チラシ裏文章

「ロマンティシズムの刃」山崎幹夫
 私たちはいつも、うまいことダマされたいと願っている。物語の「語る」は、すなわち「騙(かた)る=だます」であるように、コトバや映像によって構築された小世界に身をゆだねて、私たちはどこかに連れていってもらいたいと思っているのだ。で、どこへ?
 ここではない、もっと遠いところ。神秘に満ち、空想の極限の場所。異国。生と死の境界の溶け合うようなところ…。こういう志向をロマンティシズムと言う。これは一種の病いでもある。そして、ロマンティシズムの純潔さを極めようとすればするほど、表現されたものはマイノリティー(少数派)となり、表現者の病いは深まる。
 少年王者館という劇団を主宰する天野天街の映画『トワイライツ』では、主人公の少女はすでに死んでいる。美しいモノクロ画面は郷愁感覚に満ちているが、ここにあるのは安直きれいなノルタルジアではない。すでに終わっている安全なものでなく、血の痕跡のある、いま、ここへとナイフを突き付けてくるようなノスタルジアなのだ。
 しまだゆきやすの『連歌2』では、通俗的ロマンスが冒頭でもののみごとに頓挫してしまう。映画は迷走を始める。ところが、映画はまるで自律的な運動でもみせるかのように、みずからロマンティシズムを獲得していくのだ。迷走の果てに映画が掴むのは、なつかしく透明な光だ。
 米沢光雄の『嘘ノナイ庭』では、物語は痕跡をとどめるだけの存在としてしか描かれない。語らないことで騙ること。抜き差しならぬストイシズム(節制)が、観る側の脳内で豊かな物語を開花させる。
 その究極とも言えるのが小池照男『生態系−9−流沙蝕』と黒川通子『しょわしょわ』だろう。物語ることを厳しく禁じる前者と、引き伸ばすことを禁じる後者。映像の純潔者とも言えるこうした姿勢からドクドクとあふれ出すのは、まぎれもなく研ぎ澄まされたロマンティシズムだ。