「ヴァリエテは危ない橋を渡る」稲垣大作
 シネマ・ヴァリエテは他のどんな映画にも似ていない、自分だけにしか出来ない映画を作る目的で、80年代中頃、からっ風が吹き、灰色の工場が立ち並ぶ地方都市の片隅で密やかに生まれた。シネマ・ヴァリエテの特色とも言えるダイレクトシネマ・スタイルは退屈な映画、憂欝な日常生活を爆破する為の逆転技であった。(生意気にお芸術である事を拒否したかったのだ。)そんな危ない橋を渡りたくなった若者はズルズルと深みにはまり、賢明な人はさっさと消えた。実際、映画が人生のすべてではないし、もっと面白い事を発見したりするわけだから。ヴァリエテ発足当初から映画を作り続けている人は、実は誰もいない(商業映画を除く)。長年に渡って作品を作り続けることは苦しくて大変疲れる事である。例え好き好んでやったとしても……。先日、「アリスサンクチュアリ」の渡辺孝明監督に「歳を取ったから作れなくなるのはもともと映画が好きじゃなかったからだ。歳を取れば逆に時間が無くなるので、もっと作りたくなるはずだ」と言われ、もっともと思った。まあ、あまり此処でぐだぐだ言うのは止そう。
 今回、上映される8mmフィルム作品はかなり以前に制作されたものばかりで現在のヴァリエテで制作されている作品群とは少々異なる。今はヴィデオで作られた作品ばかりだからだ。現在現役の作家達の世界をお見せ出来ないのは少し残念ではあるが、今回上映される作品はどんな映画にも似ていない自分だけにしか出来ないという、ヴァリエテ本来のポリシーのもとで制作されたものばかりなのだ。しかも、東京では殆ど上映された事がないどころか、他者の目に触れる事が殆どなかった不憫な作品が何作か含まれている。非常に貴重な上映会になると思うのでお見逃しなく。また、このような機会を与えてくれたラ・カメラに感謝します。

山崎コメント
●vol54 1997 5ヴァリエテを視よ
 シネマ・ヴァリエテは静岡県浜松市で自主製作映画を製作・上映するグループ。活動歴は長い。ワタシは前身の「イメージ・マーケット」と名乗っていた時代から知っているから、かれこれ20年ぐらいになるのではないか。この集団(徒党?)から出た作家では平野勝之や長屋美保がいる。今回のプログラムは現在の代表である袴田浩之と前代表の稲垣宏行に「2時間以内でフィルムによる作品」を条件に組んでもらった。
「鳩は低く飛ぶ」 石田章 1987 8mm 25分
 黎明の街を何人かの若者たちが歩いている。酔っ払っているようだ。あたりは暗くて顔は定かにわからない。やがて公園に辿り着き、池に飛び込んでふざけている。じょじょに夜が明けてきて、男5人(含カメラマン)と女一人の集団だとわかる。女はなぜか鳥籠を持っていて、どうやらカメラマン=作者は場当り的に撮影して映画をつくろうとしているらしい。やや年配の男(小次郎)が女に抱きついたり質問をしたりして映画をおもしろくしようと努力している。だが、女の反応はイマイチはかばかしくない。最後に女はあきれたのか、拒絶的なコトバを吐いて映画は唐突に終わる。
 平野映画のような爆発的なダイナミズムには欠けるが、カメラの運動がおもしろい。黎明の空の群青色が美しく、そこから始まるであろうドラマへのドキドキするような期待に満ちている。夜が明けてあたりが明るくなってしまうと、映画の勢いも失速してしまうのは微笑ましい。どうせならもっと太陽が高くのぼってしまうまで撮って、全員が疲れて白々しく黙りこくってしまうまでひっぱればよかったのではと思う。
「Kid Elegy」 小次郎 1984 8mm 6分
 真紅の襦袢を纏った女のアングラ演劇的ひとり台詞映画。小次郎はもっと長めの映画にいい作品があったように記憶する。
「Telephone Thing」 杉田環 1990 8mm 7分
 カメラ=作者が部屋から外へ、河原を歩き、街の風景を撮っていく。さりげない、自己主張の少ない作品だが、それゆえに画面のあくまでもクリアな透明感と、浜松の陽射しの強烈な感触が印象に焼き付く。
「蛙」 上原昌子 1990 8mm 5分
 若い男とデートしている女。女はどう見ても男よりひとまわりは年上だ。やがて「きのう35歳になった」という女のナレーション。女は投げやりに路上に横たわる。作者は「Bye-Byeメール」という作品でPFF87に入選している。
「海に赤い花」 稲垣宏行 1993 8mm 20分
 川べりを歩く男。黒テープで自分の顔をぐるぐる巻きに覆う。夜の室内。その映像を見ている男が、今度はモニター画面に黒テープを貼る。全身を黒テープで梱包された男がベッドの上でのたうちまわる。ボンテージ感覚をベースに、夜の孤独な感触がひしひしと伝わってくる。暴れ出すこともなく、感情を吐露することもなく、夜の虚無的な時間をもてあまし、もてあそぶ主人公=作者。冷や汗だけがヌルリヌルリと流れ落ち続ける。不快と快の微妙な稜線を映画は辿っていく。
「蝉ヌード」 袴田浩之 1987 8mm 20分
 自宅破壊シーンがあまりにも有名。壁を斧でブチ破り、室内のものを窓から外へ投げ出す。母親が「やめなさい!」と来ても「うるせー」と大暴れ。最後はモヒカン頭の主人公=作者が、段ボール箱からもそもそ這い出して街へ出る。無責任な観客としては、ここから後が観たいのだ。いきなり家庭内暴力で始めて、そこから街へ出てどうするかの展開が観たい。べつにハリウッド映画ではないから、大掛かりなことをしなくてもいい。平野勝之『砂山銀座』のように、ただ道路に飛び出して車の流れを止めてしまうだけでもじゅうぶんな説得力を持つわけだから。
「其名不知」(そのなをしらず) 杉山正弘 1989 8mm 37分
 自転車でやってきた女子高生が路上にたたずみ、やってきたバスに乗って去るまでの長いショットから始まる。どうやら鏡を使った盗撮をしているようだ。近頃のルーズソックスのコギャルではない。ちょっと前の清楚な女子高生のたたずまいが好ましい。風に揺れるスカートや、無意識的な指の動きが自然でとてもいい。バス亭で待ついろいろな制服の女子高生。雨の日もあって、何日も狙っていることがわかる。水田の中の道を自転車でゆく2人連れ。稲の緑がコダクロームの発色で思い切り美しい。ここまでが前半。
 後半は作者が8mmカメラを回しっぱなし( 200フィートマガジンを使って13分の超ロングショット!)で女子高内部へと突入する。音楽担当の先生に会うという口実で「職員室はどこ?」とか「あなたもオルガン教室の生徒なの?」と話しかける。ついに校舎内に入ったカメラは、廊下に放置されて、最後には教師に見つかってしまう。
 アンケートでは「アダルトビデオと変わらず不愉快」との感想を書いた観客がいたが、全然違う。最初は映画の基本である「覗き視る欲望」に忠実にスタートする映画が、女子高潜入の半ばから、カメラそれじたいの運動の欲望に支配され、ついには作者の手さえ離れてしまうという映画なのだ。なお、杉山正弘は平野勝之の『愛の街角二丁目三番地』や『雷魚』の主演で有名だが、映像作家として『Cadenza』がPFF86に入選している。