学園ぱらだいす
第一話 許されぬ恋
東鳳学園。
二−C。
出席番号二一。男子で一番最後の出席番号。
壬生京介は、今日も元気だ。
卵形の顔に、柔軟でしなやかな体躯は、彼が間違いない美少年であることをあらわしている。
光を通してみればようやくわかるような深い緑色の髪に、まだ中学生臭さを残している柔らかな頬。それに瞳。
彼は、一人暮らしでこの学園に通っている。
今日、彼の許嫁がこの学園に引っ越してくるので、これから、彼女と二人暮らしすることになる。
以前小萩荘というオンボロアパートに住んでいたが、今日引っ越しセンターに任せて引っ越しをした。
お袋が来てくれるというから、ほおっておいて大丈夫だろう、と考えていた。
引っ越し先は、お好み焼き屋明星の側にあるハイツ安曇という高級マンションだ。
彼は、極真空手の道場で頭角を現しつつある実力派だった。
鳳町の隣町にある極真空手の支部では、高校生の中でトップクラス実力を持っていたが、いまは諸所の事情から休んでいる。
彼の成績は、地方大会では優勝。全国大会では五位入賞。注目度ナンバー1の若手として一度雑誌に載った。
学校では、ためしに入った剣道部で初段をとり、それなりの実力を発揮している。とくに、後の先――つまりは、カウンターのことだ――をとることに関しては素晴らしい才を発揮した。
空手をやっているので見切りがうまいからだろう。
3−Fの里見舞が卒業したときには、部を引っ張る期待の星として注目されている。
極真空手有段者ということもあって応援団に何度も勧誘され、困り果てたので剣道部に入部したのだが、今では剣道部期待のホープとなってしまった。
さらに、女子空手同好会から特別顧問として誘いを受けている。極真空手有段者の肩書きは、かなり魅力的なのだろう。しかも、その勧誘が、彼のクラスメイトで男嫌いの須賀小夜子からなのだから、驚きだ。
結局は、剣道部の方を少し休んで、空手を教えている。
京介の学力は、中間の部類。教科の評定で四が何教科かついていて、二も幾つかある。
京介は、C組のドアを開けた。
「おはよう」
京介は明るく挨拶した。
「おはよう」
爽やか君の布施が、これまた明るく挨拶を返してくる。
つづいて、まばらにぽつぽつと。教室には、ほとんどの生徒が登校していた。予鈴が鳴っているからだろう。
「皆さんっ!!」いきなり、榎本が教壇に立った。「なんと、今日、転校生が来ます!! それも美少女」
幾人かがそれを聞いてどよめく。
京介は、一番後ろの席に座り、のんびりと校庭を眺めた。
「名前は香月綾子」
――はいはい、そーですか。
と、呆れる。
「京介」
なんやかやと榎本が演説をぶちまけているのを聞き流している京介に、須賀が話しかけた。彼女が京介に話しかける理由は、一つしかない。
「なに?」
京介は、須賀を見上げる。須賀は、隣の机に腰掛けていた。
「今日、放課後はいい?」
「空手のほうだよな。いいけど」
「ありがとう。いつもすまないね」
「いいってこと。気にすんなって」
ぱたぱたと手をふる。
チャイムが鳴った。
「ほらほら、座った座った」
担任の菊池康が出席簿で手を叩きながら入ってきた。後ろからついてくるのは、香月綾子。京介の許嫁だ。
嘘みたいに髪が長く、それなりにいいプロポーションだ。
サクランボのような唇と、健康的な肌。ぱっちりとした目。きりりとはっきりした眉。すらりと長い足。
まさしく、美少女といっていい。
クラス委員長にしてバイクマニアの汐見恭子が、起立、礼、着席のワンセットをやる。
いつも通りの出欠確認の後、
「みんな、今日、このクラスに転校生がきた。香月綾子さんだ。札幌市からこの高校に転校してきた。お母さんは、大学で助教授の仕事をしていて、お父さんはヴァイオリニストで世界のあちこちをまわっているそうだ。それじゃ、香月さん。自己紹介を」
「はじめまして。香月綾子といいます。前は、札幌の厚別高校に通っていました。転校は始めてなんで、少し緊張してます。みなさん、よろしくお願いします」
味もそっけもない平凡な挨拶だ。
「それじゃあ、香月の席は窓側の女子列の一番後ろだ」
「はい」
小気味よい返事をして、香月は京介のとなりに座った。
京介は、他のクラスの連中にばれないようにウインクする。彼女は、横目でちらりとみて微笑んだ。
「さて、今日の連絡事項だけど……」
朝のSHRが終わると、たちまちクラスの連中が香月の回りに殺到した。
それを見た京介は、表向きは何処吹く風だが、内心蝋燭程度の嫉妬の炎がちろちろと燃えていた。
「ねえねえ、北海道弁言ってみて」
「捨てるっていうのは投げるっていうでしょ。疲れたはこわい……」
「お父さん、ヴァイオリニストって本当?」
「今コンサートでイギリス行ってるのよ」
「北海道って町の中にも熊でてくるの?」
「札幌は出ないわよ」
「道路がまっすぐって本当?」
「本当よ」
「いいなぁ。バイクで飛ばしてみたいなぁ」
「お嬢さん。昼のお食事は、ぜひこの私と」
「は……はぁ」
次々と質問が浴びせられる。香月は、それに几帳面に答えていく。
「香月、教科書買ってあるんだろ」
京介は、横合いから口をはさんだ。
「うん。買ってあるわ」
と、答える香月。
一斉に、香月のまわりに集まっていた連中が京介を注目する。
「しし知り合いなのか?」
どもりながらおやじ。
「幼馴染みだよ」
平然と答える京介。
「なんなんなんなんだと!!」
園田とおやじのすけべコンビがハモりながら叫んだ。
「なんだとって言われてもねぇ。しょうがないよ、こればっかりは。それから、事前にクラスのみんなのこと教えておいたから」
「じゃあ、壬生のこれじゃないんだな?」
徳条進之介が、京介をヘッドロックし、小指を立てながら尋ねる。
京介は、困ったように香月へ視線を飛ばすと、
「徳条君、あの、私、京ちゃんの許嫁なんだけど……」
香月は、京介の救難信号を受け止めてくれたようだ。
なんだ、ばらしてもよかったのか。京介は、ばらそうかどうしようかとさんざん迷ってたのが馬鹿らしくなった。
それにしても、香月、いきなりの爆弾発言。クラス中にどよめきが走る。
もう一人、許嫁がいるともっぱらの噂になっている麻生奈美は、二人の妙に明るい様子をしっかりと見ていた。
「ま、そゆワケ」京介は、ヘッドロックしたまま硬直している徳条に言った。「だから、ヘッドロック、といてくれない」
徳条は、自我崩壊を起こしていた。
「そんな。そんな。こんな可愛いこが、そんな」
「俺の許嫁で悪かったな。早くこの手どけてくれよ」
さすがにムッとして言うと、
「あ、わりぃ」
と、慌てて放してくれる。こんな時、空手やっててよかったと思う。
ちょっとムッとした声を出すだけで、すぐに言う通りにしてくれるからだ。
それでも、京介がこんな事をするのは滅多にない。よほど頭にきたときだけだ。
京介は、力で物をいわせるのは便利だと思うが、好きではなかった。
権力志向の人間も嫌いだ。
「でも、これでどうして京介君が他のクラスの女子ふったかわかっちゃった」
学園内恋愛関係事情通ナンバーワンと称される三宅留美が、しみじみと納得した。
「京ちゃん。それ、本当?」
香月は、じと目で京介を見る。
「え……あ、だってしょうがないだろ? お前いるんだから」
こめかみに冷や汗が一筋。頬がひきつる。
「どうしてそんなことするのよ!!」
京介は、香月の怒鳴り声に、驚いた亀よろしく首を引っ込める。
クラス全員のどよめきがぴたりとやんだ。
「告白されたら、友達ででもいいからつきあってあげなさいって、いっつも言ってるでしょ! ふられた女の子のこと全然考えないんだから」
「俺は、二股かけられないって、いっつも言ってるだろ」
クラス全員が、京介のやり込められる姿に視線を奪われる。
こんななことに関心のない硬派の大原や生徒会副会長の羽山さえもが京介の情ない姿に注目した。
クラスの生徒全員が京介のこんな情ない姿を見るのは初めて出会った。
「なにも、二股かけろなんて言ってないでしょ? 私は、友達でいいから付き合ってあげなさいって言ってるだけでしょ」
「そっちのほうが相手にとって残酷だろ?」
「それは男の論理。女は、友達ででもつきあえたら幸せなの」
「俺はそんなん、やなんだけど……」
「私は、そーゆーのまで嫉妬しないって言ってるでしょ」
「まぁまぁ、ご両人、痴話喧嘩は後にして」
神谷が、ここぞとばかりに仲裁に入った。
「しょうがないわね。この事は、帰ったらきっちり……」
「勘弁してよ」
放課後――
香月は、その日のうちに陸上部に入部した。そして、その日のうちになみなみならぬ脚力を示し、幅跳びと高跳びの選手になる。
その間、京介は、女子空手同好会で基本をみっちりと叩き込んでいた。場所は、柔道場を間借りしている。
もっとも、全員それなりに経験を積んでいる。
同じクラスの李に至っては、八卦掌の使い手だ。彼女は、毎朝五時に起きては、一時間半馬式を行い、半時間を使って八卦掌の功夫をつんでいる。
げに恐ろしきは中国娘。
剣道を休むので、京介も基礎練習に付き合っている。
まさか、極真流の組み手に突き合わせるわけにはいかないので、京介はもっぱら型を教え、組み手の相手をしてやるに止まっている。
そんなこんなで、五時も回ろうという頃になって、練習は終わった。
いつもながら、ほとんど全員が京介のしごき――京介にしてみれば、まだぬるい――にへとへとになっている。なってないのは、須賀小夜子と李麗鈴だけだ。
須賀は、空手の有段者なのだった。
「それでは、今日はこれで終了」
「ありがとうございましたぁ!!」
女子の黄色い返事だ。汗を拭いて着替え、体育館にでると、麻生が待っていた。
「あ、麻生、どしたの、こんなところで」
「あの、ちょっと相談があって。時間、とれる?」
麻生は、辺りをきょろきょろと見回しながら言った。
「いいけど。綾子も一緒でいい?」
「一緒にのってほしいのよ」
「わかった。麻生って、どこに住んでたっけ」
「山の手のほうよ。大丈夫。自転車通学だから」
「じゃ、俺んちで聞くよ。すぐそばだから」
京介は、香月と合流して二人暮らしを始める新居に帰った。もちろん、相談があるという麻生を連れてである。
新居の荷物は、すっかり片付いていた。引っ越し屋と京介の母親が整理してくれていたからだ。新居は三LDKで、バス、トイレ別。ユニットバスでないから、二人は嬉しい。鍵は、カードキー。二人は、念の為それぞれ二枚ずつ持っている。
「凄いところに住んでるのね」
麻生は、その豪華さに目を点にした。バブルが弾けて世は不景気。それでも、こんな所に住めるのだから、学生の分を越えている。
リビングルームの長椅子に腰掛けながら、溜め息をついた。
「それに、二人暮らしだなんて……」
「今日からだよ。二人暮らしは。それに、ここの家賃、全部綾子のご両親がもってくれるから。働いて返していくけどね」
「もう、そんなこと気にしないでって言ってるでしょ!! 何度言ったらわかるの」
香月が、例によって癇癪を起こす。
「だって、そんなん、好かんて言ってるだろ」
「パパとママが気にしないでって言ってるんだから……」
「あの……香月さん」
麻生は、おずおずと仲裁に入る。
「ああ、ごめんなさい。この人、ぜんぜん男らしくないから、つい、ね」
京介君が男らしくなかったら、一体誰が男らしいのかしら。
などと、心の中で香月に問い掛ける麻生。もちろん、そうとは知らない香月は、
「それで、相談って?」
「麻生、珈琲と紅茶、どっちがいい?」
いつの間にか、京介は台所に立って湯を沸かしていた。
「あの、私……」
「もう、私がやるの。京ちゃんは座ってて。男でしょ」
「気のまわらん香月にかわって、俺がやってたんだろ」
台所とリビングルームの間で、また痴話喧嘩を始める。
「こんなとき、男は台所に立たない。女性と一緒に住んでるときは絶対よ」
「あの……」
「だから、俺は、そんなん好かんって言ってるだろ」
「京介君……」
「京ちゃん、私にやらせて」
「香月さん……」
「なんでだよ。俺に最後までやらせてくれよ」
「二人とも私の話聞いてよ!!」
麻生は、自分を無視して言い合いを始めた二人に、とうとう我慢できなくなって、堪らず怒鳴ってしまった。
「あ……」
顔を真っ赤にして口を押さえる。
「ごめんなさい」
二人して麻生に謝った。
「ごめんね、何度も話の腰折って」
香月は、言いながら京介と居場所を交換した。
「それで、麻生さんは珈琲と紅茶、どっちがいい? シナモンティーもあるわよ」
「じゃあ、シナモンティー」
「相談って、なんだい」
「あの……実は……」
彼女の相談というのは、このようなものだった。
端的に言えば、もうすぐ許嫁に会うから、邪魔してほしいというものだった。
深く説明すれば、以下のようになる。
麻生は、新任の英語教師中嶋信彦に一目惚れしてしまった。
他の女子同様、中嶋に告白しようとするものの、まわりの女子に「貴女には許嫁いるんでしょ」と彼の目の前で言われ、落ち込んでしまった。
いつも、見たことのないその許嫁に恋路を邪魔され続け、いい加減に我慢ができなくなっていた。
そんな折り、麻生は、十六才の誕生日に初めてその許嫁に会うことになった。
だから、なんとかしてその場を壊し、すべて精算すると決意したのだった。
ところが、彼女の気持ちを分かってくれそうな生徒は、教室にはいない。
そして、ちょうどよく香月が転校してきて、実は京介と彼女は許嫁であった。
「……それで、境遇的に私の気持ち、わかってくれると思って。お願い。協力して」
麻生の独り言のような悩みを聞いている間、二人は心底真面目に聞いていた。
二人は、お互いが望んだ許嫁だったが、親同志が勝手に決めた許嫁の苦しさも、他の人よりはよくわかっているつもりだった。
それに、ちょっと間違えれば、二人だって麻生と同じ目にあっていたかもしれないのだ。冗談半分に聞けるような内容ではなかった。
「協力するよ。でも、どうしたものかな。俺たちだけでなんとかできる問題かな」
「ねぇねぇ、麻生さん。どんな手段でもいいんだよね」
と、香月が訊く。麻生は、シナモンティーを飲んだまま、こくんと頷いた。
「とにかく、許嫁と別れたいの。見たことのない人と婚約してるなんて、絶対いや。私、恋愛結婚したいの」
「そうなの。じゃあ、こんなのはどうかしら……」
麻生の誕生日は五月三日。
地味なりに目一杯のお洒落をしていた。
親がそうさせたのもあるが、今日、計画通りに事を運べなければ、一生恋愛結婚とは無縁になってしまう。
その決意が、彼女の服装にあらわれていた。
彼女の相手の児玉家の人間は、すでにロイヤルデリカというファミレスで麻生がやってくるのを待っていた。
双方の両親は、二人の邪魔をしてはいけないと、二人だけ出会わせることに決めていたのである。
「やあ、待たせたね」
京介は、ジーンズに生地が薄目のウエスタンシャツ、その上に麻のベストを着て彼女の前に現れた。シンプルイズベスト。
「ほんとに、あいつの無茶な計画でいいのか?」
「無茶な計画で悪かったわね」
後ろから、香月の声。驚いて、京介はふりかえる。
「おいおい、驚かすなよ」
「こんなことで驚くなんて、なんかやましいことでもあったの?」
「あんな計画自体、やましいよ」
中指を立てて、香月に言う。
「あら、そう」
「私は、構わないわ。だから急ぎましょう」
二人は、恋人らしく腕を組んで喫茶店の中に入っていった。後ろから眺める香月。
待ち合わせの席で、麻生の許嫁は窓の外を眺めていた。麻生は、すっと息を吸って、
「私、もうこの人の子供がいるの。この人のことも愛してるんです。だから……」
麻生はおろか、京介さえも許嫁に目を奪われた。
「な……奈美さん。そうだったんですか……」
ふりかえった許嫁は、あの憧れの中嶋信彦だった。
「わかりました。奈美さんには、もう心に決めた人がいたんですか。確か、君は奈美さんと同じクラスの壬生君だったね。奈美さんを幸せにしてやってくれ」
中嶋信彦――正確には児玉信彦(いろいろ事情があって、学園では母方の姓を名乗っていた)は、寂しげに微笑むと喫茶店を出ていった。
「あの……こんな場合、俺はどうすればいいんでしょうか」
麻生は、立ちながら泣いていた。両手で顔を隠し、眼鏡に涙を落としながら、ひたすらに泣いていた。
「参ったなぁ」
連休明けの昼休み、京介と香月はひどく落ち込んでいた。誰も二人に声を掛けられなかった。
麻生は、二人以上に落ち込んで休んでいた。
「だから言っただろ。あんな無茶な計画やめろって」
京介は、香月にむかって言った。もちろん、小声で麻生に聞こえないようにだ。
「仕方ないじゃない。あのときじゃ、あれがベストだったんだから」
確かに、ベストといえばベストな手段であったが、いかんせん強引過ぎたのも事実である。
「そういえばさ、教頭の奴、新任の中嶋先生がいきなり休職願いだしたんで、えらくさわいでたよな」
報道委員の榎本が、京介たちのそばで志賀に言った。彼は、こと学内の情報においては抜群の収集能力を持っている。
「そやそや。確かにそないなこと言うてたな。しっかし、中嶋センセ、いったいなにやったんやろか」
えのもっ
「榎本ちゃん、中嶋先生、今どこにいるかわかるか?」香月も、はっとしてふせていた顔を起こす。
「なんだよ。落ち込んでたと思ったら、いきなり……」
「いいから教えてくれよ。頼む」
銭マークを京介に突き付ける志賀。彼は、こと、カネに関してはうるさく、あらゆるものとことをカネでやり取りする奴だ。
「知ってんのか?」
「銭や」
「いくら」
「そやなぁ。大した情報やないし、五百円でどないや」
「のった! 香月、金頼む」
香月は、財布を出して千円札を渡した。
「志賀さん、おまけするから正確に」
「今頃やと、まだ準備してる頃やないかな。鳳駅から二時に行くらしいで。五百円のおまけや。午後の授業フケるんやったら、俺がきっちり代返しといたるで」
「頼んだ」
京介は、麻生の自宅に電話をかけたが、親の話だと登校したという。
彼女がふけそうな場所を考え、ロイヤルデリカにむかった。
麻生と児玉のすったもんだがあった、思い出の場所だからだ。
案の定、麻生の自転車が止まっていて、制服の彼女が児玉の座っていた場所でぼーっとしていた。
冷えきった珈琲が彼女の前にある。
「麻生、おい、麻生」
「あ、京介君」
「急げっての。中嶋先生がいっちまうぞ。あと十分しかない」
「なに? どういうことなの」
「児玉だよ、児玉信彦。嫌いか?」
首を左右に振った。
「学校辞めて、どっかにいっちまうけど、ひきとめたいか」
頷いた。
「なら決まりだ。自転車借りるぞ。麻生が後ろに乗れ」
京介は、麻生の手を付かんでレジに五百円玉を包んだ伝票を投げ渡し、麻生を荷台に乗せる。
『待ちなさい、そこの学生』
拡声器を通しての声。京介は、後ろを見た。ミニパトだ。
「天の助け! 恭子の姉さん! 円さん!」
『誰? あんた』
拡声器越しの間抜けな質問。
「恭子の同級生の壬生京介と麻生奈美です。乗せてください!!」
と、京介。
『どういう事か説明しなさい』
「麻生の許嫁が町離れるんですよ。とにかく乗せて。事情は中で説明するから」
『まあいいわ。入りなさい』
「やっりぃ! さっすが汐見の姉さん。話せる」
なにがなんだかわからない麻生の手を引っ張って、ミニパトに乗り込む。
「それで、どこまで行くの」
円は、ハンドルを取り、バックミラー越しに二人に尋ねた。
「鳳駅。早く!」
「さっき、許嫁がどうとか言ってたけど、どういう事?」
「誤解で別れたカップルを、元の鞘におさめるんですよ。ラブコメです、ラブコメ。さもなきゃ、月ドラだ。とにかく急いで」
汐見円は、京介の尋常ではない真剣さに昔の血をふつふつとたぎらせ始めた。
彼女は、黒龍館高校の元スケ番。空手家の京介とは、相通じるものがあるのかもしれない。
「なんだか知らないけど、ひっさしぶり燃えてきたぁ。掴まってなさいよ」
円は、サイレンを鳴して鳳駅に突っ走った。
鳳駅につくと、三人はミニパトを飛び下りて改札口をフリーパスで抜けた。
汐見円の警察手帳がものをいう。
立ちはだかる駅の乗務員もなんのその、ホームに駆け込み、止まっている列車を見回した。
「中嶋先生!」
麻生は、運良くホーム側の窓際に一人寂しく座る彼を見付けた。
列車の窓を叩くと、中嶋は麻生に気付いた。
「先生、壬生君とのことは嘘なの。全部嘘。だからどこにもいかないで!」
普段のおとなしい麻生からは想像もつかないくらいの大声で、列車の中の許嫁に訴えた。
信彦は、驚いて荷物を持ち列車を降りようとする。
発車のベルが鳴る。
麻生は、乗降口に立って扉が閉まらないようにする。信彦が出てきた。
児玉信彦は、麻生を抱き締めホームに出た。それと同時に乗降口の扉が閉まり、列車が発車した。
「私、先生が好きで、それで、中嶋先生が許嫁だって知らなくて……私……私……」
次の日、京介は香月と二人でのんびりと登校した。
京介は、昨日結局午後の授業を受けなかった。信彦と汐見円への事情の説明で手間取ったからだ。ともかく、無事この一件は終わった。
なぜ信彦が母方の姓で名乗っていたか。
それは、ここに赴任するとき麻生がいるのを知っていたからだ。世間体も少なからずあっただろう。
麻生は、朝、信彦を見た途端うつむいて赤面した。
信彦はさすがに大人だ。
教師という立場があってか、それとも年齢相応の自制心があったからか、ともかくいつもどおりだった。
ただ一つ、彼がいつもと違う点をあげるとすれば……
歩くとき、始終手と足が一緒に出ていたところだった。
後書き
書いちゃった。
結局書いちゃった。
ストーリーをかなり断片的にしたので、急展開すぎてわけわからんかもしれないし、いろいろと必要な心理描写があるんだけど、かなりはしょって書いたし。半日仕事だし(マジ)。
この麻生奈美というキャラクター、実際のルールに載っているものより、少し明るく書きました。
でも、こうじゃないと書きにくかった。次はなに書くかわからない。しっかし、大阪弁って、むずかしいなぁ。