「映写するのは俺だ」山崎幹夫
たくさんの映画を見てきて、いくつもの至福の映画体験というものを私たちは溜め込んできた。才能をギトギトに研ぎ澄ませ、金や労力をしこたま詰め込んでつくられた宝石のような映画がいくつもある。ところが、偶然に友人宅で見た20年前のどうということのない、ありがちなホームムービーに、不覚にも、これまでにないほど感動してしまうこともあったりする。ホームビデオではそんなことは起こらない。あくまでもホームムービーだ。どうやらそこには、映画の秘術の一端が隠されているらしい。
大川戸洋介の映画を漫然と見れば、そこにあるのはホームムービーである。自宅の庭にやってくる猫。室内でウロウロしている父。おでかけ先での記念写真的な映像。友人たちとの撮影遊び。まるで苦労して撮影したものではない。誰にでも撮れそうな映像の羅列だ。しかし断言してもいいが、誰にもこれは撮れない。微妙だが決定的な差がここにはあって、それが神話的な美しさを生み出している。
大川戸洋介は天才なのか。いや、天才というよりは神人と言いたい。本人のちゃらんぽらんな生き方とは別に、勝手に映画の女神さまが大川戸を庇護している、そんな感じがしてならない。フィルムによる作品でありながら、ここには原始人が焚き火の明かりで洞窟の壁に影絵をつくって遊んだ興奮と愉悦がある。リュミエールよりも以前、古代の秘術のそもそもが始まる前の映画。
アヴァンギャルドを自称した時点で、それはもうアヴァンギャルドではない。アンダーグラウンドを自称した時点で、それはもうアンダーグラウンドではない。現時点でどのサブジャンルの、どの潮流に当てはめてよいかわからない、それでいてスクリーンの前でタマシイの底が抜けるほど感覚を動揺させてくれるものがアヴァンギャルドでありアンダーグラウンドなのだ。
大川戸映画に不覚にも揺さぶられてしまったあなたは不幸だ。それは、映画の女神さまの衣服のスキマから乳房を見てしまったようなもの。映画世界の辺境にある底なし沼を覗き込んでしまうと、もう後戻りはできない。不幸だ。しかし、おそろしく甘美な。
山崎コメント
●vol50 1997 1大川戸洋介の撮るのは俺だ!
これまでさんざんワタシは「大川戸洋介は21世紀になってから評価される映像作家なのだ」と言い散らしてきた。でも最近、それはもっと先のことになるのではないかとも思っている。あらためて、10年ぶりに観た『撮るのは俺だ』は大傑作であった。だがやはり、この作品は世間一般はもとより、映像製作をたしなむ人々の間でも理会(理解でなく)されないだろうと思ったのだ。ワタシにしても、この作品を観てゆるゆると至上の快感を感じつつも、そのことを正確に観ていない人々に伝えるコトバを持っていないことを歯がゆく感じている。なんてったってラ・カメラでの山田・山崎企画上映の記念すべきvol 50なのだ。だからこそ大川戸洋介を上映したわけだ。ここにこそ、映画の女神さまが四畳半に降りてきてから囁き続けていた映画の最深部の秘術がある。ここにこそ、ハリウッドやボンベイが「おそれて近づかなかったところ」が示されている。でも、早すぎるのね。上映会としては赤字。わかっちゃいるけどやめられない大川戸映画。政治的な例えで言えば、大川戸が日本赤軍ならば、ワタシは社会党(もうないけど)なのだ。
「Red Suspense」 大川戸洋介 1985 8mm 8分
「期限切れフィルムのシリーズー 赤い庭」 大川戸洋介 1992 8mm 3分
「風流」 大川戸洋介 1992 8mm 6分
「撮るのは俺だ」 大川戸洋介 1983 8mm 60分