トモちゃんインドへいく
35分/VTR/1995
Tomo-chan goes India
[解説]
 東村山青空学校という、夏と冬に子どもたちのキャンプを主催するグループがあって、そこで酒のみ話で「いつも秩父とか山梨ではつまらない。いっそインドに行こうか」なんて言ってわははと笑っていたのだが、酒のみ話で終わらせないところがここを運営している人々の凄いところで、本当にインドに行くことになってしまった。その酒のみ話の場にいて「いいぞー、やれー」と盛り上がっていたワタシは、参加する責任があると思い、ビデオ記録係として自費で参加した。
 ところが参加したグループにいた杉山朋子という12歳の少女のキャラクターが素晴らしく、これはもう作品にするしかないと思って、参加者に配付するバージョンとは別に編集したもの。

夢のライオン
14分/8@/1996
Dreamed Lion Dreaming
[解説]
 子どもの頃、近所でライオンを飼っていた店があったというのはまったく本当の話。そのライオンが近ごろ自分の夢の中に登場する。気になる。母親にインタビューしたり、30年前のその場所を再訪したりする。もはやかつての面影などまるで残っていない街。
 夢の中に出てくるライオンは、その背中に女神さまを乗せている。あきらかにそれはヒンドゥー教のドゥルガー女神さまだ。今度はインドの神様ポスターや。インド映画の一シーン、さらにはファミコンゲーム画面を引用して、夢のイメージの出所を語る。
 最後に少年時代の自分(横井俊太郎)が現れ、今の私に「ライオン、どこいっちゃったの?」としつこく聞く。私は「おとなになった君の夢の中でまた会えるよ」と言う。

虚港
80分/8@/1996
A Port in Vain
[解説]
 普通の解説については、フロントページに戻って、ラ・カメラのコーナーでチラシ解説文を読んでください。
 で、まずはラ・カメラ上映でのチラシの解答。私以外の3人とは、|寺本和正。これは簡単。「極星」では幼児。「猫夜」ではカーコのパートでの主人公のようなもの。「虚港」では突然ミニーとゲームをしている中学生で出てくる。}川口善之。「極星」では10分ぐらいの時点で、神岡に「あと5分ですべてがわかる」と言う男。また後ろ姿だが、最後に神岡が出る前の地下水道を歩いているのも川口である。「猫夜」では名古屋で会う男として3作の中ではいちばんはっきり出てくる。「虚港」ではミニーの情報を求めて会う男女ふたりのうちのひとり。~神岡猟。これが一番難しい。「極星」では当初の主人公。「猫夜」ではカメラを持つ3人の内の1人。ところが「虚港」のどこに出ていたかがわからないだろう。じつは、川口のシーンの冒頭、川口の座っている前を通過する通行人が神岡なのだ。わざとカメラに顔を向けて通過させているのだが、そのことが逆に自然に見えるため、わからない。
 いや、そんなことはどうでもいいことだ。せっかくここを見てくれた人のために有益な解説をしなくてはいけない。
 「虚港」のちょうど時間的にまん中の部分は、「チョ〜ット、マッテクダサ〜イ」男が「ロシア人の血が3分の1」について解説している部分だ。軽く見流してしまっていもいいが、じつはここが肝心な部分なのだ。どういうことかと言うと、端的に言えば日本人の血が100%なんてことはあり得ない。それは日本人が混血民族であると言う主張ではなくて、どの民族であっても、それが100%純粋であるという根拠はあり得ないからだ。わかるよね。わからなかったら、ちょっと自分のアタマで考えよう。さて、そうだとすることからどこがどういうという構造を探索すべく文科人類学がはじまるのだが、それは置いておいくことにして、こと映画について、これを100%のフィクションか100%のノンフィクションかという問いに置き換えると分かりやすいだろう。そう、そんなものありはしないのだ。フィクションとノンフィクションの間にグレーゾーンがあるのではなくて、そもそも厳密にわけることなど不可能なのだ。
 じゃあ何が言いたいのかといえば、そのことを積極的に作品に取り込んだり、日常に応用していけば、もっと楽しく生きることができるんじゃないかのぉ、ということだ。それだけ。退屈してたり、面白いことがないと不満ブタになっているひとは、想像力がなくて日常にひそむ外国を開拓できない人間なんだ。これはきっと不幸なことに違いない。

コージョルの鳩
3分/8@/1996
A Pegeon of Kajol
[解説]
 コージョルとはインド映画のスター女優さん。その彼女が出ている映画をビデオで見ていたら不思議なシーンを発見した。ミュージカルの一場面で、コージョルが大空に投げた鳩が、あっけなく墜ちてしまうのだ。これは日本映画の現場ではOKにはならない。それで日本映画とインド映画の違いを考えたりする。そういえばインドには映画の女神さまがいると本に書いてある。その女神さまにインド映画は庇護されているのだろう。では日本には映画の神様はいないのか。あ、映画ではないけれど、踊りの神様はいる。そのアメノウズメという女神さまを主人公に、シナリオを書き始めるが、国造りの案内役であるヤタガラスが墜ちてしまって日本の国は成立しないというオチでめでたしめたし。

V.M.
80分/8@/1997
[解説]
 簡単に言うと「VM」とタイトルあたまについている作品を全部つなげたもの。ただしそれでは芸がないので、新しく15分ほどのフッテージを撮り足している。また簡単な映像パフォーマンスもあるので、私が行けない場での上映はできない。つなげてみると、じつに廃墟趣味に満ちた作品群だったことがわかる。どうやら私にとって廃墟とは、生(V=VIDA)と死(M=MUERTE)が溶解し、融合する場でもあるようだ。

グリザイユ(すべて灰色)
3分/8@/1997
Grisaille (Gray over)
[解説]
「極星」「猫夜」で大活躍の少年、カズがひさしぶりにアメリカから帰ってきてうちにやってきた。それで、カズに彼の母親の若い時の写真を見せる。カズとの距離を測りかねながらボーリングで遊んだり、食事をしているうちに、彼は「ねえ、おふくろと寝たことあるの?」と聞く。その言葉に動揺しながらも、作者の裡に苦々しい記憶がよみがえってくる。カズのおもりを頼まれたことがあったが、その時、じつはカズの母親は男と逢っていたのだ。
 個人映画スタイルの中で、悪意を含む苦々しいものがあってもいいと考えてつくった。しかし、私小説では珍しくもない方法だが、映画という人や物が擬似的に現前するメディアでは、免疫がない人がほとんどであったようで、今のところこの意図を理会したと語る人には出会っていない。残念。

8ミリシューター論理狼
3分/8@/1998
8mmfilm shooter Logical Lonely Wolf
[解説]
 8ミリの大ベテランであるロンリ・ウルフ氏が彼の常用するカメラバックの中身を公開し、解説するという趣向。バックから取り出されるものはいちいち用途が納得できるものばかりだが、どれもできるかぎりかさ張るものにした。また、釣り糸の使用法とコンドームによる血糊袋の使い方は実践映像もあり、いくぶんかは参考になるような配慮もされている。

グータリプトラ
56分/8@/1999
GOOTARIPUTRA
[解説]
 30歳代後半の自作自演らしき主人公の日常がたんたんと綴られる映画。独身の彼は日本酒を愛し、猫を愛し、夜のうろつきを愛し、そして8ミリカメラをおもちゃのようにして日常の道具としている。物語的な展開はいっさいなく、ただひたすら男の部屋でのしぐさや行動、外でのうろつきを描く。
 モトネタを明かせば、山田勇男の「夜窓」を自分なりにやってみた作品。最初に設定したルールは|物語はなし}台詞もなし~主人公(山崎)以外の人間の登場人物なし。これは3重苦のようなものだ。しかし決めた以上はやろうと思ったので、完成までに3年かかってしまった。このことは庭に埋めたミッキーとミニーのオーヴァーラップが春から冬まで続くところで感じ取ってもらえるだろう。8ミリにはネガがないから、これはずっと1本のフィルムをカメラに入れたまま、一度の失敗も許されずにこの作業をするしかないのだ。

往復IV
63分/8@/1999(山田勇男と共作)
Filmletter★oufuku IV
[解説]
 1、2、3のところの解説にもはや付け足すものはない。第4作目。
 ずっとラ・カメラでの上映会をおこなっている時期なので、月に一度は会っている。そんななかで立ちあらわれてくるのは「東京」という主題と「物語」という主題だろうか。

夜にチャチャチャ
14分/8@/1999
Cha-cha-cha for Night
[解説]
 映画はゴダールが言うように「映像と音」で成り立っているが、どうしても映像の方が主で音は従というきらいがあった。それを打破して音(この場合は言葉)が主になるために、レンズをはずして撮影した映像を使用するという方法を思いついた。フジカZC1000だけがレンズをはずすことのできる8ミリカメラだ。これはそれで撮影されている。レンズをはずすと映像は結ばないが、光の強度と混淆した色合いだけは出る。それよりもおもしろいのは、光の入射角がフリーになることで、光源に角度に基づくフレームがそのまま映り込んでくることだ。
 主体となる言葉は、吉増剛造さんの影響が強い言葉になってしまった。これは私が長らく吉増さんをビデオに撮ってあーでもないこーでもないと編集していたのでしかたない。