活躍しているED75型電気機関車も並んでいるが、この775号機はもともと羽越本線・奥羽本線用に投入されたもので、日本海からの季節風対策として屋根上の機器を極力少なくし、塩害に備えている。

EF66 フグの積み込み中
EF66型電気機関車 フグの積み込み風景

新幹線からは「元祖」の0系から博多寄り先頭の21型の先頭部が展示されている。これは交通博物館時代に玄関前に置かれていたものだ。また東北・上越新幹線の200系222型も。どちらもリニューアルされた仲間が今も走っている。

先ごろJR東日本では皇族用・VIP用として特別車両ことE655系を製造したが、これらは「御料車」として長い歴史がある。ここ鉄道博物館でも展示されているが、デリケートな車体であることと、車歴の問題もあって空調完備のガラスで仕切られた中に納められている。その先頭にはずっと青梅の鉄道公園にあったC51蒸気機関車の5号機が、まるで安住の地を得たように展示されているのが印象的だった。

さて2・3階に目を転じてみよう。2階は半分近くが吹き抜けとなっていて、間近に見た車両を上から眺めることが出来る。改めてその広さを実感した。壁面に沿って75mにも及ぶ鉄道年表が貴重な資料とともに展示され、日本の鉄道の歴史がいかに長いかが判ろうというものだ。
同じフロアには企画展示が行われるスペシャルギャラリー、以前からの収蔵品や模型を紹介するコレクションギャラリー、鉄道図書・雑誌が閲覧出来るライブラリー(土・日・祝日のみ)がある。

2階にはHOゲージの大きな鉄道模型ジオラマ(「鉄」ならレイアウトと言うが…)があるのだが、ここでも運転時間を待つのはかなりの数の子供連れ。とても入れたものではない。早々に退散だ。

これだけ大きな施設だからゴハンを食べられるところもある。1階にはかつての食堂車のメニューなども再現したその名もズバリ「日本食堂」、2階にもスナックを出す「Td」というのがあるが、どちらも人でいっぱい。ちゃんと食べてきて正解だった。ちなみにTdというのは電車の食堂車を表す記号で、なかなか「鉄」の心理をついたネーミングだ。
1階にはミュージアムショップもあるのに順番待ちで店にも入れない始末。

1階から3階に亘って鉄道のしくみを紹介するラーニングホールがある。こちらは体験学習が目的なのだがフロア毎に目的が違っている。この中で1階には簡単な工場があり、かなり簡略化されているものの分解整備などの実習(ただし子供向け)を行っている。

今日も一日安全で行こう、ヨシ! 安全確認ヨシ!
まるで本物の工場並み 只今打ち合わせ中

「工場」にはちゃんとチェーンブロックなども完備されていて、なかなか本格的!大きな標語は職場の朝礼を思い出した!(笑)。ちなみにこの日の作業はは台車の分解整備だった。

同じく1階では団体向けに駅業務の体験も出来るようになっている。キップの発売から改札、ホームでの業務などかなり本格的だ。京葉線を引退したクハ103がカットモデルとして使われている。外にはミニ運転列車(ただし有料)もあるが、これは遊具ではなくちゃんとATS-PやATCなど信号保安システムにのっとった運転が必要というものだ。ノースエントランスとメインエントランスを結ぶミニシャトル(新幹線『はやて』のミニチェア版)は無料。外にもお弁当などを持ち込める455系電車2両(本来は団体向け)も置かれている。

奥の動態保存庫には国鉄引退後、最後は茨城交通で役目を終えたキハ10型気動車が、デビュー当時の姿に戻って走る機会を伺っていた。

D51のシミュレータ鉄道博物館には交通博物館時代から受け継がれた205系と211系の運転シミュレータがある。今回は実際の乗務員訓練に使われた209系シミュレータも追加されたが、なんといっても今回の目玉はD51 426号機のシミュレータ(有料)だ。世界でも蒸気機関車の運転シミュレータは珍しいが、これは一切妥協を許さない本格的なもので、圧力計などの計器もちゃんと作動し、それらを注視しながらの運転操作は正に本物。振動も再現されている。
電車のシミュレータは子供の玩具と化していたが、さすがに蒸気機関車は「鉄」以外を寄せ付けない。まだ開館したばかりのため運転は1人の初級モードだったが、最終的には助士の投炭も含めた2人での運転も可能という。それもただ石炭を投げ込むだけではきちんと燃焼せず、ちゃんとした「火床を作る」必要がある。「牛が寝ている」という最悪の状態になると機関車はまともに走らない。
ただし蒸気機関車の運転操縦はかなりの難度。電車とは全く違う。既に予約は一杯で体験出来なかったが、見ているとつい「リバー50%!」「ドレン切って!」など、つい口をついてしまう。

結局想定外の子供連れの波に酔ったような気分で、鉄道博物館を後にした。

 ★あとはちょっとだけでおしまい

大宮からは湘南新宿ラインで新宿へ。サザンテラスのスタバで一息入れてからフラッグスのオシュマンズへ行くとたまたまセール中(嬉)。でも買ったのはPUMAのタンクトップ1枚とシューズの滑り止めスプレーとCD2枚。御徒町へ移動してジュエンへ行ってみたが、こちらではBAPROのソックスを買っただけ。
もう少し時間がありそうなので「鉄」な本でも買おうと神保町の書泉グランデも。今回はこれだけ。

外に出るともう東京は夜の帳。いつもなら夕方の便で小松へ戻るところだが、この日はレッスンがないので夜の便をチョイス。時間的にはちょっとラクだった。都営三田線を三田で降り都営浅草線に乗り換えると、うまく羽田空港行き急行に乗れた。
ボクはめったにモノレールは使わない。というのも、沿線には職場と同じ施設がいっぱいあって、どうにも現実に引き戻されてしまうのがたまらない。それにエ●ラの大きな工場も…。京急ならそんな思いをせずに羽田空港へ行けるというものだ。しかも羽田空港駅が第一・第二両方のターミナルを貫通しているのでJAL系・ANA系どちらにも行けるのは便利。

途中で座れたのが幸いして空港線に入るとウトウト…。軽くゴハン食べて帰ろうと思っていたのにANAのある第二ターミナルは本格的な店ばかりで、とてもサッと食べられるところがないのは難点かも。昔の羽田など「お急ぎの方のメニュー」なんてのを用意した店があったはず…。Skipサービスなどせっかく時間を有効に使えるようになったのに、食事を取ろうなどと思ったら逆に空港での滞在時間が延びてしまうのは、あまり意味がないように思える。晩ゴハンは帰ってからにして、セキュリティを通ってホールディングルームへ。

帰りのNH759便は来た時と同じB747-481D。レジナンバーJA8961はかつてのマリンジャンボ。以前沖縄の帰りにJAL便に乗ったら、那覇空港で並んで東京へ向けて出発準備中だったのがマリンジャンボ時代のこの機体だった。
東京からの小松便は通常ブロックタイム60分だが、この便に限り70分。不思議に思うところだが、実は出発の19:30頃は出発便のラッシュで、滑走路の端で相当待たされるためだろう。以前7機が渋滞しておよそ30分近くも待たされたコトがあった。どうやらその分を見込んでいるようだ。
幸い離陸待ちは3機で済み、R/W34Rからローリングテイクオフ。しばらくは東京の夜景が見えたが、やがて漆黒の中をクルーズ。コンソメスープを飲んだらもうディセンドしていて、やがてベルト着用サイン点灯。小松空港R/W24へ向けてアプローチしていく。もうスクリーンには誘導灯が見える。

タッチダウンするといつもどおりR/Wの端まで行き、エプロンに向けタキシング。すれ違いに東京行きのJAL便が大地を蹴っていった。マーシャラーがおじきをすると、ドアが開いた。

●  ●  ●

今回の旅は鉄道博物館を通して、違う現実を目の当たりにした。

まずは平日だというのに子供連れの多さ。学校を休ませて来るのは常識を疑う。まるで有給休暇を取って「遊びに行く」という感覚なのだ。多くの車両を前に子供がはしゃぐのは判らなくもないが、せめて親が「興味を示す」よう仕向けるのが務めではないか。ここは博物館、決してテーマパークではないということを、まず親が忘れている。車両の中やシミュレータで写真やビデオを撮るのだけが親なのか、その映像は遊びに行った時と並べてよいものか、よく考えて欲しい。
今や運転シミュレーションはパソコンやゲーム機でもかなりリアルに楽しめるようにはなった。ただし鉄道博物館のシミュレータはすべて本物であり、決してアトラクションではない。その意義など殆ど理解されていないのが残念でならなかった。

次に思ったのが鉄道の存在。大都市圏と地方都市では鉄道の存在感は全く逆である。主に電車での移動が多い大都市圏では、鉄道は空気のような存在で、あって当たり前。ところが地方都市ではクルマがその役を引き受けていて、鉄道の存在感は薄い。
しかし両者を比べると、とんでもない共通点が見つかってしまう。いずれにせよ鉄道についての関心があまりない…という点だ。もっとも最近は鉄道ブームなどと言われることがあるが、それは所詮マスコミがつくりあげたもの、これまた現実とはかけ離れている。レジャー感覚の家族連れの様子を見て、こんな調子で鉄道博物館を捉えているのなら鉄道の将来はどうなるのか…と一抹の不安を覚えた。

ここまでの熱意を込めて開館した鉄道博物館。何を伝えたいのだろう。その答えの一つがD51の運転シミュレータなのだ。実際の運転操縦と寸分違わないものをあえて造ったのは、人の命や財産を運ぶことの大切さや難しさを学んで欲しい一心からだったという。長い歴史の中で動力が蒸気から電気やエンジンに代わったように、人々が叡智を結集して作り上げてきた鉄道輸送の意義を学べるのが、ここ鉄道博物館だ。そのための車両たち鉄道遺産であり、シミュレータであり、ジオラマなのである。

いずれまた、静かに訪れてみよう…そう思った。

トップに戻る