チラシ裏文章

「わが捨てる夢」山田勇男
 誰もが海の記憶を巡らすように、この映画は、わが映画回帰とでも名付けよう。
 僕は、東京の夜の沈黙のなかで、ひたすら線路を歩いたことがある。まるで夜の荒野か、海原のようなひろがりをみせた。レールと枕木の空間を見ていると、映画のひとコマのように思えてならなかった。月のひかりが幽かに僕の影をつくる。影が歩き、立止る。叫ぶ声も、ささやく言葉もなく、静かに手を振ると、すうっと影が消える。見渡すと、霧にけむった巨大な魔都の建物の灯りだけが上空に点在している。
「ここより他の場所」などあるものか。そんな独りごとをいいながら、あまりにも遠くにある古郷という旅路の終りを知った。
 ちかごろ、数年前の深夜の出来事がふっと昨夜のことのように思い出され、仕事の帰り、新宿駅東口の、百果園という果実屋の、果の田のところの消えかかる蛍光灯の、その打ち震えるように点る明りをぼんやり見ていた。
 僕の『田園に死す』は、そこから始まっていた。つまり、今は自転車置き場となっている、新宿駅東口のそこで、映画『田園に死す』(寺山修司監督)のラストシーンが撮影された。僕は振り向き、手を振りながら、他のスタッフ・キャストの人々と、新宿の雑踏に消えていった。……そして、僕の映画は、始まった。そんなことを思い巡らせていた。
 映画『田園に死す』は、僕の「映画」の誕生であり、遠きあこがれでもある。
 すこし、この辺で、そのあこがれをさかさまに吊してみようか、と思い始めた。
 夜の線路がスクリーンならば、僕の物語とは何ぞや。そんな時、手元の歌集をひろげた。
  亡き父の歯刷子一つ捨てにゆき断崖の青しばらく見つむ
  漕ぎ出でて空のランプを消してゆく母ありきわが誕生以前
  地球儀の陽のあたらざる裏がはにわれ在り一人青ざめながら
  皺われし冬田見て過ぐ長男として血のほかに何遺されし
  さかさまに吊りしズボンが曇天の襞きざみおりわれの老年
 寺山修司の短歌を読んでいくうちに、急に悲しくなってきた。僕のくやしさに誇りがあるとすれば、そのくやしさはむしろ孤独の精神にある。僕もまた〈本質の方が存在に先行してる畸型児〉だ。
 この映画は、僕の『田園に死す』である。ただそれだけに過ぎ無い。

山崎コメント
●VOL591997 10ここより他の場所
「薄墨の都」 山田勇男 1992 16mm 33分
「夜のフラグメント」 山田勇男 1996 16mm 12分
「ロンググットバイ」 山田勇男 1997 16mm 32分★
 この新作では、あの帽子コート男が、なんと、雪の上に倒れて慟哭する! これだけで山田映画に長年つきあってきた観客はドキンとしてしまう。常に傍観者であった帽子コート男が、20年の歳月を経て、ついにスクリーン上で感情を吐露する瞬間に出会った。ワタシは映写しながら、涙が流れ落ちるのを止めることが出来なかった。ピントが甘かったとしたらそのせいだ。ごめんなさい。
 それにしても山田勇男は映像の達人の域を邁進しているのではないか。映画じたいは30分以上あるのに、画面上で提示されるイメージなり行為なりはますます少なくなっている。歩く。手を振る。ゆっくり倒れる。仰向けに寝ている。それらのきわめて物語を排除し、限定された身振りだけで映画が成立されている。成立されちまっている。これを達人と言わずして何と言うべきか。また、あまりにも美しい白黒画像をつくりだした藤木光次カメラには、いくつかの秘術が施されているのだが、いちいち解説していると単行本一冊の分量になってしまうので、ここではこれで勘弁。